第216話 脂身



「ぷはっ」


 海面に頭を出すシルティ。

 首元の〈兎の襟巻〉は解除済みだ。久々に感じられる自然な空気がとても美味しい。


「はぁ……はっ……ぁあ……」


 顔面を横一直線に走る切創を指先でなぞり、シルティは蕩けるような笑みを浮かべた。


「んふふっ……死ぬかと思ったぁ……」


 尋常な矢程度なら余裕で弾くシルティの肌を突き破り、硬い骨すら斬った、最後の斬撃。正体はわからなかったが、もう少し威力があればシルティの頭部は輪切りになっていただろう。

 しかし、あれほど鮮烈な生命力を持つ魔物の窮余きゅうよの一策にしては、鍔元で受けた時の感触がやけに軽かった気がする。なんらかの要因で本領を発揮することができなかったのだろうか。防ぐことは叶わなかったが、愛刀で受けたことが威力の減衰に貢献したのかもしれない。


「ふ、ふふ……ぐ……いてててて……」


 骨に達した顔の傷も痛いが、なにより、全身が軋んでいる。

 爆発的なまでの初速度を得られる水撃式移動法だが、加速時は背中を膨大な質量で突き飛ばされ、停止時は固体化している筒の底にその勢いのまま叩き付けられるので、とにかく痛い。特に停止時の衝撃が甚大だ。今も肋骨や中足骨ちゅうそくこつひびが入っているような感覚がある。左鎖骨は完全に折れていた。

 痛みは好きだが、その都度骨を折っているようでは決着の瞬間にしか使えない。戦泳術に組み込むにはシルティの筋骨と皮膚をもっと頑丈にする必要がありそうだ。


「……っふぅーっ……」


 大きく息を吐きつつ、ぐるりと周囲を見る。だが、得られた視覚情報は空と海の青と雲と波の白のみ。視点が低いうえに波による凹凸があり、視程は酷く短かった。

 蛮族の戦士は総じて優れた方向感覚と方向感覚を持つが、さすがに水中では著しくにぶる。レヴィンが待機している地点の方向も、そこからどれくらい離れてしまったのかも、全くわからない。

 左手の指を咥える。しょっぱい。息を大きく吸う。肋骨が痛い。これもまたかてだ。最近どうも肺腑を酷使する機会が多い。胸郭をもっと強靭に育て上げるためにしっかりと味わう。なんだか気持ちよくなってきた。

 指笛を吹く。


 蒼穹に長々と響き渡る甲高い音色。長く一回の指笛は事前に取り決めた『目印求む』の合図である。しかし、負傷した身体で水に浮かびながらでは普段ほどの音量が出なかった。

 さて、レヴィンに届くだろうか。届かなければ先に再生を促進し、もう一度吹くことになる。

 さすがの蛮族も海原で立ち泳ぎをしながら骨折を治した経験はない。完治まで、どれほどの時間がかかるか。その間に、どれだけ流されるか。

 最悪の場合、また勘頼りで陸地を目指して泳ぐことになる。一年半ぶり二回目の海上遭難。正直、めちゃくちゃ嫌だなぁ……と、嘆くシルティの視界に、黄金色の光が映った。

 視線を向ければ、上空に浮かぶ豹の頭部。


 どうやら指笛は無事に妹の耳まで届いたらしい。

 あの珀晶製の頭部を目掛けて泳いでいけばレヴィンと合流できる。やはりそこまで離れてはいないようだ。しかし、今回はこっちに来て欲しい。

 再び指笛を吹く。短く四回。『大物が取れたので迎えに来て欲しい』の合図である。

 波に流されないよう、海中の景色を見て位置を調整しながら待つ。ついでに海水を飲んで生命力を補給。骨折の再生を少しでも促進しておく。

 しばらく時間を空けて、指笛をもう一度。自由自在に動く耳介を持つ琥珀豹は人類種よりも遥かに聴覚に優れる。定期的に音を届けていれば最短距離で来てくれるだろう。


 三度目の指笛を吹き終わった時、シルティの視界にレヴィンが映った。

 レヴィンの方は既に姉を捕捉していたらしい。自前の空中足場をぴょんぴょんと軽やかに跳び、迷いなく接近してくる。その顎にはシルティの〈冬眠胃袋〉が咥えられていた。細々こまごまとした荷物は別れた地点に置きっぱなしのようだが、さすがに高価な魔道具をだだっ広い海上に放置することははばかられたらしい。

