第207話 勿体ない



「話したの、覚えてる?」


 頬の傷の再生を促進しつつ、シルティが短く問いかける。

 言外の質問の内容は『琥珀豹との戦い方』についてだ。

 猩猩の森の深部へ踏み込むに当たり、琥珀豹との遭遇は当然備えるべきイベントである。姉妹はあらかじめ対琥珀豹戦の手順をいくつか議論していた。それぞれが一対一で殺し合う場合の戦法はもちろん、二対一での戦法もだ。

 二人揃って真正面からの突進をしかけ、魔法の行使を待ち、それを凌いだあとに散開、片方が常に相手の視界外を陣取る……というのがまず一つ。これは呆気なく破られてしまったが、まだまだ手は残っている。


使がいいと思う」


 レヴィンが賛成の唸り声を上げた。どうやら姉と同意見のようだ。


「使えるのは一回だけかな。タイミングは任せるね」



 息を静かに吸い。

 止めて。

 跳び出す。

 示し合わせたように、再度、姉妹揃っての踏み込み。

 しかし、今度はシルティが著しく突出した。

 シルティが先ほどより速いわけではない。レヴィンの進路が最短距離ではないうえに、遅いのだ。


 珀晶は誕生した座標に固定されるため、琥珀豹の魔法を能動的な攻撃手段として運用するには相手の慣性が必要になる。また、港湾都市アルベニセで知られている限り、普通の琥珀豹はかせのような閉じた形状の珀晶は造形しないという。自然界では拘束具を見る機会などないため、くくるという発想自体が浮かばないのだろう。

 要するに、ゆっくりと動くのならば、『珀晶生成』で害をこうむる可能性は低い。

 今日、レヴィンは我が身に宿る魔法の瞬発力と凶悪さを初めて体感した。結果は全く反応できずに無様な正面衝突である。肉体的な負傷も鑑みて今の自分ではどう頑張っても躱せないと判断、自らの速度を制限することにしたらしい。


 一方、シルティの判断は違う。

 頬の肉をいくらか失ったが、もう少しだった。となれば、次こそはとたぎるのが蛮族という動物である。

 特に、速さとキレをおのどころとする彼女は相手の攻撃を躱すことに無上の歓喜を覚えてしまう。刃物愛好を先天的性癖というならば、これは後天的性癖。抑えられるはずもない。先ほどと同様、真正面からの肉薄を選ぶのは当然と言えた。


 鋭利な踏み込みを披露するシルティを鼈甲べっこう色の眼球がとらえる。

 尾を切断したことで敵として見做してくれたのだろう、その視線には明確な警戒と害意が込められていた。

 一方、先ほどの取っ組み合いで大きな脅威ではないと判断されたのか、レヴィンに対する警戒割合は幾分下がったようだ。視界には収めているものの、さほど注視している様子はない――


 脳髄を貫く死の気配。

 シルティは右足を前に伸ばして大きく開脚し、重心を瞬時に落とした。半瞬の差で出現した黒黄色の凶器が頭部を捉える。生成されたのは鋭利な鎌型の珀晶。おそらく琥珀豹の鉤爪を模したものだろう。紛れもない切断力を宿したそれがシルティの前頭骨ぜんとうこつを滑り、毛髪が付いたままの頭皮が指二本分ほどの幅でぎ飛ばされた。

 いやはや本当に速い。また躱し切れなかった。次こそは。

 噴出した血液が慣性に呑まれてうなじへ流れるのを感じつつシルティは右足を酷使、地面を粉砕してさらに加速する。


 琥珀豹が動く。

 沈身。屈曲させた四肢に蓄えた力を解放し、真正面から迎え撃つように突進した。

 どうやら単純な魔法行使ではシルティを捉え切きれないと判断したようだ。シルティとしてはもっと妨害して欲しかったのだが、仕方がない。今後も躱す機会はあるだろう。

 それにしても、野性味溢れる勇猛な頭突きである。動作の予兆を殺すことを念頭に置く人類種の武術とは対極的。その身に宿す魔法と違って非常に読みやすい。しかし、琥珀豹という魔物の身体能力は圧倒的だ。技術足捌きではなく筋力に任せた強引な加速でシルティにも匹敵する速度に到達する。


 同等の速度域における正面衝突。主観的速度相対速度は己の最高速度の倍。彼我の距離はまさしく一瞬で消費される。だが、シルティの意識は自身と相手の動きをむしろ鈍間のろまだと感じていた。

 重竜グラリアを殺し、ヴィンダヴルにボコボコにされ、雷斬りに挑戦して失敗、ローゼレステと殺し合って、鎚尾竜アンキロも狩った。小規模な災害にも等しい暴力たちとの逢瀬がシルティの自信を増長させ、その戦闘能力を爆発的に引き上げている。

