第174話 カトレア・オルカダイレス



 四日後の昼過ぎ頃、フェリス姉妹は港湾都市アルベニセへ帰還した。

 都市の出入りの際、シルティは基本的に友人ルビアが詰めている西門を使うことにしている。狩猟者と衛兵、お互いなにかと忙しい身なので、こうでもしないとなかなか会う機会がないのだ。

 しかし、陽炎大猫の生息地はアルベニセの東方。素直に帰路に付けば辿り着くのは当然東門となる。都市を半周するのはさすがに時間がかかるので、今回は大人しく東門を使うことにした。およそ八か月前、鷲蜂わしバチを初めて狩った帰りに使って以来の東門だ。

 随伴する妹が微妙に白けた表情を浮かべているのは、彼女もルビアに会うのを楽しみにしていたからだろう。


 入門待ちの列に近付くに連れ、畏怖の視線が琥珀豹レヴィンに向けられた。行商人たちの車両を牽引する輓獣ばんじゅうたちも落ち着かない様子。西門を通過する際にもこういった反応はあるのだが、今日はその密度が段違いである。

 むべなるかな。フェリス姉妹の生活圏は基本的にアルベニセの西区に収まっているし、東門を通るのはこれで二度目。つまるところ、東門を日常的に通っている者たちは琥珀豹という脅威に慣れていない、もしくは初めて見るような人々ばかりなのだ。


 現在のレヴィンはおよそ一歳半、既にほぼ成獣のメスと言っていい体格になっている。隣に立っているのが小柄なシルティということもあり、堂々たる巨体が際立きわだっていた。

 いかにアルベニセでは朋獣が人類種同様の扱いをされると言っても、琥珀豹は人類種の頭部など一息に噛み砕ける巨大な獣。もはや印象は『可愛い』ではなく完全に『怖い』だ。狩猟者はともかく、戦闘を生業としない行商人や旅人にビビるなと言う方が無理というものである。


 シルティたちが最後尾に加わってしばらくすると、一人の青年がびくびくとしながら列に加わった。戦闘には縁遠い人物だと雰囲気でわかる。背後に一頭立ての荷馬車。おそらくは行商人だ。

 前に並ぶ者たちからも、後ろに並んだ者からも、ちらちらと視線が送られる。

 苛立たしげに尻尾を膨らませるレヴィン。やはり強襲型の肉食獣、自分に向けられる視線には殊更に敏感なのだ。唸り声を上げたり睨み返さないだけ上出来というべきだろう。


「ちゃっちゃと納品して、お風呂行こっか」


 シルティは妹の頸部に右腕を回し、喉と首輪の隙間に手を突っ込んで優しく掻き撫でた。

 入浴の確約が嬉しいのか、あるいは姉の愛撫が気持ちがいいのか、レヴィンの表情が和らぐ。しかし、丸い耳介はぴくんぴくんと忙しなく動いており、周囲の音を入念に拾っていた。完全なリラックス状態には程遠いようだ。

 不意に魔が差したシルティは、左耳を無遠慮に摘まむとぺろんとめくり、耳介の中に密生する色の薄い被毛を露わにした。

 レヴィンは即座に頭を振り回して姉の悪戯を振り払い、両目を逆三角形にして睨み付ける。摘ままれたり揉まれたりするくらいならともかく、完全にめくられるのは嫌らしい。

 不躾ぶしつけな行為の理由を問い詰めるような山吹色の視線。

 しかし、シルティの今の行為に意味などない。手の届く範囲に微動する耳介があったから、なんとなくちょっかいを出したくなっただけである。


「耳が可愛かったから……」


 エミリア・ヘーゼルダインを彷彿とさせる言い分。レヴィンは無言で頭突きを放った。

 巨大な頭部が革鎧に包まれた胸部に勢いよく衝突し、重く鈍い音と共にシルティがよろめく。いやはや、素晴らしい威力だ。レヴィンはさらに上半身を持ち上げ、姉に抱き着くようにし掛かりつつ、顎を大きく開いて左の首筋にあぐりと喰らい付いた。

