第171話 親娘と姉妹



 視界から姉が消えた。

 その瞬間、レヴィンの意識が団欒だんらんから戦闘へと切り替わる。


 身体を揺すりつつ右前肢で首筋をこすり、〈冬眠胃袋〉の脱着機構を操作。身軽さを確保して瞬時に後跳、視野を広げて姉を探す。

 見つけた。右方だ。地面にぐったりと横たわっており、動かない。

 無礼にもその上に覆いかぶさるのは、無色透明なを背負った巨大な猫の姿。

 細身でひょろい身体に黒線模様の走る横顔は、事前に聞いていた特徴そのもの。


 レヴィンは即座に跳び出した。

 絶大な出力を誇る琥珀豹の筋骨に莫大な生命力がみなぎり、蛮族仕込みの体捌たいさばきを訓練通りに再現する。地面を這うような低空疾走で肉薄、襲撃者を間合いに取り込むと同時に、屈強な両前肢で地面を削り掴む。急制動に伴って肩甲骨がボコリと隆起し、柔軟な体幹筋が膨大な慣性を保管した。長大な脊椎が湾曲することで慣性を瞬発力に変換、大腿筋をギチギチと収縮させて漏れなく蓄積する。

 即時解放。

 地面を陥没させるほどの前方跳躍を右前肢に集約させ、レヴィンは会心の殴打を放つ。

 だが、必殺の鉤爪が陽炎大猫に食い込むより早く、左方から上腕付近への衝撃を受け、視界が横転した。


 普段ならばこの程度の不意打ち、柔軟な骨格をくねらせて体勢を整えていただろう。日々、姉と模擬戦を繰り返しているのだ。意識の外から叩きつけられる突然の衝撃には慣れている。

 だが、レヴィンは流れた身体を動かすことができず、そのまま地面に身を投げ出すことになった。

 姉妹揃って無様に地面に横たわる。

 同じ方角からの襲撃により突き飛ばされたので、ちょうど、互いが互いの視界に映る位置関係だ。


 レヴィンは見た。姉の上にかる陽炎大猫を。

 小さな顎を精一杯に開き、革鎧の上から右の肩に浅く噛み付いて、興奮した様子で頭を振り回している。

 シルティは見た。妹の上にかる陽炎大猫を。

 小さな顎を精一杯に開き、柔らかな喉元に深く噛み付いて、前肢で抵抗を抑えつつ静かに圧迫している。


 陽炎大猫が、二匹。

 確かに彼らは基本的に単独行動をする魔物だが、動物の生態や習性は絶対ではないのだ。嚼人とフェリ琥珀豹ス姉妹という例に比べれば、同種族のペアなど珍しくもなんともない。

 種族的近似性からか、レヴィンは一目見てどちらの個体もメスであることがわかった。一番槍を務めた個体の方が一回り小さく、獲物シルティを仕留めようという動作もどことなく不慣れで未熟な印象。頸部のたてがみもまだ目立っており、姉妹というには少し年齢差がありそうだ。親娘おやこと考えるのが最も自然に思える。

 狩猟の訓練として娘に小柄な獲物シルティを襲わせ、経験豊富な親が大柄な獲物レヴィンを担当することにしたのだろう。レヴィンにも似たような経験がある。あお猩猩ショウジョウのオスの群れに襲われた際、最も小柄な個体を譲ってもらった。

 親娘と姉妹、二対二の殺し合いで負けるわけにはいかない。


 組み伏せられたまま、レヴィンは冷静に自己を診断する。

 出血の感触はない。陽炎大猫の歯牙は短く、琥珀豹の強靭な被毛を貫くことは難しいようだ。しかし、気道は潰されていた。確かに陽炎大猫の咬合力は肉食獣にしては弱めだが、さすがに柔らかな喉で耐えることは不可能である。呼吸がままならない。

 絞め技の怖さは姉との模擬戦レスリングでさんざんに叩き込まれている。蛮族の徒手空拳には重心の低い四肢動物を想定した裸絞めも存在するのだ。あれは根性で耐えられるたぐいのものではない。完全にめられると十拍も持たずに失神してしまう。


