第206話 二人でやろう



(さすがに目立ち過ぎたかー……)


 上空に部屋を作って作業するだけならともかく、大量の血液を水で洗い流して延々と捨てていたのだ。嗅覚に優れた者たちの注目を集めてしまうのは当然と言える。

 さらに言えば、琥珀豹は視覚にも優れた魔物。林冠の隙間からでも自分の頭部によく似た物体が浮かんでいるのはわかっただろう。もちろん、それが同胞の魔法による産物であるということも。


(さて)


 無論、この程度の危険性リスクは許容済みである。鬣鱗猪を美味しく食べたいという欲求を優先したことに後悔はない。

 シルティは全ての神経を鋭敏に研ぎ澄ませ、現れた琥珀豹の姿を観察した。

 妹よりも一回り以上大きい体格。黒みの強い鼈甲べっこう色の虹彩が格好いい。レヴィンと比べると鼻面が太く、頬も幾分か広く見える。洞毛ヒゲの根本……ウィスカーパッドには厚みがあった。断言はできないが、多分オスだ。そんな顔付きをしている。


 密生する被毛の上からでもわかる屈強な筋肉。毛並みもいい。絶え間なく動く耳介には見ていて気持ちの良いキレがある。霊覚器にはまばゆいほど高密度の生命力が映っていた。とても健康そうな個体だ。

 上空から降りて来たフェリス姉妹を前に、逃げようともせず、かと言ってこちらに踏み込んでくるわけでもない。どうやら小柄な嚼人サルなど眼中にないご様子で、レヴィンを一心にじいっと見つめている。


 う、う、う、う、う。

 森に響く断続的な唸り声。

 決して友好的とは思えないが、しかし思いのほか敵意や害意は感じなかった。まるでレヴィンに語り掛けているかのような雰囲気を感じる。いや、実際にそうなのかもしれない。

 琥珀豹の声帯では人類種ほど多様な鳴き声を出すことはできないが、彼らはとても賢い魔物だ。身体言語ボディランゲージも含み、固有の意思疎通方法を持っている。ここは俺の縄張りだ、見逃してやるからさっさと出ていけ、とでも言っているのかもしれない。

 だが、レヴィンは幼い時分に母親と死別してしまった。人類言語は完全に理解できるが、猩猩の森訛りの琥珀豹言語は全く理解できないのだ。まあ、たとえ理解していたとしても、対応は変わらなかっただろうが。


 う、う、る、ぐ、ぐ、ぐ。

 琥珀豹の漏らす唸り声に威圧的な響きが混じり始める。瞳孔は拡がり、表情はみるみるうちに険しさを増した。

 レヴィンがこれといって反応しないことに対し苛立ちを露わにしている様子。彼はレヴィンよりかなり年上のようだし、少し脅せば実力行使するまでもなく大人しく降伏するはず、と思っていたのかもしれない。

 もちろんこれは完全にシルティの想像でしかないが、そこまで大きく間違ってはいないだろう。明確な捕食行動ならともかく、縄張り争いや獲物の取り合い如きで同種を完全に殺すような容赦のない獣はそう多くはないのだ。


 レヴィンがのっそりと前に出る。

 言うまでもないことだが、蛮族は同種でも気にせず殺す。


 シルティもうきうきと前に出る。

 頂点捕食者と出会った蛮族が大人しくできるはずもない。


 互いに一歩踏み出したあと、姉妹は顔を見合わせた。


「レヴィン? 私、やりたいなー?」


 若干大人げない声を上げるシルティに対し、拒否の意が込められた唸り声を響かせるレヴィン。

 シルティはサウレド大陸に漂着する前から、強大な魔物である琥珀豹とは是が非でも戦いたいと思っていた。

 レヴィンはレヴィンで、野生の琥珀豹よりも姉との訓練を積んだ自分の方が強いということを証明したいと思っていた。

 そして、琥珀豹との殺し合いは滅多にある機会ではない。


「んんん……しょうがないな」


 お互い譲りたくないのなら仕方がない。


「二人でやろっか」


 姉妹は揃って跳び出した。





 踏み込みは同時。だが、大きく前に出たのはシルティである。

 静止状態から最高速度への瞬間到達は彼女にとって己の存在意義に等しい。近頃はレヴィンもなかなかのものだが、十年以上も脚を磨き続けた姉と比べればその加速度はやはり数段劣る。

