第195話 挨拶回り



 港湾都市アルベニセの外、南南東にしばらく進んだ位置。

 サイキス河から枝分かれした小さな派川はせんにて、シルティはようやく手に入れた水中呼吸用魔道具の使い心地を確かめることにした。


「んー……」


 〈兎の襟巻〉は布地に刺さった先丸さきまるピンが物理スイッチとなっており、これを押し込むことで魔術『鰓銛さいせん』の再現が開始され、周囲に存在する水から空気を取り出してという仕組みになっている。

 右手に掴み、スイッチを入れて川に沈めてみたところ、シルティの手はすぐさま大きな気泡に覆われた。レヴィンも興味深そうに洞毛ヒゲを広げながら水面を眺めている。


「おおー……」


 なるほど、これならば確かに水中で空気を得られそうだ。首元に巻いて発動すれば気泡が口や鼻をしっかり覆ってくれるのだろう。

 ちなみに、元祖の漁兎すなどりウサギは全身を空気の層で覆えるのだが、魔道具劣化版ではこれが精一杯らしい。


「よし、やってみよ。なんかあったら助けてね」


 妹にいざというときの救助を頼みつつ、シルティは早速〈兎の襟巻〉を首に巻き付け、革鎧のまま川に飛び込んだ。ザボンという重々しい水音と共に視界が歪み、冷たい水が肌を冷やす。とても心地よい。真夏は過ぎたとはいえまだまだ暑いのだ。

 愛刀〈永雪〉をはじめとする装備の重みがシルティの身体を速やかに沈めていく。


(あー、なんか懐かしいな)


 蛮族は夏場になると武具をまとったまま集団で水場に飛び込み、涼を取りつつ斬り合うという生態がある。戦装束こそを普段着とする彼らにとって、甲冑を着用し得物を携えた状態での戦泳術(水棲生物との殺し合いを前提にした一種の武術)は必修技能なのだ。

 当然ながらシルティもこの水遊びをこなしている。大海原の真ん中で襲ってきたサメの頭を割ることができたのは間違いなくあれのおかげだろう。


(よし)


 両足が川底に付いた。

 口元が空気に覆われたことを確認したシルティは、唇を薄く開き、慎重にそれを吸い込む。


(うっ?)


 直後、顔を盛大にしかめた。


(うおぁ。なにこの空気。ぅ……)


 喉を通る空気がやたらと粘っこい。気体だというのに口当たりが最悪だ。まるで粘液を含ませた脆いスポンジを口元に押し付けられ、呼吸した途端にボロボロに崩れて肺の奥まで侵入してきたような、酷く不快なおぞましい感触。咄嗟に喉を締めてこらえたが、大きく息を吸っていたら激しくせていただろう。肺腑の中でも粘度が保たれているのだろうか、胸の奥に硬質な気持ち悪さが残っている。


(……これは。なんというか。初めて味わう感じの気持ち悪さだな……)


 そのまま静かに待っていると、二拍ほど経ってようやく不快感が解消された。


(んむん……なるほど)


 ヴィンダヴルの言っていた『結構クセがある』というのはこれのことか。率直に言ってめちゃくちゃ気持ちが悪い。

 シルティはにまにまと笑った。

 初めて味わう不快感。ということは、これを乗り越えればシルティはまた一つ強くなれるということだ。


「よし。レヴィン、私ちょっとの練習しとくから、しばらく遊んどいて」


 ヴォゥン。

 レヴィンが嬉しそうに了承の唸り声を上げた。





 しばらく習熟訓練を行ない、太陽が拳一つ分ほど傾いた頃。


「はぁぁぁ……」


 シルティは川面に仰向けに浮かんでいた。

 肉体的な疲労はほとんどない。息が切れているわけでもない。だが、身体の芯が輝黒鉄ガルヴォルンに変わったかのように重く、全身がだるい。

 夢中になって潜水を継続していたため、生命力を酷く消耗しているのだ。

 飾らずに言えば、シルティは今ちょっと死にかけている。


 のろのろとした動きで〈兎の襟巻〉のスイッチを切り、そのまま身体を丸めて潜った。ぐびぐびぐびぐびと、駱駝ラクダくやという凄まじい勢いで給水する。長く地上を旅してきた大河の水は率直に言ってあまり美味しいものではないが、土砂を貪るよりは遥かにマシだ。その身に宿す魔法『完全摂食』が勤勉に働き、飲んだ体積に比例した生命力を補給した。

