第172話 琥珀豹形シェルター
広大な草原の真っ只中。
二匹の
シルティは全身全霊を込めて寝返りを打つと、どうにかこうにか
血と内臓の匂いを撒き散らしてしまった。肉食獣を引き寄せてしまう前に移動しなければならない。
「んッ……ふっ、ぐ……」
ぶるぶると震える両腕に万力を込め、しかし。
「ぐぅ……」
そのまま、べちゃりと
地面に左頬を押し付けた体勢で静かに呼吸を繰り返す。熱気を孕んだ草の匂いと、そこに混じる濃密な血の香り。平時であれば心地よさを感じていたかもしれないが、今はそれどころではない。
大きく息を吸う。
「ンクッ……んんッ……」
もう一度、試みる。
「ぐぇ……」
しかし、べちゃりと
どうしても身体を起こすことができない。
「ふ、ふふふ……」
シルティはつい笑ってしまった。
大振りの太刀を軽やかに操る自慢の両腕が、生まれたての小鹿も
眼球を動かし、妹の姿を視界の中央へ。
シルティが貫通させた飛鱗〈
胸郭の動きを見るに、呼吸は穏やかで落ち着いているし、肉体的には全く問題ない。
しかし、動かない。
シルティ同様、単純に疲労困憊なのだ。
(いや、これ……ほんと、
シルティは魔法『
本当にもう、超常的としか表現できない疲労感だ。正直、呼吸すらも
シルティが筋力不要の魔術『
(しっかし、まさか、不意打ちされちゃうなんてなぁ……)
シルティは彼らの狩猟方法を知っていた。魔法の知識もあった。だというのに、この体たらく。
当初の予定ではシルティが囮役を担い、上空に位置取ったレヴィンが周囲を警戒して襲撃を察知、突入してくる陽炎大猫の進路上に珀晶を展開し、衝突させ、体勢を崩したところにシルティが止めを刺すつもりだった。
かつて
だがシルティは、ローゼレステの熱中症らしき症状で冷静さを失い、哨戒役のレヴィンを大音量の指笛で地上に呼び寄せ、そして呑気にもその場で休憩に入ってしまった。
目立ちすぎである。襲われて当然の立ち振る舞いである。完全にシルティの失態である。
(……反省は、あとにしよう)
なんにせよ、少し休憩しなければ動けそうにない。
「レヴィン。シェルター。なるべく、硬いやつ……」
気力を振り絞れば声を出すことはできた。ただし声量は非常に微かだ。声帯の筋肉までしっかりと疲れ果てている。
レヴィンの尻尾の先端がぴくりと動いた。無事に耳まで届いたようだ。視線を巡らせて可能な限り周囲を把握する。
直後、広大な草原に小屋のように巨大な
フェリス姉妹と陽炎大猫の死骸を包み込む
また、天井部からは紐のような珀晶が真っ直ぐに垂れていて、先端はレヴィンの鼻先に。
レヴィンは非常に億劫そうな様子で顎を開けると、その紐を
「ありがと」
レヴィン自身の頭部を模しているのは別に遊び心というわけではない。
現在のレヴィンは『自分が触れている珀晶』かつ『作り慣れた形状の珀晶』であれば強化対象とすることができるが、やはり最も効率が良いのは『自分の肉体を相同的に象った珀晶』である。正味の体積が同じだとしても、単純な箱型よりも自身を象ったシェルターの方が遥かに堅牢化可能なのだ。
まあ今回の場合は、客観的に言ってあまり相同的とは呼べない形状だが……それでもやっておくに越したことはない。
体積は充分、レヴィンの生命力も充分。ちょっとやそっとの攻撃では壊れないはず。
(ローゼレステさんは……)
地面に
倒れたシルティから見て足元の方、空中に浮かぶ青虹色の球体が見えた。記憶にある座標と一致しているので、襲撃前と変わらず生き血とウイスキーのカクテルに浸かっているのだろう。ただ、シルティの生命力はもう完全に抜けてしまったようである。生き血という素材の劣化はとても早いので仕方がない。
【ローゼレステさん? 意識あります?】
声をかけてしばらく待ってみたが、無反応。まだ意識は戻っていないようだ。まさか三人も居て全員が身動き取れない状況に陥るとは。
「レヴィン、そっち見てて。私は、こっちを見とく。動けるようになるまで、休憩、ね。なんか来たら、殺すつもりで」
ヴゥ。
短く微かな了承の唸り声が返ってきた。
◆
しばらく経ち、フェリス姉妹はどうにか身動きが取れるようになった。
シルティは足を肩幅に開いた立位で身体を前後左右に
