第208話 気落ち
両断された珀晶製の兜が空気に溶け、内部に収まっていた琥珀豹の頭部が地面に落ちる。落下の衝撃で頭蓋の断面がずれ、血と脳がでろりと漏出した。
戦闘の余韻が
レヴィンは息絶えた琥珀豹の上でぐたりと脱力し、細くも深い呼吸を繰り返しながら喉の傷の再生促進を開始。シルティは〈永雪〉を地表スレスレまで振り下ろした体勢のまま、必死に呼吸を整える。
「はぁっ、はっ、は、ふっ、はぁ……っは……」
胸が痛い。喉が張り付く。耳の奥で拍動が響いてうるさい。
だが、今のところ持続できる時間が極めて短い。さらに、事後の凄まじい息苦しさが問題である。使い所を間違えれば、動けなくなるか、心臓が破裂するか。いずれにせよ死ぬだろう。
効果を弱めて持続時間を伸ばすような器用なことはできない。限界まで膨らませた肺腑を胸郭内で圧縮して心臓が止まるほどに握り潰す、という乱暴極まりない予備動作から始まるため、加減のしようがないのだ。
「……っふぅー……」
ならば、身体を慣れさせるしかない。
幼少の頃から眼球を鍛え続けた蛮族が強く興奮すると涙を分泌する機能をほぼ失うように、何度も何度も繰り返しこの
心臓と呼吸を落ち着かせたシルティはすっくと立ち上がり、そして口元を左の上腕で拭った。
(ん、出てない。よしっ)
初めての時は鼻血を噴出したのだが、今回は出ていない。
鼻腔の毛細血管が強靭になったのか、あるいは血圧の上昇が初回ほどではなかったのかは定かではないが、シルティの主観では紛れもない進歩である。
続いて、右拳を確認。琥珀豹の生成した盾に拳を強かに打ち付けてしまい、人差し指から薬指の
戦闘の
再生促進を苦手とするシルティにとって、これはかつてない快挙である。
が。
(なんでこんな早く治せたんだろ……?)
残念なことに、極度の興奮に支配されていたせいか、どのような意識で再生を促進させたのかよく覚えていなかった。
首を傾げつつ、左腕を見る。
グズグズに
「んん……」
集中。再生の促進を意識。
ヂュクヂュクと奇妙な音を立てて傷口の肉が盛り上がり、露出していた赤や白が埋まり始めた。
しかし、主観的には以前とそう大差のない手応えである。
(んんーん……なんか掴めそうな気がしたんだけどな……)
シルティは溜め息を吐きつつ、右手に握る〈永雪〉を一閃。肘関節の少し先で左腕を斬り飛ばした。
噛み解された筋肉の内部に砕けた骨が散らばっている。これを完治させるのは相当な手間だ。一度切断した方が結果的に早く治る。
愛刀をひゅるんと回して軽く
左の腋の下で挟んで刀身を拭ったのち、丁寧に納刀する。
「レヴィン」
呼び掛けると、レヴィンは顔を上げずに小さく喉を鳴らした。
僅かに困惑の色を孕む唸り声。シルティはレヴィンの
鉤爪による数え切れないほどの裂傷、長い犬歯が深々と突き刺さった喉。真っ赤な血が被毛を汚しており、見た目こそ痛々しいが、こういった傷の再生は慣れたもの。問題にはならない。
だが、体内は少し深刻そうだ。とにもかくにも初撃がまずかった。全力疾走中の不意の正面衝突。小柄なシルティには難しい種類の暴力により、レヴィンの骨格には無数の
蛮族の戦闘養育はまず局所的な再生の促進を重視するものだ。シルティ自身も故郷ではまず切り傷の意図的な再生から教わったし、レヴィンにもそういう教育を施してきた。だが今回の衝突は、身体の広範囲を一度に痛めつけている。
レヴィンの声に滲む困惑は、どこに再生の意識を集中させればいいかわからないためだろう。実を言うとシルティにも覚えがある困惑である。父ヤレックに初めて全身をボコボコに殴られたとき、あらゆる部位が痛すぎてどこから治せばいいのかわからなかったものだ。
シルティは妹に寄り添うと、左腕の断面を口元へ差し出した。
「飲んで」
言われるがまま素直に舌を伸ばし、滴り落ちる
「まず喉の傷かな。次に頭、それから
姉に示された手順に則り促進を開始したレヴィン。広範囲の負傷とはいえ肉体的な欠損などはないので、太陽が少々傾く程度の時間で完治できるだろう。
