第168話 ローゼちゃん



 陽炎かげろう大猫オオネコ

 その呼び名の通り大きな猫といった姿で、食性は当然のように肉食だ。全身を覆う被毛は硬く短めだが、後頸部うなじから肩にかけての被毛は少し長く伸び、控えめなたてがみを形成する。ちなみに、生後間もない頃は鬣がより顕著で、尻尾の根本までふさふさだとか。逆に、鬣が完全に失われた個体はかなりの老齢とのこと。


 黄褐色のに黒色の斑紋模様を持つ大型の猫類動物のため、一見すると琥珀豹に似ているが、見る者が見れば判別は容易い。

 最も特徴的なのは顔面の模様。陽炎大猫の顔面は、両の目頭めがしらから鼻の横を通り上唇まで涙の痕のような軌跡の黒い線が走っているので、顔を見れば一目瞭然だ。

 身体の模様についても差異がある。琥珀豹の模様は頭部こそ小さな斑点だが、他の部位は基本的に。四肢の半ばより先や尻尾などは大きな斑点に見えるが、被毛を掻き分けて根本をよく確認すれば、中心部の色は少し薄くなっていることが多い。つまり、小径化したことで輪が潰れ、点のように見えているのだとわかる。

 一方の陽炎大猫は全身がまさしく斑点模様。模様の数は琥珀豹より遥かに多く、緻密である。また、尻尾の先端付近は斑点同士が繋がり、しま模様となっていることが多い。


 と、琥珀豹狂エミリア美人なおヘーゼル姉さんダインが教えてくれた。

 琥珀豹への愛には遠く及ばないが、陽炎大猫のことも大好きらしい。


 それから、体格にもかなりの差がある。

 陽炎大猫は全体的に細身ですらりとしており、体重は琥珀豹の半分もない。特に頭部は非常に小さく、必然的に咬合力こうごうりょくは弱め。歯牙も短いので、琥珀豹のように獲物の急所をかじり取って即死させる、というのは難しそうだ。

 一方で胸郭はかなり大きく、四肢が目を見張るほど長いため、体重の割に体高(肩の高さ)はあった。

 大きな胸郭は優れた心肺機能の証。長くしなやかな四肢は長大な歩幅を担保する。

 少々でも経験を積んだ狩猟者ならば、彼らの身体が疾走に特化した構造だと一目でわかるだろう。


 これがもう、とにかく速い。

 具体的には、ヴィンダヴルが『どう頑張ってもあいつらにゃ追い付けんぜ』と笑うぐらいには速い。

 シルティやヴィンダヴルの肉体を後天的な速度特化とするならば、陽炎大猫の肉体は先天的な速度特化。生まれた瞬間から速く走れて当然という世界に生きる魔物である。

 自らの性能の確信こそが生命力の作用を生ずるのだ。彼らは生きているだけで自然と高速の実現に傾いていく。

 それでいて、瞬発力だけでなく持久力にも優れるというのだから素晴らしい。

 瞬間加速力動きのキレではシルティも負ける気はないが、単純な追いかけっこになれば簡単にちぎられてしまうだろう。


「んふふふ……」


 掲示板に貼り付けられた紙片を前に、シルティはにんまりと笑みを浮かべた。

 陽炎大猫の狩りは単純明快。

 草原を住処とする昼行性で、基本的に単独生活を送り、それぞれが広い縄張りを持つが、育児中を除いて決まった寝床は持たない。明るくなると自身の縄張り内を思うがままに巡回し、ことあるごとに木に登って高さを確保、優れた眼球を駆使して獲物を探す。

 そうして獲物を捕捉したあとは、一直線に疾走を開始する。

 彼らは近くまで忍び寄るなどというまどろっこしい真似はしない。獲物の警戒範囲外で加速し、余裕を持って最高速度トップスピードに到達すると、その超速を維持したまままっしぐらに肉薄、強引に喰らい付くのだ。


 いやはや、格好いい。

 速度とキレを身上とするシルティにとって、速度一辺倒のとがり切った暴力生き様は一種の理想である。

 その生態を知ったときから是が非でも殺し合いたいと思っていたのだが、残念なことに、今の今まで掲示板にその名が貼り出されることがなかった。ノスブラ大陸を旅していた頃はお金など割とどうでもよかったので、斬りたいと思えばすぐに斬りに行っていたのだが、現在はそうも言っていられない。できるだけお金になる狩りをしなければ。

 陽炎大猫の魔法は『便利』とは言い難いものなので、黒曜こくよう百足ムカデの時のように斬ってから買い手を探すとしても結構な手間がかかるだろう。

 つまりこの機会、絶対に逃せない。


「レヴィン、すぐ準備するよ。他のヒトに取られるまえに斬らなきゃ」


 ローゼレステに手伝って貰うべきかは微妙な相手だが、ここはシルティの欲望を優先させてしまうことにした。





 港湾都市アルベニセから東南東とうなんとう方面へ徒歩で七日ほど進むと、疎林そりんが点在する広大な草原が広がっている。今回の獲物である陽炎大猫の生息地だ。

 食事処『琥珀の台所』で次の狩りの予定を立てたフェリス姉妹は、急いで買い物を済ませ、そのままアルベニセをった。蛮族姉妹がその脚力を十全に発揮した結果、徒歩七日の距離を四日で踏破し、夕暮れ頃に草原に到着。さすがに疲労を感じたので、その日は早めに休息を取った。