 無論、本気の噛み付きではなく、ただのだ。首筋を口腔内に取り込みはしたものの、顎は開きっぱなし。鋭い白牙はシルティの肌に食い込みもしていない。

 しかし、はたから見ている者たちにとってはちょっとした事件である。


「ヒッ」


 後ろに並んでいた嚼人グラトンの青年が、か細い悲鳴を漏らして後ずさりをした。

 シルティは笑いながら手を振り、青年に無事を伝える。


「すみません。じゃれてるだけです、大丈夫です」

「あ、ああ。……はい」


 この上なく強張った表情を浮かべ、辛うじて頷く行商人。

 するとレヴィンは姉に伸し掛かるのを止め、地面に四肢を付けてゆっくりと振り返った。フルォゥン。控えめな音量で喉を鳴らしつつ長い尻尾をにゅっと伸ばし、柔らかな先端で青年のひたいに軽く触れる。

 青年はびくりと肩を跳ね上げて身体を硬直させたが、それが謝罪を込めたものであることを察すると脱力し、ぎこちない笑みを浮かべた。被っていた帽子を脱ぎ、丁寧に会釈をする。


「アルベニセから先隣の都市アルセギカまで行商しております、マヌエル・ギリングズといいます。シルティ・フェリスさんでしょうか?」

「はい。琥珀豹こっちはレヴィン・フェリスです」

「噂には聞いていましたが、まさか本当に琥珀豹を猟獣にしていらっしゃるとは……」

「ふふ。まぁ、成り行きですよ。たまたま、あの仔の母親の最期に立ち合いまして」

「なんと……」


 お互い、列が進む間は暇なのだ。自然と雑談が始まった。

 レヴィンは二人から一歩離れ、我関せずの態勢に移る。

 彼女は基本的に初対面の相手には気を許さない。物理的にも精神的にもある程度の距離を保つ。例外は筋骨隆々マッチョな相手ぐらいである。

 マヌエルは細身の優男なので、レヴィンの好みではない。荷馬車を牽引している馬も、かつて友誼ゆうぎを結んだ重種馬ルジェアと比べると小柄で、やはり好みではなかった。

 筋肉信奉者レヴィンは興味を失ったように視線を前に戻し、顎を大きく開くと、薄っぺらい舌をにゅうっと伸ばしながら盛大な欠伸を披露する。

 右の前肢を舐めて顔をこすり、軽く毛繕いグルーミングをしてから、空を見上げて魔法の訓練を開始した。





 初対面の衛兵と適当に雑談し、荷物を検められ、税金を納めた。

 陽炎かげろう大猫オオネコの素材を欲しがっているのは、西区に居を構える『マッドレル研究所』である。


「ちょっと急ごっか」


 シルティはレヴィンに声をかけ、迷惑にならない程度の小走りで西区へ向かう。

 アルベニセでの狩猟者の仕事は原則早い者勝ちだ。

 シルティは陽炎大猫の紙片に気付いたその日に出発し、徒歩七日の距離を四日で踏破して草原に到着、その翌日には狙いの獲物を必要数仕留め、そして同様の速度で帰ってきた。ほぼ最短の時間で狩猟を終えたと言えるだろう。

 しかし、あの依頼紙片がいつから貼り付けられていたのかは定かではない。『琥珀の台所』以外の食事処にも貼っているはず。シルティより先に紙片を見て陽炎大猫を狩り、今まさに納品しようとしている人物がいるかもしれないと考えると、あまり悠長にしてはいられなかった。

 陽炎大猫の素材は扱いづらいのだ。もし売り損ねた場合、別の引き取り先を探すのは難しいだろう。

 大通りを真っ直ぐに進み、東区をそのまま通り過ぎる。

 中央区と呼ばれる区画へ足を踏み入れたところで、シルティは足を止めた。


(んんん……)


 どうにも遅い。

 単純に人通りが多いというのもあるし、レヴィンを連れた状態であまり急ぐと物理的な衝突を避けても事故が起こりかねないので、これ以上の速度が出せないのだ。今更だが、これなら都市の外をぐるりと回って西門に行った方が結果的に早かったかもしれない。


