第179話 渦勁
一戦目と同様の間隔を空け、向かい合う。
(いやー、凄い。まさかここまで速いなんてなぁ……)
カトレアはシルティのファンだ。当然、レヴィンの朋獣認定試験の後で開催された模擬戦大会のことも知っている。参加していた者たちを見かけるたびに話を聞き、シルティがどんな戦い方をしていたのか詳細に聞き取りを行なった。伝聞とはいえ、素早さを身上とする狩猟者であることは知っていたのだ。
油断はしていないつもりだった。しっかりと身構えていたつもりだった。だというのに、一歩も動けなかった。
想定を遥かに超えた瞬発力を前に、カトレアは呆気に取られたまま殺された。
このままでは終われない。
竜殺しを持ちかけて来たくせにこいつ雑魚だなあ、なんてシルティに思われたら、カトレアは憤死する。
というかそれ以前に、同年代の女の子に負けたことが普通に悔しかった。
好意を持っているからといって、負けていい理由にはならない。
「ねえ、次は先手を譲ってくれない? 僕の
「わかりました」
カトレアが軽い口調で打診すると、シルティは食い気味に了承を告げてきた。一拍置いて口角が持ち上がり、柔らかそうな頬を切り裂くように深く食い込む。瞳孔が拡がり切った両目は恋慕に似た色に染まっていた。
いやはや、なんとも恐ろしい。
誰がどう見ても可憐な笑顔と呼ぶべき相貌であるにも拘らず、子供が見たら泣き出すであろう、根源的な威圧を孕んだ笑みである。
「殺すつもりでお願いしますね?」
「ほんと、おっかないなぁ……」
カトレアは苦笑を浮かべたのち、深く空気を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。
身体に纏った
人類種の肉体の比重は水とほぼ等しい程度。だが、
動物離れした比重を誇る
自分ではシルティの動きに追い付けないかもしれない。
だが、追い付かずとも、獲物を仕留めることはできる。
(よし。やるか)
しかし、
視界の中央にシルティの姿を捉えながら、カトレアは自身の
身に纏う
表面のみを切り離して安定させる精密な操作。
内部を暴力的なまでに掻き混ぜる豪快な操作。
それらを共存させることにより、
視覚的な予兆を完全に排除しつつ致命的な暴力を静かに蓄えるという悪辣極まりない殺しの術理。
人類言語では『
シルティが『速やかに伸縮を完了できるバネ』とするならば、『既に縮められた状態のバネ』が今のカトレア。どちらがより瞬発的に動けるかなど火を見るよりも明らかだろう。条件によっては文字通りの完璧な
まぁ、カトレアは初戦でも渦勁をしっかり練っており、そのうえで普通に置き去りにされたのだが。
(シンプルに渦勁より速いってどんな動きなんだよ、もう……)
感心七割呆れ三割のカトレアは、この素早い
カトレアが素早い獲物を狩る際の基本手順は、巨大な
熟練の
膨大な生命力を誇る
こちらの得物は合計十五枚の
洗練された暗器術は予想されていてもなお充分な効果を発揮する。
使いどころを間違えなければシルティを殺し得る貴重な手段となるだろう。
こちらの手札は。
練り上げた渦勁、十五枚の鴛鴦鉞と暗器術、
あちらの手札は。
馬鹿げたキレ、洗練された体捌きに、
(よし)
崩しさえすれば体勢を整えさせる前に追い込める、とカトレアは判断した。
つまり、シルティの度肝を抜けるような、なんらかの工夫が必要だ。
最低でも一手、できれば二手、欲しい。
(さて、どの子にしよっかな)
カトレアの脳内に存在する分厚い
「くふっ」
形のよい唇が嬉しそうに弧を描き、堪え切れない笑みが
彼女の両目もまた、恋慕に似た色に染まり切っていた。
◆
「ねえ、次は先手を譲ってくれない? 僕の
カトレアの打診を受けたシルティは脊髄反射に近い領域で快諾していた。
蛮族の戦士の中でも、シルティは殊更に先手を取ることを好んだ。跳び出して斬る、それを繰り返す生涯を全力で謳歌してきた。
しかしそれはそれとして、先手を取られることも大好きである。当人が『必殺』を
(んふふ。どんな手で来るかなー……)
相手の殺意を見事に躱した瞬間、シルティは己の
にやにやしながらカトレアの必殺を心待ちにしていると。
「くふっ」
不意に、カトレアが小さな笑みを
「お待たせ。準備できたよ」
「んふっ。待ってました。さあ! 殺しに来て下さいっ!」
「言葉のチョイスがいちいち
「模擬戦とはいえ、殺すつもりじゃないと楽しくなっ」
内臓を全て持ち上げられるような凄まじい震動と共に、シルティの視界が土砂色に染まった。
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