 どれも殊更に速い存在だったためか、特に時間分解能の向上が飛躍的だった。

 だが、どうも意識の加速に身体が追従できていない感覚がある。近頃では自分の身体の鈍さが嫌になるほどだ。


 もっと速く動けるようにならなければ気持ちよくなれない。

 煮え滾る渇望が蛮族の身体を満たした。

 肺腑は既に限界まで空気を蓄えている。

 喉を締め、内肋間筋ないろっかんきんを収縮。腹筋を絞り、革鎧の内側で腹部をボコリと凹ませる。持ち上げられた横隔膜が固められた胸郭の内圧を超常的に高めた。


 一瞬、シルティの心臓が停止する。

 意図的に引き起こされた不整脈。

 停滞を取り返すように心筋が働き、限界を超えた拍動で全身に灼熱を送り出した。

 意識の加速に血流を追いすがらせる。血圧が跳ね上がり、削ぎ飛ばされた前頭部の創面そうめんから血が噴き出す。

 嗚呼。身体から熱量が漏出してしまう。

 普段とは異なる無意識的な意思を帯びた生命力が世界に容認され、シルティの頭皮が瞬時に完治した。


 生涯最高効率の再生を成し遂げたことにも気付かず、シルティは前に出した右足で地面を踏み締める。獲得した垂直抗力を筋骨に沿わせて脊椎へ。左足を踏み出すと同時に肩甲骨を伝わせて上腕へ。両腕をしならせ、銀煌の左逆袈裟を放った。

 狙いは眼前で掻撃そうげきを繰り出す琥珀豹の右前肢。

 制作者シグリドゥル使用者シルティ、二名の愛を帯びた斬撃は六肢動物の体表さえ斬り開く。遠隔強化によって超常の強度を宿した珀晶であってもその刀身を弾くことは叶わない。

 それは間違いなく確かだった。

 だが、シルティの殺意は届かなかった。


 鈍い衝突音が響くと同時、両の拳を襲う激痛。

 見れば、岩石を模したような珀晶の塊がシルティの拳を受け止め、何本かの基節骨きせつこつをぐしゃりと潰し砕いていた。


(おおっ)


 シルティは思わず感心してしまった。

 まさか刀身を避け、太刀柄たちづかを把持する両手のみを潰すとは。ある種の拳法に通じる対武器術理。刀剣の構造を理解していなければあり得ない対応だ。

 もしかしてこの個体、人類種と殺し合った経験が豊富なのだろうか。素晴らしい。

 あるいは単純に初見で看破したのかもしれない。なおのこと素晴らしい。

 いや、感心している場合ではない。

 こちらの攻撃は防がれてしまった。相手は既に攻撃へ移っている。


 シルティから見て左方から襲い来る、薙ぎ払うような掻撃。剥き出しになった五本の鉤爪がくっきりと見える。これは無理だ。回避する時間はない。シルティは咄嗟に肘を畳み、肩を突き出しつつ身体を旋回させ、右肩に配置された飛鱗〈撓覇とうは〉を辛うじて盾にした。


「ぐがッ!」


 装甲飛鱗なめし革の下地、肩の筋肉と骨。

 琥珀豹の一撃はシルティが用意した全ての緩衝材を容易く貫通し、頭蓋骨に包まれた脳を無慈悲に揺らした。眼前に散る火花。覚悟していてもなお意識が明滅する素晴らしい衝撃に感動を覚える。

 気付けば視界に森の下生したばえが映っていた。地面が近い。為す術もなく顔面を強打する。慣性に従って持ち上がる両脚を即座に畳み、顔面を中心として速やかに回転。小柄な体格を生かした受け身により衝撃の大部分をなすことに成功した。


 左肘で地面を突き飛ばし、低く跳躍。足で地面を捉えると同時に後跳、交錯の現場から距離を取る。拳の骨が酷く頼りなくなってしまった。握力の低下が著しい。だが、彼女が戦闘中に愛する得物を手放すことはない。手首を切断されても握り続けた実績がある。しかし、さすがにこの手ではまともな斬撃など望めない。

 一刻も早く再生せねば。殺し合いが

 両の拳に僅かに意識を向ける。

 その隙とも呼べないかすかな隙を、野生の感性は見逃さなかった。


 肉薄。

 シルティの肩口を叩く琥珀豹の両前肢。

 体格でも体重でも劣る蛮族の娘が耐えられるはずもない。シルティはぐしゃりと押し潰され、仰向けに倒された。重い。咄嗟に背中を丸め、強靭な頸筋けいきんを酷使して後頭部の強打を防ぐ。

 間髪入れず襲い来る咬撃。狙いは当然、喉元だ。仕留めに来た。

 シルティは〈永雪〉を握っていた左手に自由を与え、必殺の咢へと挟み込んだ。


 容赦なく閉じられる顎。

 奥深くまで差し出したため、長い犬歯が肉を突き破る痛みは感じなかった。代わりに襲い来るのは裂肉歯れにつくしが骨を肉ごと噛み砕く硬質な感触。めちゃくちゃ痛い。全力で強化したおかげで一息に剪断せんだんされることはなかったが、左腕はしばらく使い物にならないだろう。