 ちらりと空を見る。

 とてもいている。


「レヴィン、上を通ろっか」


 百三十日間も雲の中を彷徨さまよったフェリス姉妹にとって、もはや空中は地上と変わらぬ道である。

 シルティは大通りの端に妹を連れて行き、往来の邪魔にならない位置から鉛直に駆け上った。

 言うまでもないことだが、凄まじく目立つ行為だ。周囲から悲鳴のような声が上がり、驚愕と奇異の視線が向けられる。


「すみません、すみません」


 シルティは手振りと会釈と言葉で謝罪を振り撒きつつ跳躍を繰り返し、嚼人グラトン男性五人分ほどの高さを稼ぐと、そのまま水平方向に走り出した。人込みを走っていた時とは比べ物にならない速度で最短距離を行く。

 人類種にせよ朋獣にせよ、都市内での魔法の使用は基本的に禁じられていない。もちろん、それが原因で事故や事件を起こしてしまえば普通に罰せられるが、珀晶を使って空中を走ること自体が法的に問題となることはないだろう。岑人フロレスの移動方法と似たようなものだ。……多分。





 港湾都市アルベニセの中央区に開かれた喫茶店、そのテラス席に、一人の岑人フロレスが座っていた。

 彼女の名はカトレア・オルカダイレス。

 五年ほど前からアルベニセを拠点に活動している狩猟者であり、今年で二十一歳。女性というより少女と呼ぶべき年頃だ。健康に生きた岑人フロレスの寿命は百三十年ほどなので、単純に嚼人グラトンの年齢に換算すると十六歳前後だろうか。

 中央区では若くも優秀な岑人フロレスとしてその名が知られる、新進気鋭の狩猟者である。


 先日、長期の狩りを終えて都市に帰還したカトレアは、久々の休息を満喫していた。

 物心ついた頃からコツコツと蓄えてきた天峰銅オリハルコンを操作し、氷の浮かんだコップとフォークを静かに保持。お茶とケーキで舌を甘やかし、とろけたような笑みを浮かべている。


「はーぁ……」


 めちゃくちゃ美味しい。今日はいい日になりそうだ。

 天峰銅オリハルコン触手うでを新たに生やし、頭上に広げてひさしを作りつつ、持参した本を開く……と、その時。

 岑人フロレス特有の尖った耳が、微かな騒音を捉えた。

 なんだろう、と視線を向けると、道ゆく人々が揃って空を見上げている。

 カトレアも、釣られて視線を空へ。


「う?」


 逆光の中を走る四本脚の獣の姿。巨体で、尾が長い。

 そして、その前方を先導する、やけに小柄な嚼人グラトン

 どういうわけか、支えなど存在しない空中を軽やかに疾走している。

 眼前の光景に該当する存在が脳裏に浮かび上がり、瞬間、岑人フロレスの少女は跳ねるように立ち上がった。


「シルティ・フェリス!?」


 小さいだの、でかいだの、琥珀豹を猟獣にしただの、雷銀熊や削磨狐みがきギツネを狩っただの、鷲蜂わしバチの女王を採取できるだの、真銀ミスリルの太刀をこれ見よがしに自慢しているだの、一年ほど前からなにかとよく耳にする新入りの狩猟者。

 挙句の果てには六肢動物すら斬ったらしい。


「あれが……!」


 亜麻あま色の両目をギラギラとしたものをたたえ、フェリス姉妹の行方を視線で追う。

 嚼人グラトンと琥珀豹は凄まじい速度で西方へ向かい、あっという間に視界の外へと消えていった。


「なにそれ……!」


 薄桃色の唇から嫉妬に満ちた言葉が漏れる。

 カトレアは自他ともに認める目立ちたがりだ。そして、その性根を肯定できるだけの技量と実績を持っている。さすがに己こそ最強と自惚れるほどではないが、若手に限定すれば自分こそがアルベニセで最高の狩猟者だと、そう思っていた……シルティが話題をさらうまでは。

 ほぼ同年代で自分より目立っている同性の狩猟者。

 率直に言って気に食わない。

 気に食わないが、しかし。


「かっこよ……」


 それ以上に、カトレアはシルティのファンだった。


 お近づきになりたい。

 今ならまだ追いつけるかも。


「ご馳走様!」


 カトレアは即座に喫茶店を跳び出した。


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