第190話 不整脈
重く固い衝音と共に地面が微かに揺れた。
強引に突き破られた大気が轟音を鳴らす。
ヴィンダヴルの薫陶を受けた蛮族の娘は音を超える。現在のシルティが実現できる最高速度、
だがしかし、さすがは世界最強。
装甲化した瞼を閉じたまま正確にシルティの方を向き、顎を開く。
霊覚器が
地面の振動は空気中の音より遥かに早く伝わる。彼らの体制感覚を
視覚を殺したぐらいで簡単に殺せるほど、竜の命は安くはない。
しかし同様に、瞼を閉じたまま回避できるほど、シルティの刃は甘くはない。
「うふっ」
自らに照準を合わせた最強種族の最凶魔法。何度見ても素晴らしい光景だ。
初めて形相切断に至ったあの時と同じく、目視できる絶命領域がシルティの脳を
生涯で幾度も繰り返してきた
片脚を前へ伸ばし、半長靴で地面を掴む。前進の慣性を吸収すると筋骨に沿わせて整流、絶妙な体捌きにより損失なく転用。飛鱗を分離しない『
それを、二歩連続。
自らの左方を消し飛ばす『咆光』を愛おしげに見つめるシルティ。
正直、斬りたかった。真正面から光を斬り開いて肉薄したかった。程度の差はあれど基本的にいつもなにかを斬りたいと思っているのがシルティという娘である。興奮で脳が
だが、今はまだ辛うじて冷静だ。
斬りたかったが、この距離この機でこれは斬るべきではない。
死をやり過ごし、さらに前へ。
右足を大きく前へ踏み出し、地面に
突進の慣性と大地の反力を混合させ、骨に沿わせて得物へと流し込む。
「ふッ!!」
太刀筋を真に決めるのは肩。鋭い呼気と共に肩を落とす。下半身が
最高の体勢。会心の斬撃。理想は常に万物の両断。
愛と妄信に満ちた刃が竜の魔法を擦り抜け、見事に切断する。
浅い。
直後、シルティは全力で後跳した。
さすがは世界最強。刃が鱗を裂くという瞬間に尾撃の動作に入り、回避と同時に殺しに来た。鱗と肉は裂いたが骨には遠く届いていない。頸動脈を切開した程度では竜の致命など願えない。
半瞬前まで頭部があった空間を
ふらつく体幹を『
「ひひッ」
あの時は鼓膜は破られ、目や鼻の血管も破裂し、一発で聴視嗅覚を
つまりこの状況は、シルティの身体があの時よりも遥かに頑強になったという物証である。
あの時より強くなった。だが、それでも殺し切れなかった。さすがは竜。反射神経が馬鹿げている。
では、どうすれば殺せただろうか。
自問したが、自分の暴力が相手の暴力に及ばなかった時、シルティの結論はいつも一つである。
私がもっと速ければきっと殺せていた。
もっと速くなりたい。もっともっともっと――
そこで、不意に思いつく。
己と近しい長所を持つヴィンダヴルの
十二枚の空中足場という、
私の肉体は、意識は、もはや現状では最速の域にある。
でも、まだまだ満足していない。もっと速く動きたい。
私の意識の外にある私の身体も、もっと頑張るべきだ。
例えば、延長した主観では止まっているようにすら感じる、この心臓とか。
シルティは経験的に知っていた。心臓という臓器は動けば動くほど、興奮すれば興奮するほど忙しく働き始めるが、上限というものがある。全身全霊の戦闘では心臓の拍動はいつも同じ周期なのだ。
だからきっと、この心臓がさらに早く脈を打つならば、私の肉体ももっと強く速く動ける。そうに違いない。
霧のように希薄な理論を根拠にして、シルティは心の底から加速を確信した。
とはいえ残念なことに、骨格筋と違って心筋は
しかし、だ。
この胸に収まっているのは蛮族の心臓。
抑圧されれば、なにくそと反骨心を燃え上がらせて奮起するだろう。
鋭い音を響かせ限界まで息を吸い、喉を締める。
革鎧の内側で大きく膨らんだ胸郭を筋肉で潰し、はち切れんばかりの肺腑を使って心臓を圧縮した。
普段よりも明白に感じる血管の拡縮を、殊更に意識。
肢体を巡り回る血液を、意図的に生命力と混同する。
私の血管は強い。私の心臓は強い。私の臓腑は強い。