 怠さが嘘のように消え去り、すぐさま身体にキレが戻る。


「ぷはっ」


 水面から顔を出し、新鮮な空気を吸い込んだ。

 ああ、美味しい。

 さらさらした空気がこんなに素敵なものだとは思わなかった、などと感動しつつ、シルティは速やかにおかへ上がる。

 頭をぶるぶると勢いよく振り回し、乱暴に髪を脱水、川の方へ身体を向けて腰を下ろす。首元から〈兎の襟巻〉を外し、軽く握って水を絞った。


(これならまあ、なんとかなる、かな)


 この〈兎の襟巻〉が生み出す空気を吸い込んでも気持ち悪くならなくなった、とは、決して言えない。相変わらず気持ち悪い。だが、最初に比べればかなり我慢できるようになっている。時間をかければいつかは気にならなくなるはずだ。多分。

 漂着した最初の入り江、あそこを家宝回収の拠点にしようとシルティは考えている。アルベニセから海岸線を辿って徒歩二か月弱の距離だ。

 向かう道中でも習熟訓練は繰り返せる。到着する頃には十二分に動けるようになるだろう。いや、なってみせる。


(……しっかし)


 だが、適応それとは別に、浮かび上がってきた問題点が一つ。


(ホントにめちゃくちゃんだなぁ、これ……)


 マルリルから『漁兎すなどりウサギの魔道具は膨大な生命力を必要とする』とは聞いていたが、いざ実際に使ってみると想像以上の大喰らいだ。

 太陽の傾きで拳一つ分(約四十分間)。たったこれだけの時間で嚼人グラトンが自覚できるほどに生命力を消耗するなど、尋常な魔道具ではありえない。魔術『操鱗そうりん聞香もんこう』ならば五倍の時間を使い続けてもここまで消耗はしないだろう。


「はぁ……」


 シルティは溜め息を吐きつつ妹に視線を向けた。

 レヴィンは川岸に脇腹を見せながら悠々と泳いでいたが、姉の視線に気付くとすぐさま方向転換。速やかにおかへ上がるとそのまま駆け出し、腹の下や尾の先端から水を垂れ流しながら姉に頭突きを見舞う。


「ぬぐっ」


 びちゃびちゃの首筋を擦り付けながら頻りに声を上げるレヴィン。

 ヴルァル、ヴァゥ、ヴォガォゥ。喜楽の感情のみが込められた喃語なんごのような甘え声。まるで人類言語を習得する前のようである。四肢あしが底に届かないほど深い水場で遊んだのは久々なので、無意識の領域で童心に帰っているのかもしれない。


(うーん……)


 妹の頭部を抱え込んでガシガシと乱暴に撫で回しつつ、シルティは脳内で唸り声を上げた。

 購入した〈兎の襟巻〉は二つ。当然、片方は妹用だ。しかし、この燃費の悪さ……若い琥珀豹には厳しいかもしれない。おもむくのは素潜りでは決して到達できない深さの海底。シルティならば生命力が枯渇しそうになっても海水を飲めば済む話だが、レヴィンはそのまま溺死である。

 当初は二人で海底をさらう予定だったが、この分なら、レヴィンは海上で待機していて貰った方がいいかもしれない。


「よしレヴィン、そろそろやってみよっか」


 それはそれとして、〈兎の襟巻〉の使い心地気持ち悪さを体験しておくことは大事だ。

 シルティは妹の頸部に巻かれた魔道具をまさぐり、物理スイッチを入れる。


「ついでに泳ぎの練習もしよ。レヴィンはまだまだ遅いしね。……って言っても、私も四足の泳ぎ方はわかんないけど……四肢あしで水を掻くより、川獺カワウソみたいに身体ごとくねくね泳いだ方が速いのかな?」