 ゆえに、最初の標的となったのはシルティだった。


(んっ)


 脳髄を甘くくすぐるような直感。

 シルティは自らのに愚直に従い、頭部を勢いよく右へ振った。直後、頬骨きょうこつの表層を削る硬質な感触が目の下を撫で、嚼人グラトンの肉片と血雫が宙に弧を描く。


 魔法『珀晶生成』の行使。レヴィンのそれはことごとかわすシルティだが、これは躱し切れなかった。やはり日頃からじゃれ合っている相手と初対面の相手ではの精度に差が出てくるらしい。

 シルティは引き伸ばされた主観を貪り、自らの身体を傷付けた凶器を探した。

 視界の端。回避行動を取らなければ左目を貫いていたであろう座標に浮かぶ、黒黄色を呈する小さな欠片かけら


っちゃっ!)


 何を模したのかは不明だが、細長く鋭い形状の珀晶である。体積は指三本分ほどしかない。まさかこんなな珀晶でシルティの皮膚を引き裂くとは。仮にレヴィンが生成した同じ大きさの珀晶だったなら、シルティの顔面はこれを容易く粉砕していただろう。

 虹色の揺らぎが黒黄色の珀晶に重なっている。

 間違いない。この琥珀豹はレヴィンの未だ届かぬ領域、遠隔強化にまで至っているようだ。


「ぁはっ!」


 シルティは輝くような笑みを浮かべながら地面を破砕した。頭部を振った慣性を無駄にせず流用。鋭角に進路を変更し、右方へと加速する。

 一瞬遅れ、レヴィンもまた進路を変えた。方向はシルティと逆方向。二対一の利点を活かし、一度に視界に収められぬよう動くつもりだ。全身に燃え滾るような生命力を巡らせ、獲物を中心として円を描くように迂回。地表を滑るような美しい疾走を披露――

 ズン、と。地の底から響くような重音が轟いた。


 レヴィンの頭胴長が著しく縮み、毛皮に無数のひだが生じる。

 進路上に出現した黒黄色の岩に真正面から衝突したのだ。

 生命力に満ちた珀晶の巨塊はびくともせず、レヴィンの素晴らしい突進の勢いはそのまま己の身体を傷付ける牙となった。顔面が潰れ、頸部はひしゃげる。肺から漏れた空気が声帯を揺らし、鼻孔から噴き出した血液が黒黄色の表面に飛び散った。


 巨塊に身体ごと弾き返されたレヴィン。四肢で地面を掴み損ね、くらりと身体が傾いた。完全に不意打ちの衝撃だったのか、一瞬、意識が飛んだようだ。

 その隙を狙うように琥珀豹が動いた。沈身。屈曲させた四肢に蓄えた力を解放し、素晴らしい加速力で猛然と襲い掛かる。我に返ったレヴィンは速やかに体勢を整えて竿立ちになり、右前肢を振り回して琥珀豹の顔面を狙った。が、これは『珀晶生成』により簡単に防がれる。

 蛮族的嗜好のためか攻撃に重きを置きがちなレヴィンとは違い、野生の琥珀豹が行使する『珀晶生成』は妨害のために使われることが多い。遠隔強化に至っているならば尚更だ。


 哀れな獲物の一撃を防いだ琥珀豹は低い位置から盾をくぐり抜け、レヴィンの懐へと侵入、突進の勢いのまま強烈な殴打を見舞った。剥き出しにした鉤爪を黄金色の被毛に食い込ませて強固に把持はじ、そのまま地面へと叩き伏せる。