シルティもまた改めて再生を促進させ、左腕の切断面を治療、出血を止めた。その後、レヴィンの下敷きになっている琥珀豹の死骸を見つめる。
(一対一だったら殺されてたかな)
シルティに遅れない速度域。会心の左逆袈裟を見事に防ぐ技量。単純な身体能力と体重の差。
最後のあの瞬間の時間分解能は身の丈以上の極端な
結果的には姉妹の勝利で終わったが、備える暴力の質では負けていたように思う。
レヴィンが動きを止めてくれなかったら、あるいはレヴィンが視線を切ってくれなかったら、最終的に命を噛み砕かれるのはシルティの方だっただろう。
シルティは〈永雪〉の柄を
「次は一対一でやりたいなぁ……」
レヴィンがぴくりと耳介を揺らし、姉の横暴に恨めしそうな視線を送る。
成熟した琥珀豹にはまだまだ敵わないと自覚したレヴィンだが、蛮族にとって敵わないことは望まない理由にはならない。
「んふふ。次の次は譲るからさ。いいでしょ?」
シルティは妹の鼻面をこしょこしょと
◆
シルティはしばらく身を隠すことにした。
蛮族は己の肉体を万全の状態に保つことを至極当然とする。安全に再生させられる当てがあるならば、わざわざ隻腕の身で猩猩の森を出歩くようなつまらないことはしない。
遭難していた頃は安全を確保するのも難しかったが、
再び空中へと登り、間違っても蒼猩猩たちが届かぬ高さまで到達すると、広い部屋を生成。
ただいたずらに時を過ごすのは
幸い、手元には琥珀豹が一匹分と綺麗に解体した旬の
元々、美味しいことが確定している鬣鱗猪の方はしばらく冷やしながら寝かせるつもりだったので、先に琥珀豹を食べることにした。
琥珀豹の死骸。港湾都市アルベニセに持ち帰れば
再びローゼレステに水を頼み、琥珀豹を解体。便利使いしすぎで申し訳ないので、次に地上で水場を見つけたら身体を清めてから呼び出し、氷点下ウイスキーをたっぷり振舞うことにしよう。
片手ではなかなか難儀したが、レヴィンに手伝って貰いながら腹を裂き、内臓を抜いて
全体的に鮮やかな赤身肉。
まずはよく発達した前肢の肉を薄く削ぎ、生で食べる。
「……うーん!
解体中の時点でわかっていたのだが、凄まじい獣臭と生臭さだ。もはや暴力と表現すべきかもしれない。思っていたより硬くはないが、血の滴る状態で食べたというのに少しパサつく。脂というものを一滴残らず絞り出したような歯応えである。
続いて、大きめに切り取った一切れの肉をレヴィンにひょいと放る。レヴィンはそれを空中で口内へと迎え入れ、一度咀嚼してからごぐりと飲み込んだ。
途端に硬直。鼻筋に
その後、レヴィンはなぜか自らの前肢を注視し、気落ちしたように
「んふっ。ふっふっふ」
シルティは愉快そうに笑いながら琥珀豹の前肢をもう一度削ぎ、口へと運ぶ。むぐむぐと臭い肉を咀嚼しつつ、妹の口元を優しく揉みしだく。
「気持ちはわかるよ」
シルティも、初めて自分の肉を食べた時は『私ってあんまり美味しくないんだな……』と凹んだものである。
◆
五日後、早朝。
シルティは両腕を前に伸ばし、手を何度か開閉させた。
指先の感覚に問題なし。
そのまま両の手のひらをぴたりと合わせる。
両腕の長さに差異なし。
完全に元通りだ。
(……前よりちょっと早くなった?)
が、やはり、自覚できるような理由がない。
シルティはしばらく首を傾げていたが、結局わからなかったので、まあ早くなったのはいいことだと割り切った。
海岸線へ視線を向ける。水平線がよく見えた。
かつて漂着した入り江はまだまだ先だ。
「よし。行こっか」
シルティはレヴィンに近寄ると、その背中の〈冬眠胃袋〉をぽすぽすと軽く叩く。
「今日のご飯は絶対美味しいよ。楽しみだね!」
ヴォゥン。実に嬉しそうな肯定の唸り声。
この五日間の食料は琥珀豹の肉で賄っていたので、鬣鱗猪の肉が丸ごと一匹分収納されている。冷蔵状態でじっくりと寝かせた旬の鬣鱗猪、賞味するのが実に楽しみだ。
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