レヴィンは尻を高く上げながら両前肢を前に伸ばし、胸を床に付けるような姿勢で上半身を
噛み
しかし。
「んーんん……いまいち……キレがない……」
全身の骨格が
生命力に満ち溢れた魔物の肉体は、疲労の回復も当然の如く早いのだが。もしかしたら、動物たちの主観では疲労感と認識されるだけで、『疲憊転嫁』の本質はもっと超常的な毒素のようなものなのかもしれない。
シルティは妹に近寄って脇腹にしな垂れ掛かると、両腕を広げて腰や太腿をマッサージしつつ、陽炎大猫の死骸に賞賛の視線を向けた。
「凄い魔法だったねぇ」
レヴィンは気持ちよさそうに目を細めつつ、尻尾の動きで同意を示す。
効果の
超速度で接近して体当たりすれば、それで終わり。
まぁ、フェリス姉妹とは少々相性が悪かったようだが。
「にしてもこれ、どんな魔道具になるんだろうね?」
魔法『疲憊転嫁』が凶悪なことは身を以て体験したが、やはり便利とは言えないだろう。少なくとも日常生活で使えるようなものではない。やりようによっては睡眠導入剤のような使い方はできるかもしれないが、よほど上手く調整しなければ余計に疲れそうな気がする。
「武器にするのも危なそうだし」
打撃系の武器に加工できれば相手をあまり傷付けずに無力化できるかもしれない。しかし、自分に
肉体的に接触した相手を対象とするという前提から使用者を除外できればいいが、なかなか難しいだろう。特定の対象だけ冷やさない〈冬眠胃袋〉や、特定の音・匂いだけを通す『
ンルゥグ。レヴィンが喉を震わせた。
シルティにはわかる。罠にしたら強そうだ、と言っている。
「んー……確かに効果だけ見たらぴったりだけど」
現状、人類種は遠距離からの生命力導通を補助するような簡単な物理機構を発明できていないので、魔道具を設置型の罠として使うのは難しい。
簡単ではない物理機構――
かといって、その都度朱璃を凝固・溶融させるとなれば費用が馬鹿みたいに
不動産に分類されるような固定式の魔道具でもなければ、実用性は皆無と言っても過言ではない。
「罠型の魔道具はめっちゃくちゃ高いんだよ」
狩猟者が使うような小ぢんまりとした魔道具を手元から離して稼働させるには、それ自体に生命力を自弁する機構を組み込む必要がある。例えば〈冬眠胃袋〉の材料である
だが、そんなことをすれば製作の難度は跳ね上がり、値段が倍どころか
「少なくとも私は買おうとは思わないかなー。忍び寄って突っ込んでぶった斬る方が楽しいし」
シルティは〈冬眠胃袋〉からウイスキーの瓶を取り出し、ローゼレステの浴槽に
「ありがと」
感謝を告げつつ、シルティはさらに〈冬眠胃袋〉から凍り付いた水袋を取り出した。珀晶の作業台の上へ安置し、拳で砕き始める。
「まー、実は
「ノスブラに居た頃に
人類種たちが扱う魔道具には基本的に『
しかし
彼らは生まれながらに液体を身体の一部と見做せる種族。
陽炎大猫の襲撃前と同様、シルティは凍り付いた水袋をぐしゃぐしゃに殴り砕き、珀晶の器に盛り付けてレヴィンに提供した。残った半分はシルティの分だ。はしたなく大口を開けて注ぎ込み、ジャグジャグと咀嚼して……ふと、なにかに気付いたような表情を浮かべた。
しばし考え込み、頷きつつ口内の氷水を
「っていうかこれ、
考えれば考えるほど、陽炎大猫の魔道具は
シルティが鬣鱗猪の革鎧をヴィンダヴルに注文した時のように、
もしそうだとすれば、その
それは是非とも、会ってみたい。
できれば、模擬戦して貰いたい。
「久々に
蛮族は自分よりも強い相手を渇望する動物だ。
アルベニセに生息する人類種でシルティより遥かに強い個体は、
あとは
もちろん、今度はちゃんと仲良くなってから模擬戦を申し込むつもりである……と、その時。
【……う】
ローゼレステが
シルティは
【ローゼレステさん、聞こえますか】
【……ん……うー……? 気持ちい……】
【聞こえますか。血、もっと欲しいですか】
【……うん】
妙に幼い、というか、気の抜けたような口調だ。まだ意識がはっきりしていないのだろうか。
【ちょっと待っててくださいね】
シルティは〈銀露〉で治りかけの手のひらを再び切開し、生き血を注ぎ足した。
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