 充分に巨大と言える身体が冗談のように振り回され、レヴィンは為す術もなくひっくり返った。だが彼女の戦意は不利を燃料として赤く燃え上がる。胴体を捻り、地面の上で身体を瞬時に旋回。相手の喉元に頭を突っ込むような仰向けの体勢へ移行した。

 お互いの前肢と牙が喉元に届く位置関係。この距離での取っ組み合いとなれば、膂力ではなく技量に頼れる割合も多くなるという思惑だろう。


 互いに咆哮を上げ、一瞬の間に数十の掻撃そうげきを交わし合う二匹。地面に背中を預けたレヴィンは巧みな操身と魔法『珀晶生成』により琥珀豹の攻撃の大部分をなし、逆に幾度も相手の顔面や肩を捉えた。しかしその毛皮を深く突き破ることは叶わない。

 肉を抉り、血を滲ませることはできるものの、ひと呼吸のうちに治癒されてしまう程度の傷だ。体格差よりも年齢差、つまり生命力密度の差の影響が大きい。

 至近距離での肉弾戦。いつまでも往なし続けられるはずもない。やがて琥珀豹の両前肢がレヴィンの胸部と腕部をしかと捉えた。鉤爪を食い込ませて固定し、制圧。そのまま顎を大きく開き、喉元へ。


 そこに、シルティが参入する。

 彼女はレヴィンが組討くみうちにより稼いだ時間を貪って琥珀豹の背後を陣取り、可能な限り足場を強化していた。難壊性を宿した地面をそれでもなお粉砕、〈永雪〉を大上段に構えて突進する。

 蒼猩猩ならば完全に置き去りにできるだろう瞬間移動に等しい踏み込み。だが、琥珀豹は見事に反応してみせた。どういった感覚によるものなのかは不明だが、視界外のシルティの動きを察知。レヴィンの喉を咥え込んだまま振り返る。

 鼈甲色の視線がシルティを射貫く。

 それを認識するより先に、シルティは全力で制動をかけた。

 最高速度から静止状態への瞬間到達もまた、彼女にとって己の存在意義に等しい。


 シルティの視界が虹と黒黄色に染まった。至近距離に生成された身の丈ほどの巨大な珀晶が視界を塗り潰しているのだ。だが、直前に制動をかけたおかげで衝突することはない。

 停止の慣性を〈永雪うで〉へと流し、唐竹割り。

 音もなく落下する銀煌の刃が障害物を両断し、霧散させる。

 琥珀豹の目が大きく見開かれた。珀晶の強度に自信があったのだろう。猩猩の森に生息する陸上動物で彼の珀晶を破壊できるのはおそらく同じ琥珀豹だけだ。まさか嚼人サルに突破されるとは思いもよらなかったに違いない。


 シルティはその驚愕に滑り込むように踏み込み、切り返した刃を鉛直に跳ね上げた。

 先ほどの太刀筋を逆流する逆風さかかぜの一刀。琥珀豹の臀部を狙った瞬速の斬撃は、しかし、尾を中程で切断するに留まった。半瞬で我に返った琥珀豹が超常的なまでの反応速度を見せ、軽やかな跳躍でこれを回避したのだ。


(おおっ、速い!)


 まさかあのタイミングで回避されるとは。シルティが感動する中、琥珀豹は空中でくるりと体勢を整え、四肢で綺麗に着地した。尾が半分ほどに短くなったというのに、その動きは全く淀みない。

 制圧から解放されたレヴィンが即座に身体の上下を整え、弾むように跳び起きた。喉から噴き出す大量の出血が胸元を赤く染めており、肩や顔面には平行に走る深い裂傷。

 ゼェゼェという喘鳴ぜんめい混じりの呼吸音が響く。

 掻き傷はともかく、喉を咥え込まれたのは結構な痛手だったようだ。


 シルティは下段に落とした〈永雪〉の切先で地面のなぞりながら前に出た。


「まだいけるよね?」


 ガラガラにひび割れた咆哮を上げ、レヴィンもまた前に出た。


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