第196話 問答無用



 翌朝。

 シルティは猩猩ショウジョウの森の外延部に立ち、妹の後頸部うなじを揉み撫でながら港湾都市アルベニセを眺めていた。

 海岸線沿い、視界の果てに鎮座する真っ白な城壁。改めて見ても本当に美しい都市だ。


「次に帰って来れるのは早くても冬だからね。しっかり見とこう」


 朋獣認定試験に合格し、『頬擦亭』に部屋を取ってからほぼ一年。狩りに出ていた日数も多いが、彼女にとっては生涯で最も長く過ごした場所だ。感慨も一入ひとしおのはず。

 ……と、シルティは思っていたのだが、レヴィンは短くゥグと喉を鳴らしただけで視線を外してしまった。全く興味がなさそうな表情をしている。


(ありゃ?)


 シルティは正しく理解できていなかったが、レヴィンが己の巣と見做しているのは『港湾都市アルベニセ』ではなく『頬擦亭』の一室。このイベントをこなすならば、今ではなく『頬擦亭』を出る時にすべきだったのだ。

 ちなみに、『頬擦亭』の自室はまだ引き払ったわけではない。向こう五か月分の宿泊料金を支払い、部屋を確保して貰っている。

 友人たちと一緒に購入した普段着や、今もなお大事に飾っている〈紫月〉のつか、レヴィンにプレゼントしたアクアマリンなど、滞在中にいくつか私物が増えてしまった。さすがにあれらを〈虹石火〉回収作業に持って行くのは無理なので、部屋というより倉庫としてそのまま借り続けることにしたのだ。

 なお、シルティたちが帰還しなかった場合、それらの品物は女主人エキナセア・アストレイリスの所有物となる約束である。


「……ま、いっか。さてレヴィン、ちょっと上見ててね」


 レヴィンは素直に視線を空へ向け、喉を伸ばして淡い色合いの被毛を露わにした。

 シルティは顎の下をくしゅくしゅとくすぐってから頸部に抱き付き、腕を回して朋獣認定証がめ込まれた首輪を外す。レヴィンはこの首輪を大層気に入っているが、朋獣認定証は魔道具の一種だ。微量とはいえ常に生命力を消費しているので、必要がなければ外しておいた方がいい。

 レヴィンは軽く上半身を揺すりながら腰を降ろし、後肢を伸ばして首回りを乱暴に掻き毟った。首輪の着用にはすっかり慣れたとはいえ、やはり外した瞬間には解放感があるらしい。

 シルティは〈冬眠胃袋〉の中に硫化銀のように黒ずんだ認定証を仕舞い込むと、最後にアルベニセの遠景を目に焼き付け、そしてきびすを返した。


「よし、行こっか」





 三日後。

 フェリス姉妹は薄暗い森の中を静かに進んでいた。

 調味料はたっぷり持ち込んでいるが、食料は現地調達だ。右手側に大海原を眺めてひたすら海岸線を辿りつつ、時折こうして猩猩の森へ踏み込まなくてはならない。


 不銹ふしゅうのナイフ〈銀露ぎんろ〉を使い、木々に目印を刻みながら可能な限り直進。レヴィンが前を進み、かなり離れた位置からシルティが付いていく。

 これは蒼猩猩あおショウジョウを誘うための位置取りだ。

 育ちに育ったレヴィンの巨体を見て、果たして蒼猩猩がかつてのように襲ってきてくれるだろうか。おそらく否だろう。彼らは非常に攻撃的かつ排他的だが、さすがに成熟した琥珀豹を狙うほど無謀ではないはず。


 ゆえに、外見的強者レヴィンの視界外を餌として外見的弱者シルティが歩み、蒼猩猩を釣ろうとしているのである。

 とりあえず一日やってみて、上手く行けば御の字。襲われなかった場合はレヴィンはさらに遠くで……具体的に言えば上空で待機して貰うことになるだろう。


 だが、蒼猩猩が襲ってくるよりも早く、シルティの感覚は別の気配を捉えた。

 正確には、三日前からずっと捉えていた。


「レヴィン」


 辛うじて妹の耳に届く程度のかすかな呼び掛け。

 丸い耳介がぴくりと微動し、歩みが止まる。


「やっぱりこれ、尾行つけられてるね」


 姉の言葉の意味を理解して、レヴィンの尻尾が僅かに膨らんだ。

 三日前――港湾都市アルベニセを出立してから今まで、付かず離れずフェリス姉妹を尾行する微かな気配。さすがに数は定かではないが、間違いなく人類種のものである。

 先ほどまでであれば、たまたま進路が被っていただけ、という可能性もあったが……進路を直角に曲げて森の中に踏み込んでもなおピタリと付いてくるのだ。間違いなくフェリス姉妹が目的だろう。