 翌日、朝。

 シルティは草原を歩いていた。〈冬眠胃袋〉も背負っておらず、身軽な状態だ。左手は腰に吊るした〈永雪〉の鞘に添えられており、いつでも抜刀できる臨戦態勢だが、その表情は呑気なもの。


【いい天気ですねー】

【……】


 頭上にはローゼレステがふよふよと浮かんでいた。

 今朝方【今後のためにちょっと私たちの狩りを見学してみませんか】と連絡してみたところ【おさけがあるならば】と渋々ながら了承して貰えたのである。お酒で釣ったような形になってしまったが、仕方がない。

 ちなみに、金欠中のシルティだが、お酒はある。

 先日、シルティは『ローゼレステを呼ぶためにはウイスキーを買い足さなければならない』と思っていたが、よくよく考えてみればローゼレステは物質を透過できるのだし、開封する必要はなかったのだ。

 使い回しになってしまうのは申し訳ないが、初対面時に使ったウイスキーを瓶に詰め直したものでもいいかと尋ねたところ、ローゼレステは【それはなにが違うんだ】と疑問を呈しつつ普通に承諾してくれた。

 つまり、ウイスキーの瓶を一本〈冬眠胃袋〉に収納しておけば、ローゼレステへの報酬は永続的に確保できたも同然ということである。


 正直、とてもありがたい。

 ありがたいのだが、なんというか、シルティの感性ではあまりに不誠実だ。

 シルティがやっていることと言えば〈冬眠胃袋〉を背負っているだけ。労力とも呼べない労力である。ローゼレステにただばたらきさせているようにしか思えなかった。


【ローゼレステさん。お酒以外に欲しいものはないですか?】


 気が済まないので、これからもローゼレステが好みそうなものをいろいろと探そうと思っている。

 気分よく生きるために、自己満足はとても重要だ。


【……ない】

【そう言わずに。お酒といってもいろいろありますし】

【なにが違うんだ】

【味とか、香りとか……】


 とりあえず、まずはいろんなお酒をご賞味いただこう。

 水精言語に『味』や『香り』に該当する単語があるということは、水精霊ウンディーネにも味覚や嗅覚、あるいはそれに近いものが備わっているのだろう。ローゼレステは酒の風味というより温度を重視しているようだが、いろいろ試せば好みというものが出てくるかもしれない。


【それに、お酒以外にも凍らない液体みずはありますよ?】


 シルティの知る限りでは、まずは醤油。あれは冬でも凍らない調味料である。あとは、液体と言っていいかは微妙だが、品質の良い蜂蜜なども粘度を増すが凍結はしないはず。どちらも酒よりも遥かにわかりやすい風味をしているので、ローゼレステが気に入る可能性は高いように思えた。もちろん、嫌う可能性も同じだけあるが。


【ちなみに私のイチオシは天峰銅オリハルコンです】

【オル……オリハ?】

天峰銅オリハルコン。あれはお酒が凍るような温度でもまだまだ凍りません】

【なんっ】


 フェリス姉妹の所有する二つでは性能不足だが、上級の〈冬眠胃袋〉であれば強い蒸留酒も凍らせることができるらしい。だが、それを用いたとしても、超常金属天峰銅オリハルコンを凍らせることは不可能だろう。

 天峰銅オリハルコンはどれほど温度を変化させても液状を保つと聞く。元々、岑人フロレス岑嶺しんれい(険しく高い山)に生きる魔物。ウイスキーが芯まで凍るような厳しい冬が日常の世界で、分泌した天峰銅オリハルコンをぬるぬると操っていたのだ。

 少なくとも現在の人類種が実現できるような低温では凍らない。


【……好きにしろ】


 ローゼレステの声音がかすかに弾んだような気がする。さすがに惹かれるものがあったのか。


【ふふ。はい、好きにします。ただ、天峰銅オリハルコンはなかなか手に入らないので、今後のお楽しみということで】

【……なるべく早く】

【はい】


 シルティは頭上のローゼレステに視線を向け、なんとなく微笑ましく思った。


【ちなみになんですけど、ローゼレステさんて……えーと、生まれてからどれくらい経ってますか】


 何歳ですかという表現が思いつかなかったので、適当に変える。会話に支障はない程度ではあるが、細部ではまだ少し覚束ない。もっと学習しなければ。


七巡ななじゅんだが】

【七巡……巡? ……あ。七年?】


「……えっ、七歳なんですか!?」


 思わず物質の喉から声が出てしまうシルティだった。


【ロッ。……ローゼちゃんて呼んでいいですか】

【なんだお前は】


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