第170話 『つるつる』と『ペタペタ』の間
朝っぱらから草原をぐるぐると
昨晩は雨が降ったのだが、今日は雲一つない快晴だ。風もない。少し湿っていた地面が夏真っ盛りの強烈な日差しにより急激に熱せられ、気象現象の方の陽炎が立ち昇っている。
しかし、肝心の陽炎大猫は現れない。
(くっそ
シルティは滝のような汗を止め処なく垂れ流していた。肌着はもちろん、鎧下までびっしょりである。
彼女はノスブラ大陸北東部の出身。寒冷地育ちなので寒さにはそれなり以上に強いが、暑さには少々弱いところがあるのだ。
(去年はここまで暑くなかった気がするんだけどなー……?)
一年前の夏は港湾都市アルベニセに辿り着いて
しかし、樹木の少ない広大な草原で、この日差しは、かなり
つまり、得難い経験だ。
「んふ。ひひひ……」
シルティの唇はだらしなく緩んでいた。
涎を垂らさんばかりの醜態だが、もちろん暑さでどうにかなっているわけではない。更なる強さの糧として、この酷暑をじっくりと味わっているのである。
(……でも、これはちょっとレヴィンにはキツいかもな……)
シルティは視線を頭上へ向け、目を細めた。空中で周囲を警戒しているレヴィンは、姉たちの真上を位置取れるよう定期的に移動している。現在は太陽とぴったり重なっているため視認はできない。
琥珀豹は全身が毛むくじゃらであるし、人類種に比べると発汗能力が貧弱である。多くの猫類と同様、汗をかける部位は肉球と鼻の頭くらいのもの。体温調節にはほとんど役立たないので、シルティに輪をかけて暑さに弱いはず。ちなみに、レヴィンの肉球からエミリアを狂わせる独特の香ばしい匂いがするのはこのためだ。
暑くなることは予想していた。限界になれば自分で降りてくる手筈になっている。しかし、レヴィンは少々見栄っ張りな部分があるので、頑張りすぎてしまうかもしれない。
熱によって卵の白身が固まるように、酷く蒸し焼きにされた脳は物質的に変質する。異常をきたした脳は
芯の芯まで火が通っていなければいずれは回復するが、身を焼くような炎天下環境は魔物にとっても猛毒だ。
火傷を負った部分や、眼球のように複雑な部位など、そこを切除した方が結果的に早く完治できる症例は多いが、さすがに脳は切除するわけにもいかない。ホカホカに
強くなるために忍耐と根性は大事だが、それで動けない時間が増えるというのは勿体ない。
そろそろ一度休憩しよう、とシルティが決定した、その時。
【ふざ、けるな……】
ローゼレステが、腹の底に響くような
【なんだ、この熱気は……】
途切れていた雑談の続きだと思ったシルティは、苦笑を浮かべながら相槌を打つ。
【雲の中に比べると、暑いですよねぇ……】
【もう、……無理】
直後、シルティの霊覚器に虹色の揺らめきが映った。
ほとんど目と鼻の先。指一本分の隙間すらない。
シルティは反射的に首を傾げ、小さく身を翻してその生命力を回避した。
すわ殺し合いか、とシルティは
虹色の揺らめきは微妙に形を変えながらふわふわと浮遊し、やがてゆっくりと凝縮、空中に小さな塊を成す。
(おっ? もしかして、冷やしてくれるのかな?)
精霊術の師であるマルリルに聞いた話だが、とある
空気のような軽い流動体は
ちなみに、地と水の原質支配ならば最上級の〈冬眠胃袋〉でも遠く及ばない極限の極寒を生み出し、人類種を
ローゼレステが生み出した虹色の塊は、じんわりと滲むように薄まり、やがて霧散した。
暑さに参っていたシルティは期待の籠った視線をローゼレステに向ける。
少し待ってみたが、しかし、特に何かが起きるわけでもない。
相変わらず灼熱のままである。
(あ、あれ……?)