 さて、今の猶予はいかほどか。

 もう間もなく一歳半。もはや幼いとは言えないレヴィンの身体は各部が相応に太く逞しい。陽炎大猫の小さな顎では頸部を完全に咥えることができず、凸部のどに噛み付くだけで精一杯のようだ。

 けいどうみゃくどうを綺麗に圧迫するシルティの技と違って、血流に違和感がない。これで失神させるのは時間がかかるだろう、とレヴィンは判断した。

 真正面から圧し掛かられ、喉を噛まれているだけ。普段ならば簡単に反撃できる状況である。


 しかし、どうにも身体が動かない。

 まるで一晩中疾走を強制させられたかのような極限のが全身をさいなんでいるのだ。

 意識ははっきりとしているし、相変わらず生命力はみなぎっているのだが、四肢はおろか顔を動かすことすら超常的に億劫おっくうだった。

 倒れ伏す姉が動かないのも、レヴィンと同様の理由からだろう。


 陽炎大猫がなぜ陽炎大猫と呼ばれるか。

 単純明快、その身に陽炎のようなものをまとうからである。

 陽炎大猫が魔法を行使している間、流線形の背筋せすじからはたてがみのように陽炎が立ち昇るのだ。

 この無色透明な揺らぎはさほど寿命の長いものではなく、すぐに薄まって消えてしまうはかないものだが、発生源の移動速度が馬鹿げているため草原に長々と伸び、特に冬場では少し目立つ。

 発動中に視覚的変化が現れるという点では、鉱人ドワーフの魔法『月光げっこう美髯びぜん』や紅狼くれないオオカミの『生命せいめい眺望ちょうぼう』に近いと言えるかもしれない。


 この魔法、ほんの三十年ほど前には『過熱かねつ加速かそく』と呼ばれていた。

 当時の魔術研究者たちが、陽炎を伴う大猫たちの魔法を『身体の動きを加速させるもの』だと考えたからだ。

 もちろん、単純に足が速いだけならば、普通は研究者もそれが魔法によるものだとは思わない。そんな判断を下していたら六肢動物は漏れなく全てが超速移動の魔法を身に宿していることになる。ヴィンダヴルやシルティの動きだって、戦闘を生業としない生物からすれば充分に超常的速度なのだから。


 しかし、陽炎大猫の速度は研究者の理解を遥かに超えていた。生命力の作用で身体能力が増強されていることを考慮に入れても常識の埒外の埒外。疾走を開始すると同時に陽炎を背負うというわかりやすい特徴もある。

 あの高速疾走は単純な身体能力ではなく魔法による産物ではないか、と考えたのも無理はないだろう。

 認識の外から反応を許さぬ速度で強襲、疾走の慣性を十全に活かして獲物を押し倒し、牙から強力なを注入。そうして鈍間のろまにさせたら、獲物の抵抗を冷静になしつつ喉部に深く喰らい付き、窒息するまで気道を潰し続ける。陽炎大猫はそういう魔物だと考えられていたのだ。


 だがある時、一人の狩猟者が陽炎大猫を猟獣としたことで研究が一気に進行し、正しい魔法の詳細が明らかにされた。

 陽炎大猫は、陽炎を発していた時間に比例的な『疲労感』を、肉体的に接触した相手にことができるらしい。

 同時に名称も改められ、現在では彼らの魔法は『疲憊ひはい転嫁てんか』と呼ばれている。

 その疲労感の凄まじさはフェリス姉妹が現在体験している通り。助走時間に大きく左右されるが、充分なさえあれば、対象に運動的な抵抗が不可能になるほどの虚脱感をもたらす。そして、一度転嫁された疲労感は、接触を解消しても消すことはできない。