 と、姉の顔面を真っ直ぐに横切る切創に気付いたのか、あるいは血の匂いを嗅ぎ取ったのか、レヴィンの長い洞毛ヒゲがぴくりと動いた。

 鞄を咥えたまま、ぐ、と短く唸る。

 一見すると無表情のようにも思えるが、他ならぬシルティにはわかる。

 また一人で殺し合いしたな。ずるい。と言っている。


「んふ。かっこいい海亀ウミガメと出逢っちゃってさ。ジョエルさんぐらいでっかいんだよ」


 レヴィンの鼻筋にしわが寄り、白い牙がほんの少し露出した。が、それ以上の文句は出なかった。

 陸上棲の四足歩行動物としてはレヴィンもかなり泳ぎが達者な方だが、さすがに革鎧を纏う姉ほどではないという自覚があるのだろう。嚼人グラトンと違って消耗した生命力を迅速に補給できないので、陸から離れた場所で〈兎の襟巻〉を使うと『珀晶生成』が使えなくなる可能性もある。我が儘を言っていられる状況ではない。


「今度、海の中で模擬戦しよっか」


 咥えていた〈冬眠胃袋〉を足元に降ろし、ヴォゥン。少し素っ気ない声色だが、嬉しそうな了承の声だ。


「よし。じゃ、ちょっと拾ってくるから、持ち上げるの手伝って」


 一言断ってから、潜水。

 両断した棘海亀はそれぞれを太い紐でくくり、流されないよう海底の岩に縛り付けてある。すぐに発見した。

 青い世界に漂う海亀の半身二つ。

 固定を解除したのち、まずは上半身を掴み、全力の遊泳で持ち上げる。


(んぬッ)


 物凄くきつい。治りかけの肋骨が悲鳴を上げている。ずくんずくんという脈を持った痛み。一拍ごとに身体が強くなっている気がして気分がいい。


「ぶはっ」


 海上へ顔を出すと、レヴィンが海面すれすれの高さに足場を生成してくれていた。

 固定するのに使っていた紐をレヴィンに渡す。レヴィンがそれを咥えて引っ張ると同時にシルティが下から押し上げ、棘海亀の半身を水揚げすることに成功した。下半身も同様にして回収する。ちなみに、最初に〈永雪〉で刺して獲った魚は戦闘中の余波で粉々になってしまったので、今回の漁果は棘海亀のみだ。


「よっ」


 シルティ自身も足場に上がり、頭と髪を振り回して脱水する。レヴィンは興味深そうに棘海亀を観察し、すんすんと匂いを嗅いでいた。初めて見る獲物に興味津々である。


「ちょっと待っててね」


 レヴィンの荷物から清潔な布を取り出し、〈永雪〉の全身を丁寧にしっかりと拭う。真銀ミスリルびることのない金属だが、濡れたままにしてはおけない。愛ゆえに。

 本音を言えば柄も取り外して交換したいところなのだが、さすがに無理だ。柄の予備はいくつか持ってきているとはいえ、毎日交換するほどの数はない。また、陸地ならともかく、海上という環境では僅かな時間とはいえ柄を外すのは避けたいところ。戦闘不能な状態になるわけにはいかない。申し訳ないが、〈永雪〉に我慢して貰うことにした。

 妹に預けていた鞘を受け取り、納刀。代わりに不銹ふしゅうのナイフ〈銀露〉を引き抜く。


(さ、て、と)


 棘海亀の姿を見る。

 首を刎ねて綺麗に殺したいところだったのだがそんな余裕はなく、胴体を真っ二つに両断してしまった。血はほとんど抜け切っており、下半身側の断面からは長い腸がこぼれている。いくつか齧ったような跡もあった。シルティが見ていないところで魚たちがついばんだのだろう。

 ひっくり返し、棘海亀を仰向けの体勢に。すると、鰭が空気を掻くように動いた。爬虫類は哺乳類けものと違い、頭を落としたとしてもしばらくは筋肉がよく動くのだ。魔法を使われる恐れはないが解体の邪魔なので、まずは四肢を根本で斬り落とす。

 目の覚めるような真っ赤な筋肉。持久力に富んでいる証拠だ。

 海水で洗い、右の前鰭を鱗ごと小さくいで、ぱくり。


「んっ。うん。美味しい」


 やや臭みがあるものの、旨味の豊富な肉だ。少し煮た方が美味しいかもしれない。

 左前鰭を妹に渡す。レヴィンは嬉しそうにそれを咥え、頭を下げて前肢で押さえ込み、顔を傾けてジャクジャクと裂肉歯おくばで咬み始めた。ご、る、る。かすかに喉が鳴っている。レヴィンの舌にも合う味だったらしい。

 解体は下半身から。背甲と腹甲の境目の鱗間に刃を入れる。生前は生命力の影響もあってかなり硬い斬り応えだったのだが、死後ならばシルティの愛に敵うはずもない。さくさくと斬れる。続いて皮膚との接合部を丁寧に裂き、腹甲をぱかりと開けた。

 改めて、物凄い大きさの甲羅だ。しかし、持ってみると意外なほどに軽かった。触った感触もなんとなく柔らかい。やはり水棲動物の身体ということだろう。よく煮込めば嚼人グラトン以外でも食べられるかもしれない。

 零れ出ている長い腸を持ち上げ、切り開いて内容物を海に捨てる。よく洗い、小さく切って味見。


(うーん……これは……塩揉みしたいな……)