シルティが困惑したその瞬間、ローゼレステはまるで糸の切れた操り人形のようにストンと落下し、地面にへばりついた。
「えっ。……なん、えっ?」
そのまま、動かない。
【ロ、ローゼレステさん?】
精霊の喉で呼びかけるも、ぴくりともしない。
物質の身体を持たぬ精霊種でも地面にはぶつかるのか、などと疑問に思っている場合ではなさそうだ。
視線を上に飛ばし、右手の指を咥える。息を大きく吸い、けたたましいほどの指笛を吹いた。
蒼穹に長々と響き渡る甲高い音色。肉声よりも遥かに遠くまで届く合図だ。レヴィン以外の魔物にも聞かれてしまうだろうが、ことは緊急を要する。
直後、太陽の中に黒い影が生まれた。みるみるうちに拡大される逆光の琥珀豹。重力のままに空気を貫きながら、しかしその山吹色の両目は見開かれている。吹き付ける強風などものともしていない。頃合いを見て多層展開した六角網珀晶を粉々に貫き、問題なく軟着陸を決める。自由落下にも慣れたものだ。
「荷物!」
姉の声に即応し、レヴィンが跳ねるように背中を向けた。シルティは戦闘中のようなキレを発揮して手を〈冬眠胃袋〉の中に突っ込み、すぐにウイスキーの瓶を取り出す。
よくわからないが、熱中症のようなものではないだろうか。
ならば、ローゼレステの身体に冷たいウイスキーを重ねてやればきっとよくなるはず。
(……んっ? んん?)
と、思ったのだが、なぜかローゼレステが瓶を通り抜けない。ガラスの瓶に押され、ころんと転がる。
まさかと思い、試しに手で
思っていたより、なんというか、柔らかい。『つるつる』と『ペタペタ』の間のような感触。皮膚が
じゃあもしかして気絶中の精霊種なら食べられるのでは。大抵の蛙肉は炒めたり揚げたりすると美味いのだが。
こんな時にも関わらず、シルティはそんなことを考えてしまった。
未知の食材に対する好奇心は
「レヴィン、器を作って。前にローゼレステさんに血をあげたときくらいの大きさで」
即座に生成された浴槽にローゼレステの身体をそっと安置し、そこに氷点下のウイスキーを
青虹色の身体は僅かにぶるりと震え、そのまま沈黙した。
念のために生き血もあった方がいいかもしれない。さらにシルティは〈
「こ、これでよし。……かな……?」
正直、これが適切な応急処置だという自信は全くない。が、これ以上できることも思いつかない。
シルティが安堵とも心配とも言えない溜め息を吐くと、レヴィンがのしのしと近寄ってきた。無言のままじっと見つめてくる。状況の説明を求めているようだ。
シルティは斬った手のひらを舐めて
「ん。ローゼレステさんが、多分、熱中症? みたいな感じになっちゃって……」
レヴィンが首を傾げる。
「あ、熱中症ってわかんないか。えーと、暑すぎて参っちゃったみたい」
なるほどね、というような唸り声を上げるレヴィン。そのままざりざりと胸元を
「私たちもちょっと休憩しよっか」
指で空を指すと、レヴィンは姉の意図を正確に読み取って魔法を行使した。五歩分ほどの直径を持つ半透明な円盤が生成され、直射日光を遮る。
(お?)
シルティが予想していたよりずいぶんと暗い。おや、と見上げてみると、レヴィンが生成した屋根は単純な円盤ではなく、中心部が
草原の中に明確な日陰が生まれ、一気に涼しくなった。最小限の体積で最大限の遮光性を実現する職人芸、実に見事である。
「ありがと」
シルティはレヴィンの鼻面を撫でてから背後に回り込み、〈冬眠胃袋〉から水の入った革製の水袋を取り出した。当然ながらこれもガチガチに凍り付いているので、このままでは飲めない。
言わずとも空中に生成された水平な作業台に革袋を安置し、振り上げた拳で殴打、殴打、殴打。細かい
出来上がる頃にはレヴィンは自分用の深皿を用意し、
「おまたせ」
広く口を開いた革袋を傾けて軽く揉み、珀晶製の深皿にざらざらと
間髪入れずレヴィンが喰らい付いた。無味の大粒かき氷を凄まじい勢いで
シルティは軽くなった水袋を頭上でひっくり返し、残っていた氷片と溶けた雫を口内へ落とす。
ガリゴリと咀嚼しつつ空になった革袋を折り畳み、〈冬眠胃袋〉へ収納していると、かき氷を平らげたレヴィンがヴァフッと吐息を吐き出した。
薄っぺらい舌で
「はいはい」
シルティは苦笑しつつ水袋をもう一つ取り出すと、先と同じように作業台の上へ安置する。
「こっちは半分こね?」
氷を割るために拳を振り上げ、そして、視界が横転した。
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