 要するにこれは、長く走れば走るほど獲物を楽に殺せるという魔法なのだ。

 肉体の構造から魔法の効果まで、生態の全てが疾走に最適化された一種の特異点。それが陽炎大猫である。


「るぇ、ヴィ……」


 レヴィンの耳に姉の声が届いた。

 見ればその唇は嬉しそうに緩んでおり、両目は爛々と輝いている。

 捕まえるのは任せた。斬るのは任せろ。そう言っている。

 異論なし。

 全く同じことを考えていた。

 疲労感はあっても生命力は消耗していない。

 魔法と魔術は生きている。ならばまだ戦える。


 身体の隅々まで満たす生命力を意識しつつ、姉の上でがむしゃらに頭を振り回す若い陽炎大猫を観察する。先ほどまでは肩を噛んでいたのだが、硬い革鎧には牙が立たないとようやくわかったのか、狙いを首筋に変更したようだ。柔らかな白い肌がほぐされ、少量の血液が噴出している。

 致命傷には程遠い。

 そもそも窒息させることが目的なら、あんなに忙しなく頭を振る必要などない。レヴィンを組み伏せている親大猫がやっているように、急所にちゃんと喰らい付いたあとはじっと潰すだけでいい。

 奇襲の成功と口内にあふれる血の味に必要以上に興奮しているのだろう。大雑把でつたない動きである。

 レヴィンは少し恥ずかしくなってしまった。自分自身にも少し思い当たる節があるからだ。


 と、その時、若い陽炎大猫の左前肢が姉の側頭部を、そして右前肢が二の腕を抑えた。レヴィンにはわかる。より具合のいい場所を咥え直すための予備動作だ。

 共感性羞恥を戦意で塗り潰し、視覚に意識を集中。姉にはまだまだ及ばないが、レヴィンも主観の引き延ばしは得意である。琥珀豹は視界を瞬間的かつ正確に認識する必要があるので、これも種族的な適性だと言えるだろう。

 予想通り、顎が開いた。

 更なる集中により時間を細分。ほとんど停止した視界の中、その薄暗い口腔内を注視する。求める形を精彩に描画し、その身に宿す超常を容赦なく行使した。


 悲痛な悲鳴を上げ、若い陽炎大猫が退く。

 お、とレヴィンは思った。

 黒い口唇が粘質の血液でべとりと濡れている。想定以上の痛手を与えることに成功したようだ。まさか遠隔強化も乗っていない珀晶で傷付けられるとは思っていなかった。

 レヴィンが生成したのは毬栗イガグリのように凶悪な形状をした珀晶である。突如口腔内に出現したそれを無警戒に咀嚼し、面食らって仰け反ってくれればそれでいい、という程度の狙いの一手だったのだが。おそらくは既に獲物を仕留めたも同然と油断していたのだろう。戦意と殺意が薄れ、生命力の作用が弱まっていたのだ。やはり、未熟。


 呑気な放物運動を披露する獲物を前に、琥珀豹の丸い瞳孔が最大に拡張される。

 自分の目の前で空中に跳び上がるなど、捕まえてくれと言っているようなもの。

 喉を噛み続ける親大猫をものともせず、レヴィンは矢継ぎ早に魔法を行使した。


 直後、若い陽炎大猫の身体が黄金色のにすっぽりと収まり、宙に固定される。自分の置かれた状況が全く理解できなかったのか、空中にとらわれた陽炎大猫は四肢を突っ張った体勢で硬直してしまった。

 レヴィンが生成したのは特殊な拘束具である。空への旅で自らが身に着けていた防寒具を参考にし、さらにフードの代わりに無口むくち頭絡とうらくを接続したような構造だ。前肢と後肢をそれぞれ根本で細くくくり、かつ頭部と胴体を包み込んで、自由度を著しく損なわせる。(※無口頭絡:馬の頭部に装着する馬具で、馬銜はみのないもの)

