第209話 日頃の感謝



 九日後、ちょうど正午の頃合い。

 フェリス姉妹は太い木の陰に身を隠しつつ、懐かしい光景を遠目に観察していた。


 砂浜を備える大きな入り江。数か所が不自然に崩れ、溝のようなものが出来ている。

 遭難していた頃、美食への渇望に負けて製塩を行ない、水を飲みにやってきた蛇角羚羊じゃかくレイヨウに初代木刀を圧し折られ、そして半水棲六肢竜の恐鰐竜デイノスに食われかけたあの砂浜だ。

 あの日、恐鰐竜デイノスが突入したことで大きく形状を変えていた入り江だが、さすがに一年以上も経てば波風の作用で元通りになるらしい。


(ん。足跡だ)


 なだらかな白い砂浜に新しそうな足跡が残っている。迷いのない一往復分。指痕ではなくひづめなので、琥珀豹や雷銀熊らいぎんグマのように肉球を持つ動物ではない。また、副蹄ふくていがしっかりと接地しているので鹿シカ羚羊レイヨウの類でもない。

 シルティの知識の中では鬣鱗猪りょうりんイノシシあしが最も合致する。足跡の行く先は砂浜を削る小川。蛇角羚羊がそうだったように水を飲みに来たのだろう。

 猩猩の森では湧き水は貴重なので、陸上動物が喉の渇きを癒すためにこの入り江を訪れることはそれなりに多そうだ。

 そして、水場を貴重とするのはシルティたちも例外ではない。


(んー……)


 研ぎ澄ませた霊覚器を凝らし、大海原を広く見つめる。精霊の目はそう遠くまで見通せるわけではないが、空中から水中を探るならば物質眼球より遥かに役立つ。波打ち際で泡立つ乳白色、浅瀬の美しい翡翠ひすい色、そして沖合の深い紺碧を背景に、虹の揺らぎを主張する小さな生物の姿がぽつぽつと見えた。

 恐鰐竜デイノスの気配は感じられない。まあ、シルティよりも竜の方が遥かに鋭敏な感覚を備えているので、一方的に捕捉されている可能性はあるが……今のシルティならば接近されても接敵前に察知するくらいはできるだろう。


「残念だけど、近くには居ないっぽいな。まあいいや。レヴィン、ちょっと寄っていこっか」


 シルティが声をかけるとレヴィンは洞毛ヒゲを揺らし、低く伏せた状態から速やかに立ち上がった。耳介を忙しなく動かし、山吹色の目を爛々と輝かせながら、砂浜をゆっくりと歩み出す。

 恐鰐竜デイノスに食われかけた記憶はレヴィンの脳髄に深く刻み込まれている。当時は恐怖しかなかったが、今の彼女は立派な蛮族だ。竜への好意と憧憬がしっかり芽生えていた。

 シルティは少し足を速めて妹に追い付くと、その背中の〈冬眠胃袋〉をぽすぽすと叩く。


「いつ襲ってきても逃げられるように、荷物はに置いとこう」


 ヴォゥン。

 唸り声と共に魔法『珀晶生成』が行使され、晴れた砂浜に大きな箱が浮かんだ。続けて出現した飛び石状の階段を駆け上り、フェリス姉妹は背中から分離した荷物を収納する。

 シルティはさらにハーネスと革鎧も外し、鎧下や肌着さえも脱いで一糸纏わぬ全裸になると、念のために〈永雪〉だけを持って砂浜に降り立った。

 ぐるりと視線を巡らせてから、具合が良さそうな位置を手で指し示す。


「ごめん、ちょっとあの辺に刀掛かたなかけ作ってくれる?」


 姉の要請に従い、レヴィンが黄金色の刀架台を生成する。


「ありがと」


 シルティは感謝を告げると、レヴィンが少し間延びした高い声を上げた。


「んー? なーに?」


 これは特になにかを要求したいときの唸り声だ。

 シルティが視線を向けると、レヴィンは行儀のいい三つ指座りエジプト座りの体勢を取り、こちらをじっと見つめていた。


 表情はつんと澄ましている。

 だが、シルティにはわかる。

 これはめちゃくちゃわくわくしているのを必死に取りつくろっている顔だ。

 どうやら水遊びがしたいらしい。

 シルティは苦笑を漏らしつつ、まだまだ可愛い妹の顎下をくすぐった。


「行ってきていいよ」


 姉の許可を得た琥珀豹はすっくと立ちあがると、威風堂々の歩みで波打ち際へ向かい出した。


「ふっふ」


 後ろ姿がこの上なく嬉しそうである。


(さて)


 和んでばかりもいられない。

 シルティは愛刀〈永雪〉を刀架台に預けると、砂浜に湧き出す源泉の周囲をジャグジャグと掘り始めた。





 寄せる白波から機敏に逃げ、返す波を抜群のキレで追いかけ、波打ち際を前肢で叩き潰し、そのままの勢いで突進。レヴィンは真っ白な泡を力任せに掻き分け、結構な轟音を響かせながら身体を沈めた。

 水面に出ているのは耳介を後ろ向きに倒した頭部と腰部がほんの少し。安定した体勢を維持して滑るように泳ぎ始めた。四肢ではなく身体と尾を上下左右に波打たせることで速度を生み出している。これはシルティが教えたわけではなく、レヴィンが実践と本能により磨き上げた独自のものだ。猫類動物特有の柔軟な骨格があってこその泳法と言えるかもしれない。