「きひっ!」


 思わず笑みが零れる。ここまで見事にマウントポジションを取られたのは久しぶりだ。だが、全身に刃物をまとう今のシルティにとって、この体勢は決して致死性のものではない。

 魔術『操鱗そうりん聞香もんこう』を発動。

 下腹部を守る〈瓏鵄ろうし〉、へそ付近を守る〈怜烏れいう〉、二枚の飛鱗を射出し、琥珀豹の意識の外から襲わせる。腹部に潜り込ませてしまえばこちらのもの。体内を侵し、心臓を潰すことができる。

 だが、高速回転する殺意がその腹部を切開した途端、琥珀豹は迷いなく退避を選んだ。マウントへの未練など毛ほども見せず立派な巨躯が冗談のように宙を舞った。

 飛鱗が追い付かない。反射神経が超常的すぎる。まさしく電光石火の判断だ。シルティなど容易く飛び越える高さは瞬発力を身上とする琥珀豹の面目躍如といったところ。


 そこを、もう一匹の琥珀豹が狙った。

 獲物から雑魚と見做された自身の評価を活かし、間合いを取りつつ速度を抑えていたレヴィン。彼女はマウントを取られた姉がどうするかを知っている。ゆえに、シルティと琥珀豹が添寝の体勢に入った瞬間、跳び出すことができた。

 宙を舞う琥珀豹を横から強襲。両前肢の鉤爪を深々と食い込ませ、慣性のままに空中を引き摺る。姉から離れた位置で押し倒し、今度は逆にマウントポジションを取った。

 仰臥ぎょうがの体勢から憤怒の咆哮を上げ、屈強な両前肢を叩き付ける琥珀豹。

 顎に前肢に後肢に尻尾、その肉体を全身全霊で酷使し、全身全霊で組み伏せを維持するレヴィン。

 未だ再生の終わらない喉の穴から血が噴き出し、眼下の琥珀豹を赤く染める。


 彼我の身体能力の差は歴然。拮抗できるのは一呼吸にも満たぬ時間だ。しかし、シルティが右拳を再生するには充分な猶予だった。

 。焦燥にも似た渇望が再生を促進する。

 右腕で確と握る〈永雪〉を肩に担ぐ。

 強化した地面を揺らす豪快な踏鳴ふみなり

 前傾。加速。磨き上げた足運びが空気の壁を突き破る。


 琥珀豹の洞毛ヒゲと耳介が動く。

 その瞬間、シルティの視界は完全に停止した。


(おぁっ?)


 眼球と脳が熱を帯びる。確信した。生涯最高の時間分解能だ。身体がのろいどころではなかった。無理やり加速させたはずの心臓の音が全く聞こえない。

 今ならば、空と大地を結ぶ天雷てんらいを容易く目視し、刀剣の交わりが散らす火花の生涯を充分に慈しみ、矮小なたちの羽ばたきを一つ一つ数えられるだろう。

 気が遠くなるほど長い一瞬。

 こちらを注視する鼈甲色の視線。

 シルティの霊覚器は、確かに、二つの眼球から飛来する虹色の線を目視した。


 生涯で初めて見る『珀晶生成』の軌跡。言葉にできないほど美しい。

 魔術『操鱗そうりん聞香もんこう』の行使。同時に、全力の跳躍。

 森の林冠まで届く馬鹿げた初速度での放物線により、首を貫くはずだった黒黄色の凶器を無意味にする。


(完璧ッ!)


 文句のつけどころのない完全な回避。シルティの脳髄が歓喜に痺れる。

 喜びを殺意に変換。射出しておいた飛鱗を踏み付け、鋭角な落下へ移行。

 空中を足場とする上方からの軌跡で琥珀豹を強襲した。


 突進からの跳躍、そして空中で反跳。初見ではまず予想できないはずの奇怪な挙動だ。

 だがしかし、魔物の中でも随一の反射神経を誇る琥珀豹の視界から逃れることはできなかった。

 レヴィンとの組討の最中だというのにその眼球は無駄なく動く。必中の珀晶を躱されたことなど意に介さず、その視線は上下に跳ねたシルティを捉え続け――直後、その顔面がに覆われた。


 ぶわりと毛を逆立たせる琥珀豹。

 内部に無数の気泡を内包する半透明の珀晶。拘束具と同様、野生の琥珀豹がまず使わないとされる技術。頭部を覆う致命的なだ。


 躱せない魔法ならば使わせないという一手。

 こんなもの、琥珀豹には二度と通じないだろう。

 だが、一度で充分だった。


 体重、重力、慣性。

 全ての力を技術にて纏め上げた犀利さいり極まる右の袈裟斬り。

 真銀ミスリルの殺意が琥珀豹の頭蓋にするりと侵入、そして、音もなく滑り抜ける。


 猩猩の森の頂点捕食者はその命を散らした。


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