 ただし、外部から内部へ干渉できるように、全てが格子状になっていた。

 四肢と尻尾を除く部位を漏れなく包み込むそれは、晒し刑に使われる吊り籠ジベットのようにも見える。


 自らの身体で何度も試したので、レヴィンは身を以て知っていた。

 まともな四足歩行動物の骨格では、一度これに包まれてしまえばどうあがいても抜け出せない。

 噛み付きも無口頭絡により封じられ、四肢による殴打を繰り出そうにも踏ん張りが利かないとなれば、残された物理的手段は胴体のによる純粋な圧力で破壊することのみ。

 だがこの拘束具は充分な厚みを持たされ、拘束箇所も多く、また全ての部品が一繋ひとつなぎに生成されているため、体積強度は最大限に確保されている。

 陽炎大猫の肉体は速度特化、純粋な筋力はさほどではない。生命力の導通していない素の珀晶だが、これを破壊するのは容易ではないだろう。


 宙にはりつけにされた哀れな若者。そこに飛来するのは空気を斬り裂くシルティの殺意である。

 悍ましい速度で回転する〈瑞麒みずき〉が黄金色の吊り籠に突撃、甲高い音を立てて格子を切断すると、内部を貫通して逆側から抜けた。

 破壊により形状を維持できなくなり、珀晶が音もなく空気に溶けて消える。

 拘束を解かれた陽炎大猫が地面に落下し、そしてそのままくずおれた。

 地面にへばりつく胴体と、低く弾む頭部。

 首刎ねは狩猟者にとって最良の殺害方法である。


 シルティの唇が弧を描き、湿度の高い吐息が漏れた。

 レヴィンの唇が捲れ上がり、鋭い白牙が露わになる。


 興奮を絵に描いたような表情を浮かべるフェリス姉妹とは裏腹に、親大猫は凄絶せいぜつな怒気を露わにした。獲物の気道を圧し折るように首をひねりつつ噛み締め、さらに揃えた両後肢で柔らかい下腹部を痛烈に蹴る。貧弱な陽炎大猫も後肢の脚力だけは凄まじい。内臓が押し上げられ、横隔膜越しに肺腑を潰す。漏れた空気が狭い気道と声帯を通り、唾液と混ざり合って汚らしい音を響かせた。

 ひびれた咆哮を上げ、レヴィンがたける。シルティの霊覚器がくらむほどの生命力を生産し、疲労による拘束を強引に突破。右前肢を振り上げ、無礼な親大猫の顔面をと殴打した。

 無傷。

 情けなくなってしまうような威力である。

 根性でどうにかなるほど、魔法『疲憊転嫁』は甘くはない。


 無理を通した結果、レヴィンの身体は限界を超えた。致死的と思えるほどの虚脱感。もはや瞼を動かすことすら億劫だ。このまま寝たい。レヴィンは思考能力の低下を自覚した。だが、もう、独力ではどうにもならない。

 シルティはすぐさま魔術を操作し、妹を助けるべく〈瑞麒〉を向かわせる。すると、陽炎大猫は獲物と自身の上下をするりと入れ替え、レヴィンの身体をまるで掛布団のように盾にした。見事な判断能力。娘との死別の直後だというのに随分と冷静だ。

 しかし残念ながら、それはフェリス姉妹に有効な手段ではなかった。


 レヴィンが胴体の強化を解き、脱力する。自分が人質になることを良しとする蛮族は存在しない。共闘中に姉の足を引っ張るぐらいなら死んだ方がマシだ。せめて自分の身体を使い、獲物の動きを阻害する。

 シルティはそれを当然のものとして、妹の背中に〈瑞麒〉を突入させる。身内が人質となって生き恥を晒すのを良しとする蛮族も存在しない。もちろん殺すつもりはないが、少々斬るくらいは必要経費と考える。


 超常の切れ味を誇る飛鱗が琥珀豹の血肉にぞぷりと潜り込み、容易く貫通。仰向けの陽炎大猫の腹部に到達した。四肢動物の内臓の位置は良く知っている。シルティは脳内に描いた想像とを頼りに〈瑞麒〉の進路を切り返し、柔らかく暖かい体内を容赦なく侵略した。

 最初に侵入したのは胃だろう。そこから抜けた先にあるのはぷるんとした肝臓だ。横隔膜を貫通すれば、あらゆる獣の急所に到達する。

 ぐるりと螺旋を描くように蹂躙。肺腑と心臓を掻き混ぜる。


 そうして、草原に静寂が取り戻された。


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