 姉妹で水遊びを楽しんだ翌日から、シルティはレヴィンを連れ、港湾都市アルベニセの方々ほうぼうを訪ね回った。

 水精霊ウンディーネとの契約は成り、水中での呼吸手段も確保済み。家宝回収の条件は揃ったのだ。いよいよ〈虹石火〉を探しに行ける。

 しかし、いかんせん距離があるため、アルベニセをてば次に戻れるのは早くとも四か月後。猩猩の森の奥地はシンプルに魔境なので、戻ってこれない可能性も充分にある。そこで、お世話になった方々かたがたに挨拶回りを行なったのだ。


 今では親友と呼べる間柄となった西門の女衛兵ルビア・エンゲレン。『琥珀の台所』看板娘、というよりもはや琥珀豹狂の印象しかないもう一人の親友エミリア・ヘーゼルダイン。ルビアの大叔父にして、シルティの防具類の生みの親である革職人ジョエル・ハインドマン。魔道具専門店『ジジイの店』店主であり新たな師でもあるヴィンダヴル。アルベニセでの自宅となった『頬擦亭』の女主人エキナセア・アストレイリス。本当に何から何までお世話になりっぱなしだった金鈴きんれいのマルリル。二度も竜を買い取ってくれた槐樹かいじゅのエアルリンと、彼女の使用人ヒース・エリケイレス。

 その他、様々な人々。

 アルベニセでの生活も気が付けば一年三か月。大部分は狩猟に出掛けていたとはいえ、これだけ長く住めば知り合いも多い。

 それぞれにお礼の品物を配り終わるまで、三日間かかった。



 最後に訪ねたのは、アルベニセ北部に店を構える鍛冶屋『髭面の孫』だ。

 シグリドゥルはシルティが生涯で初めて出会った真正の刃物好きである。得難い同好の士と熱い抱擁を交わしたあと、シルティは懐からあるものを取り出した。

 優美な弧を描く煤竹色すすたけいろくい。四肢竜鎚尾竜アンキロの肩から伸びる棘の先端である。カトレアと交渉した結果、売らずに一本だけ確保することができたのだ。


「んー? んん……」


 シグリドゥルは棘を丁寧に受け取ると指先でなぞり、感触を確かめた。


「……。初めての素材。これは?」

鎚尾竜アンキロの棘の先っぽ。シグちゃんにあげる」

「あんきろ。ふぅん……鎚尾竜アンキロッ!?」


 思いもよらぬ稀少素材にぎょっとしたのか、比喩抜きで跳び上がるシグリドゥル。着地したのち、棘を返却しようと慎重な手付きでシルティの胸へ押し付ける。


「シル。だめ。こんなの貰えない」

「誕生日のお祝いも兼ねてだから、遠慮せずに貰ってよ。ね?」

「だめ。いくらなんでも高過ぎる」


 十九日前、シルティたちが鎚尾竜アンキロを背負ってアルベニセへ向かっている最中に、シグリドゥルは六十六歳の誕生日を迎えていた。


「いいからいいから」

「よくないよくない」

「もう。じゃあ、もし貰い過ぎっていうなら……それで、同じようなナイフを二本作って欲しいな。竜骨で作るナイフだよ? 作りたくない?」

「ぐう」


 シグリドゥルは目を盛大に泳がせた。

 シルティが刃物を欲しがらないはずがないように、シグリドゥルが刃物を作りたくないはずがないのである。


「こう、この棘を縦に二つに割ってさ、それで二本……シグちゃんのと、私のと、同じようなやつ。……だめ?」


 右腰に納めた〈銀露〉に不満があるわけではない。相も変わらず愛している。が、それはそれとして、やはりシグリドゥルが作ったナイフも欲しかったシルティである。

 シグリドゥルは一拍ほど動きを止めた後にくすりと微笑み、鎚尾竜アンキロの棘をうやうやしく胸に抱いた。


「……お揃いが欲しいなんて。かわいいこと言うね、シル

「んぐ……」


 子供っぽいという自覚があったのか、シルティはほんのりと頬を染めた。


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