第191話 岑人の羞恥心
胴体との
シルティが斬撃を繰り出す直前、
かなりの高さから落ちたというのに、これといって音は聞こえないかった。地面に接触した瞬間にぴたりと止まり、静止する。柔らかい粘土を地面に落としたような完全非弾性衝突だ。魔法『衝撃原動』がまだ生きている。
恒常魔法は極めて燃費が良いうえに、死因が死因だ。極限まで研ぎ澄まされたシルティの斬撃はもはや切断という現象そのもの、一つを二つにする以外の結果を残さない。首を刎ねたとしても死という終着まで少し時間がかかる。
地面に鎮座する
ふらりと倒れるようにしゃがみ込み、左手と膝を地面に突いて背中を丸め込んだ。
「はーッ、はっ、はぁっ、はあッ」
周りを見る余裕がない。息が苦しい。身体の全ての部位が空気を求めて喘いでいる。
肺腑に火が付いたように胸骨の裏側が熱く、だが同時に、
特に異常があるのは心臓だ。一呼吸のうちに十回以上も脈を打ち、七回に一回は脈が跳ぶ。発汗が止まらない。
刀身を傷めぬよう肩に峰を乗せてはいるが、これは刃物愛好家としての本能のようなもの。ほぼ無意識である。愛刀〈永雪〉を鞘に納めるどころか、
全身を苛む恐ろしい疲労感。さすがに
「ふ、ふふっ……くふふふっ」
湧き上がる歓喜を抑えられず、貴重な空気を浪費して笑みを
これが生理学的機序として正しいのかどうかなどどうでもいい。なぜなら、無理矢理引き起こした不整脈のあとの絶好調はシルティの記憶に深く刻み込まれている。自身の『最高』こそが蛮族にとってのなによりの財産なのだ。
普段よりもキレ良く躍動する肢体。普段よりも
ト、ト、トン。
頭上で断続的な足音が聞こえた直後、シルティの真横に黄金色の巨体が着陸する。そのままシルティを包み込むように身体を寄せ、フスフスと鼻を鳴らしながら首筋や頭皮の匂いを嗅いだ。特に被弾した様子もないのに
シルティは頭突き気味の頬擦りで『大丈夫』を伝えたあと、顔を上げて視線を巡らせる。
レヴィンはざりざりと姉の頭に
まず目に入ったのは
続いて目に入ったのは生き別れの胴体。まだ心臓が動いているようで、首の断面から間欠的に血液を噴いていた。
(ああ、勿体ない……)
世界最強の血液。地面に吸わせるのはあまりに惜しい食材である。
「レヴィン……あの血、勿体ないから、溜めといて」
呼吸を整えつつ指示を出すと、レヴィンは短く唸り声を上げてから
今この瞬間、この場で最も強いのはレヴィンだ。苦労して仕留めた
シルティは左腕で革鎧越しに胸を
とにかく、心臓の動きを抑えなければまともには動けない。しかし、どうすればいいかわからない。とりあえず丁寧に息をしよう。大抵の場合、心臓が頑張るのは空気が欲しいからだとシルティは経験的に知っている。
長く細く息を吸い、可能な限りゆっくりと肺を膨らませた。膨張した肺を肋間筋で柔らかく引き締め、相変わらず暴走している心臓を優しく抑え込む。その状態から、心臓が胸腔の内圧を高める瞬間に肺腑を収縮させ、胸腔内の圧力をなるべく一定に保つようにした。
「……ん。よし!」
この呼吸法に効果があったのかはわからない。単純に時間が経過したことで心臓が我に返っただけかもしれない。だがともかく、シルティは運動能力を取り戻した。元々、怪我という怪我はしていない。心肺さえ調子を取り戻せば体調は万全、今からまた竜を殺しにだって行ける心づもりである。
跳び上がるように立ち、すぐさま視線を巡らせ、この場で一番の重傷者を探す。戦闘中に位置は確認済みだ。すぐに見つかった。
即座に駆け寄り、体勢を仰向けに。肋骨がふにゃふにゃだ。削られていない右肩も砕けていた。
指で唇に触れる。呼吸あり。
(凄い。生きてる)
全身全霊の疑似
こんなもの、率直に言って生存しているだけでも奇跡的である。少なくともシルティが
ほっと安堵の息を吐き出したシルティは、左手でハンカチを取り出しつつ右手の手首を返した。〈永雪〉を頭上で軽やかに旋回させて
実際のところ、極限の斬術を成し遂げた刀身に返り血など一滴も付着していないのだが、シルティにとってこれは大事な儀式。愛刀への愛情表現のようなものだ。
鯉口を左手で握り、刃を誘導して切先を入れ、角度を合わせた
(さて)
シルティはベルトに吊るしていた小さな袋を開き、折り畳まれた
そのまま、一拍。
「はォえッヴ」
びぐんっ。
カトレアが身体を痙攣させた。
◆
「まさか、二回も、嗅がされることに……なるとはね……」
「動けそう?」
「……ごめん、無理」
「ん、わかった。ちょっと運ぶよ」
「う。……う、ん」
シルティはカトレアの背中と太腿に手を差し入れ、そのまま横抱きに持ち上げた。直接触れている
「ぬゅぇ……」
カトレアが珍妙な声を漏らしたかと思えば、見る見るうちに顔面を赤く染めた。
当然、シルティも
「うおぉ……」
大好きな竜の死骸に近付いたことで羞恥心が上書きされたのか、カトレアが興奮した様子で声を漏らした。
「レヴィン、椅子……んー……や、ベッドかな。お願い」
姉の要請に従い、レヴィンが魔法を行使。緩い背もたれのある滑らかな椅子、あるいはベッドを作り出す。珀晶製のため非常に硬いが、凹凸激しい地面に寝転がるよりは遥かに快適だろう。追加で日除けの屋根も生成される。
シルティはカトレアをそっと寝かせると、懐から再びハンカチを取り出して竜の血に
「あーん」
魔法『完全摂食』を宿す
「あー……」
カトレアは嬉しそうに口を開けた。
ハンカチを強く握り締め、絞り出す。滴り落ちた赤色がカトレアの口腔に溜まり、そして、細い喉が小さく上下した。
「
口元を赤く汚したカトレアが満足げに微笑む。
「ふ。ふふ。……あんまり。でも、美味しい」
「どれどれ」
シルティは自らの口腔にも竜の血を絞り、それを
「んー! 美味しい!
「僕は、
「あれはかなり粘っぽかったよー。喉に絡む感じがして、あんまり美味しくはなかった……でも、肉と一緒に食べると凄く美味しくて」
「へえ……」
「今回は凄く綺麗に殺しちゃったから、逆に食べられる場所がないね……」
「……端っこ、なら……。ちょっとくらい、食べてもいいよ」
「えっ! いいの!? やった!! 脳は!?」
「脳は駄目……」
魔法『咆光』が周囲を消し飛ばしたのだ。しばらくは安全だろう。
シルティはカトレアが回復するまでここで過ごすことにした。
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