 臭みのあるぬめりがあって、生食ではあまり美味しくはない。レヴィンにも少し食べて貰ったが、すぐに興味を失い、前鰭の賞味に戻った。

 時間があれば丁寧に処理をしてもいいが……今回は残滓として処分してしまおう。膀胱と一緒に丸ごと海に捨てる。魚や甲殻類たちへのお裾分けだ。

 とその時、海面に黒いひれが現れ、すぐにまた潜った。血の匂いを嗅ぎ付けたのか、早速サメが寄ってきたようだ。

 海原を泳ぎながら鮫と水中で殺し合ったのが懐かしい。棘海亀が獲れていなかったら海に飛び込んで斬りに行っていたところだが、今は解体を優先だ。

 さて、腸を食べないとなると、下半身の可食部は股関節の周辺ぐらいになる。

 甲羅と一体化している脊椎と骨盤の接続を斬り、分離……と。


(ん?)


 棘海亀を棘海亀と仮称した所以ゆえん、十字に伸長した甲羅の棘の根本に、周囲とは明らかに様子の異なる組織があった。半透明で淡黄色、触ってみるとぷるぷるしている。筋肉というより脂身のような見た目。

 棘部分を縦に裂いてみると、内部は中空構造になっており、この脂身がぎっちりと詰まっていた。


「ふむん」


 上半身も解体。大きくて目立つ胸筋を丁寧に外し、気管と食道を喉元で切断。心臓や肺腑、肝臓、消化管を取り出した。味見。心臓、肺腑と気管、肝臓は美味しい。消化管はやはり臭みがあったが、腸よりは比較的マシだ。こちらは食べることにした。

 ここまで解体すれば、棘海亀の骨格が完全に確認できる。背甲の裏側はぷるぷるとした脂の膜があり、肋骨由来の縞模様が透けて見えた。脊椎部分は盛り上がり、肩甲骨と繋がっている。そして、上半身の棘にも奇妙な脂身が詰まっていた。


「うん。やっぱり四肢竜じゃないな」


 竜ならば必ずあるはずの中肢帯ちゅうしたいが見当たらない。亀のように見える四肢竜という可能性はなくなった。

 そして、魔法を複数宿すのは竜のみだ。

 シルティの動きを止めた雷撃と、シルティの頭部を輪切りにしかけた斬撃、どちらかは魔法ではなかったということになる。

 シルティは再度、顔面を指先でなぞった。既に再生は進んでおり、ほんの少しの傷跡しか残っていない。


(んー……最後のあれが万里一刀ばんりいっとうならじゃないだろうし……)


 万里一刀。

 どう見ても刃物うでの届かぬ距離だというのに、これぐらい斬れて当然だ、と理屈を超えて心の底から確信できてしまう、そんな狂人のみに許された傲慢な奇跡。

 これはなにも人類種特有の現象わざではない。野生の魔物であっても形相切断や遠隔強化に至る個体がいるように、強大な魔物の才ある個体が生きるうちに意識のたがを外して遠近を超越することはあるのだ。

 しかし、万里一刀は『斬れて当然』の意識の下に生まれる究極の芸術。その斬れ味は当然のように超越的なものになる。〈永雪〉を挟み込んだとはいえ、正真の万里一刀を浴びた顔面がこの程度の負傷で済むとは思えない。

 また、斬撃の軌跡も妙だ。万里一刀は遠近を超越する現象であって、斬撃を飛ばすものではない。わかりやすく言えば、刀身をそのまま延長するようなものである。あの瞬間、棘海亀は身体を回転させていた。あの動きのまま万里一刀を成し遂げたのならば、斬撃はシルティの正面からではなく側面から来るはずだ。


 情報を統合すると。

 シルティを痺れさせてくれたあの雷撃は魔法ではなく、最後の斬撃こそが棘海亀が宿す魔法であった可能性が高い。


「……そういえば、クィントンさんがそういう魚がいるって言ってたような」


 ノスブラ大陸からサウレド大陸へ向かう船の上で親しくしてくれた壮年の船乗り、チェスター・クィントンが語っていた内容を思い出す。

 濁った川にゃ雷を発生させる魚がいるんだぜ。でっけえナマズの仲間だ。昔、国のお偉いサンがそれを魔法だと思って調べたんだがよ、詳しいとこはよくわかんねえが、違ったみてえだな。つまり、魔法に見えて魔法じゃねぇってこった。残念だぜ。魔物なら高く売れたのによ。ま、嬢ちゃんも汚ぇ川に入るときゃ気をつけろや。ちなみに、俺ぁ食ったことがある。中に白くてぶよっとした脂があってな。多分あれが雷を作るんだろうな。味がしねえんだ。くそ不味いぜ。

 とのこと。

 白黄色で半透明な脂身をぷにぷにとつっつく。

 薄く削ぎ取って、口へ運ぶ。


「……これかぁ……!」


 どうやら鯰以外にも、そういった生物は存在するようだ。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る