ならばもっと湧けるはずだ。熱い血を全身に届けろ。
シルティの心臓は一瞬止まり、そして限界を超えた。常人ならば不整脈にもほどがある奇怪な鼓動を経て、生涯でも味わったことのない熱量が胸の内に生じる。爆発的に高まった血圧が毛細血管を突破し、鼻腔の奥で鉄の風味が広がった。
ずズッと啜り、飲み込んだ。
この程度で鼻血が出るなどまだまだ弱い。筋肉が生命力の作用で強くなるのだから、臓器や血管ももっと強くなっていいはずだろう。心臓を熱源とする慣れ親しんだ妄想に、その炉と経路を頑強とする妄想を付け加える。
同好の士シグリドゥルが見せてくれた炉は
あれくらい強い心臓と血管が欲しい。
欲しがれば、きっと得られる。
「はぁぁ」
陽炎のような吐息を漏らしながら、蕩け切った目を得物に向ける。
彼らの『衝撃原動』はおそらく恒常魔法。痛みという感覚を味わうことすら少ないはず。切り傷を負うなど産まれて初めての出来事だろう。
竜に初めてを刻んだ名誉に、蛮族は震えるような歓喜を覚えた。
直後、
基本的に無敵な彼らは性根が
空間を侵す竜の生命力が心地よかった。
小さな羽虫であれば浴びただけで死んでしまうかもしれない、草食とは思えぬ濃密な殺意だ。
熱に浮かされたままに足を踏み出そうとしたシルティだが、まだ辛うじて残っていた冷静な部分が待ったをかける。
この耳鳴りと眩暈、そして血圧の中で『衝撃原動』を斬り裂けるだろうか。
できるかできないかなんかどうでもいいからやってみたい、と思う自分がいる。
折角の共闘なのだからレヴィンやカトレアを頼るべきだろ、と思う自分もいる。
半瞬にも満たぬ逡巡の末に、シルティは後者を選んだ。
くるりと反転、
思いつきでやらかした心臓の圧縮だったが、これが思いのほか具合がいい。手足の回転は速く、時間の分解能まで向上している。世界最強の中でも
小さな
巡らせた視界でカトレアの位置を確認。地面にぐったりと倒れ伏しており、動かない。見るからに半死半生の様相だが、疑似竜の中でも困難な
カトレアと前衛を交代し、また隙を伺おう……と考えた直後、シルティの進行方向に黄金色の壁が現れた。表面に刻まれた滑り止めの幾何学模様。シルティにはわかる。これは単なる壁ではなく、鉛直に
であるならば、レヴィンは自分にこれを踏んで欲しいのだろう。
詳細な狙いは不明だが、俯瞰しているレヴィンがそうすべきと判断したのだ。ならばそれに従い、結果を残すのが姉の甲斐性だろう。
躊躇なく跳び上がり、重力の方向と身体の正中線を直角に。膝を屈曲させて壁面を掴み、間髪入れず全力で伸ばした。垂直な足場があるからこそ可能な水平の跳躍。珀晶の粉砕と引き換えに反発係数の限界を超えた弾性衝突を実現し、視線を主観的な頭上へ向ける。
(おっ)
その原因は擦れ違った七匹の
まさかこんな見え見えな手にひっかかるとは。戦闘経験が浅すぎる。やはり無敵ゆえか。
息を吸う。
止める。
カトレアの
獲物の頭部に
目を閉じた瞬間に顔に触れた『なにか』に気を取られ、
素晴らしい仕事だ。
魔術『
必殺を込めた飛鱗だったが、
接触音が聞こえたということはつまり、シルティは遠隔強化でも『衝撃原動』の発動条件を擦り抜けることができたということだが、単純に威力が足りなかったようだ。しかし、無敵の生涯を送ってきた
殺し合いに明け暮れる蛮族の観点からすると、とても幼くて可愛い反応だ。
無論、可愛くても容赦はしない。
蛮族の殺意と好意は非常に近しい位置にあり、一部に至っては重なっている。
前傾しつつ左足で着地。右の脇構えに垂らした刀身に全ての慣性を乗せる。
と、その瞬間、
最高の援護である。
やはり、連携は暴力の乗算だ。
一対一だった
左足を大きく前へ踏み出し、人類種の限界に挑むような最低の姿勢から右袈裟を繰り出した。
二の太刀にして
喉元へ潜り込んだ
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