 シルティたちがなにか忘れ物をしていて、それを知人の誰かが届けようとしてくれている……というような穏健な理由であれば、相手はもっと急いで距離を詰めてくるはずだし、どうにもがする。

 まあ、無音無臭の蒼猩猩すら察知するシルティの感覚を擦り抜けることはできなかったようだが……まあ要するに、これは多分、強盗の類だ。


「〈永雪〉目当てかな」


 愛刀の鞘に巻かれた渡巻わたりまきを撫でるシルティ。

 アルベニセに到着して以降は一度もなかったが、遍歴の旅の最中、強盗の類に襲われたことは数知れない。彼らの狙いは決まって腰に吊るした家宝〈虹石火〉だった。シルティは襲われるたびに『〈虹石火〉は魔性の太刀だなぁ』と嬉しく思っていたものである。

 輝黒鉄ガルヴォルンほどではないが、真銀ミスリル製の〈永雪〉もまた常軌を逸した高級武器だ。鋳潰いつぶして然るべきところへ売れば、十年は贅沢に遊んで暮らせるだろう。


「だとしたら、レヴィンも狙われてるよね」


 レヴィンを解体ばらして売却すれば、これもまた莫大な金になる。

 真銀ミスリルの塊と琥珀豹、良からぬ者がフェリス姉妹を襲おうと考えるには充分すぎる理由だ。

 シルティは背負った〈冬眠胃袋〉から首輪を取り出し、再びレヴィンの頸部に装着した。

 朋獣認定証を身に着けた魔物を狩ることは法で禁じられている。無論、強盗であればそんなこと気にもしないだろうが……言い訳させないためにも着けておいたほうがいい。


「んふふ……。きっと、強いんだろうなー……」


 シルティの両目に興奮の色が滲み、レヴィンの鼻面にうっすらと皺が寄って白牙が露わになった。

 フェリス姉妹とカトレア・オルカダイレスが鎚尾竜アンキロを仕留めたという情報はまだあまり出回っていないが、重竜グラリアについてはシルティの報告を基にして大規模な調査団が組まれたのだ。

 当然、シルティ・フェリスが竜殺しであるということはアルベニセでは周知の事実である。

 そして、琥珀豹が強大な魔物であるということもまた、アルベニセでは周知の事実である。

 そんな姉妹群れを狙って殺しにきたということは、この追跡者は殺しの腕前に相当な自信を持っているということだろう。


「よし、待とう」


 賛成という意味合いの込められた唸り声と共に、レヴィンが姉に身体を擦り寄せる。

 蛮族の姉妹は各々〈冬眠胃袋〉を背中から分離させ、樹冠の高さに浮かべた頑丈な珀晶製倉庫に収めると、二人寄り添ってその場で待機した。


 こんな何もないところでシルティたちが動きを止めたのだ。相手もこちらが追跡に気付いたことに気付くだろう。

 諦めてくれれば、それで良し。

 諦めずに襲ってくるならば、なお良しである。





 しばらく経ち。

 フェリス姉妹の前に、二人の人類種が姿を現した。


 片方は森人エルフの女性。

 種族特有のすらりとした身体に霧白鉄ニフレジス製の軽装鎧を纏い、左手には同素材のラウンドシールドを持っている。右手は頑丈そうなグローブに包まれているが、完全な無手むて。しかし、森人エルフはその場その場で最適な得物を創出できる。油断することはできない。

 切れ長の目でレヴィンを見つめ、うっすらと酷薄に微笑んでいる。エアルリンほどではないというと失礼だが、シルティの目からすればとんでもない美人だ。


 もう片方は鉱人ドワーフの男性。

 身長はシルティより拳一つ分ほど小さいが、厚みと横幅は二倍三倍。一挺の鉱山斧こうざんふを両手で構えている。ヴェルグールの持つ真銀ミスリル製の鉱山斧と比べると、がかなり長かった。もはや刺先スパイクのないハルバード、と言った方が正しいかもしれない。

 種族特有の髭面を厭らしく歪め、シルティの腰を睨み付けている。森の薄暗闇の中ではその髭が銀煌ぎんこうを帯びていることがはっきり分かった。昨夜はよく晴れていたので、月光をたっぷり蓄えているだろう。


 シルティは滑らかに抜刀した。

 真銀ミスリルの刃を空気に晒し、にこりと微笑む。


「こんにちは。もしかして、強盗とかです?」


 もう答えは出ているようなものだが、一応、問いかけてみる。


 鉱人ドワーフの男が跳び出した。


「ふひっ」


 問答無用。

 シルティの好きな言葉の一つだ。


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