 太陽が拳一つ分傾くほどの間、飽きもせずに浅瀬を泳いでいたレヴィン。

 やがて楽しくなってきたのか、沖合の方向へ舵を切った。

 充分に深度のある位置まで到達すると、唐突に潜水を開始。

 三拍ほどの間、海は静かなものだったが、突如として爆発したかのように水飛沫が上がった。


「おおっ」


 海面から飛び出した黄金色の巨獣が空中に弧を描く。

 放物線の途中で自ら生成した空中足場に危なげなく着地。身体の脱水もしないまま胸郭を拡縮させ、呼吸を整えている。天気は快晴だが季節は晩秋。水温はそう高くないはずだが、堪えた様子もない。実に楽しそうだ。


「おおーぅ」


 とっくの昔に自分の作業を終えていたシルティは砂浜の上に胡坐をかいて泳ぐ妹を眺めていた。

 生命力の作用により超常的な身体能力を発揮できる魔物たち。走行速度も遊泳速度も尋常な動物とは隔絶したものを誇る。泳ぎの上手い種であれば水中で加速して空中に飛び出すくらいは容易い。シルティも自分の身長分くらいならば水面で跳躍できる。

 だが、まさかレヴィンほどの巨体で可能だとは。


「ふふ。上手くなったなぁ」


 笑い混じりの感嘆を漏らしつつ、シルティは立ち上がった。

 波打ち際まで進み、大きく息を吸って胸を膨らませ、両手を口元に添える。


「レヴィーン!」


 大声で呼びかけると、レヴィンは耳介をぴくりと動かして陸に視線を向けた。


「そろそろ終わろー!」


 腕を大きく振って合図を送ると、これを見て取った琥珀用は軽やかに跳躍。頭を真下に向けた美しい姿勢で水面へ、僅かな飛沫と共に青の世界に消える。ほんの数拍ほど潜水時間を経て、無事に砂浜まで辿り着いた。

 濡れた身体を勢いよく震わせ、脱水。


「楽しかった?」


 姉の問いかけに応えず砂浜を歩み、胸元にずどんと頭突きを見舞った。しょっぱい。

 シルティは砂浜をえぐりながらそれを受け止めると、両腕を最大限に使ってわしゃわしゃと撫で回す。被毛の弾性で弾かれた無数の水滴が陽光を浴び、小規模な虹を生み出された。

 ひとしきりスキンシップを楽しんだのち、少し移動。行き先は砂浜の源泉だ。

 シルティが深く掘り起こしたため、砂浜には大きな水溜まりができていた。さすがにレヴィンが沈むほどの水量はないが、洗うには充分な施設だ。


 レヴィンを水溜まりに伏せさせ、抱き着くようにして被毛を揉み洗い。レヴィンは気持ちよさそうに目を閉じながらレロンレロンと舌を出して水を舐めている。

 妹の身体を洗い終えたらシルティ自身も身体を清め、荷物から取り出した衣類も洗濯しておく。


「よしっ」


 久方ぶりに清潔さを取り戻した。ならばやるべきことは一つ。ここまでの旅路で何度も頼ってしまったローゼレステに感謝を伝えなければならない。が、衣類が乾くのを待っているのも面倒だ。

 シルティは裸体に直接ハーネスを巻き付けて〈冬眠胃袋〉を背負い、『熱喰ねつばみ』を発動した。作業中もちょくちょく魔術を再起動させていたので、内部の温度は氷点下に維持されている。

 その後、レヴィンに頼んで少し高さを稼ぎ、契約錨を使ってローゼレステを呼び出した。


【お久しぶりです、ローゼ】

【……ああ】


 フェリス姉妹の姿を見て、どこか安堵したような雰囲気を漂わせるローゼレステ。

 前回と前々回は血塗ちまみれの再会だったため、警戒していたのかもしれない。


【……お前、今日は、動くからがないな】

【動く殻? ……あ、革鎧ですか? ちょっと濡れちゃいまして、脱いでるんです】

【ああ……。外せるのか。乾かせば水を取ればいいのか?】

【あ、できます? そうしてくれると嬉しい……ですが、今日はそのために呼んだわけでは】

【……なんの用だ?】

【最近、力を貸して貰ってばかりなのと、そろそろが近いので。今日は日頃の感謝を込めて、たっぷりお酒を振舞おうかと】

【そ。うか。まあ。当然だな】


 青虹色の球体がぶるんと震えた。ぶっきらぼうな言葉遣いではあるのだが、喜びを隠し切れていない。

 シルティは内心でローゼを可愛らしく思いつつ、〈冬眠胃袋〉からキンキンに冷やされたウイスキーの瓶を取り出した。珀晶で構成されたテーブルの上に置き、手でうながす。


【どうぞ】

【ああ】


 ローゼレステがうきうきした様子でガラスの瓶を透過した。


【ぉっ……んぁぅ……はふぅ……】


 若干喘ぎ声のようにも聞こえる声を出しつつ、ぷるぷると震え始める。


【まだまだ冷やしてありますので! 思う存分浴びてください!】

【……ぁあ……ぅん……】


 既に受け答えが上の空だ。

 やはり水精霊ウンディーネにとって、氷点下の液体に浸かるというのは相当に気持ちの好い行為らしい。

 シルティは半日ほどかけ、持ち込んだウイスキーの酒瓶が全てぬるくなるまでローゼレステに提供した。


 なお、レヴィンはまた泳ぎに行った。


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