第166話 不凍液



 シルティは〈永雪〉の柄を愛おしげに撫でながら、この上なく悲しそうな表情を浮かべる。


【殺し合いをする、というのも、いずれ是非にと思うのですが】

【捨てろというのに】

【捨てるのは無理ですよ。私たちは殺し合いをするために生きているんですから】


 んンッ。

 生来の喉で咳払いを一つ挟み、気を取り直す。


【そんなことはさておきまして。本日はお近付きの印として、いくつか贈り物を用意しました】

【……贈り物?】

【はい。私たちは、ローゼレステさんと末長く仲良くしたいと思っていますので……】

【必要ない】

(んん……)


 シルティはまだ精霊種の声音というものを判断できない。ゆえに断言はできないが、なんとなく、ローゼレステの発する生命力の波に嫌悪の感情が込められていたような気がする。


【対価は払う。だが私はもう、今後二度と、決して、毛の少ない猿と大きな猫にはちからないことにした】


 取り付く島もないとはこのこと。ローゼレステはシルティとの契約を一度きりで打ち切る気のようだ。

 さて、どうしたものか。シルティは蛮族以外との交渉があまり得意ではないという自覚があるのだが。

 とりあえず、なるべくにこやかな笑みを浮かべ、用意した七種の貢ぎ物を手で示してみる。


【どうか、そうおっしゃらずに。どうでしょうか、この中でお気に召すものがありましたら……】

【私に欲しいものなどない。ただ静かに、清潔な雲の中で過ごすだけでいい。時折、嵐を楽しめれば、それでまん。……ぞっ?】


 なにやら突然に調子が崩れた。


【……な。ん。そ……。……】


 不意に言葉を忘れたかのように押し黙る。

 そして無言のまま、そろりそろりと貢ぎ物の方へと進み始めた。


(おっ?)


 進み、止まり、たまに僅かな後退を挟みつつ、しかし着実に距離を詰めていく。なんとなくレヴィンを彷彿とさせる動きだ。特に出会った頃のレヴィンは、初めて見る対象にはこうやって慎重に鼻を近付けていた。


(おお……)


 さて、その進路の先にあるのは。

 蒸留水でも、純氷でも、氷水でも、ましてやアクアマリンでもなく。

 ヴィンダヴルいちおしのウイスキーであった。


(まさか、お酒が……)


 シルティは息をひそめ、ローゼレステの動向を窺う。雰囲気を察したのか、レヴィンも同じように息を潜める。

 ローゼレステは珀晶のコップにそそがれた三杯のウイスキーのうち、氷点下まで冷やされた二つの周囲をクルクルと公転し始めた。距離をぐっと詰めたり、かと思えば、熱いものに触れたかのように急激に離れたり。警戒しつつも興味を抑えきれていない、といったご様子である。

 これは、想像を遥かに超えて好感触なのではないだろうか。


【……なんだ、これは】


 ローゼレステがシルティの方へと振り返った。もちろん、水精霊ウンディーネには見てわかるような顔などないので、シルティがそう感じただけだ。


【お酒、といいます】

【オサケ……】


 ローゼレステは氷が浮いていない方の杯に対し、緩い体当たりを繰り出した。身体が珀晶に重なった瞬間、まるで壁にぶつかったかのようにはずんで離れる。水精霊ウンディーネは生命力の介在しない物質をするりと貫通できるはずなので、敢えてこういった動きをしているのだろう。

 しばらくそれを繰り返したあと、茫然としたように呟く。


【これは。……悪くは、ない、な】

【お気に召しましたか。雲には存在しないものと思いますが】

【……まあ。ないな】

【どうぞ、お好きになさってください】

【……ああ】


 手振りでうながすと、ローゼレステはゆっくりとウイスキーに身体を重ねた。


【おッ】


 珍妙な声が上がる。


【……ほ……ぉぅん……】


 寒い冬の夜に熱い風呂に浸かり、思わず漏れたかのような響き。

 かつてシルティの生き血に浴したときとは違って脈動はしておらず、特になにかを吸収しているような様子はないが……明らかに、恍惚としているような雰囲気がある。さすがに、精霊種が酒で酩酊するようなことはないと思うが。


【んぅ……ふはぅ……】


 琥珀色の液体の中、青虹色の球体がぷるぷると震わせながら、ローゼレステが喘ぎ声を上げている。随分と気持ちよさそうだ。

 シルティは用意してきた他の貢ぎ物に視線を向けた。

 正直に言えば、シルティは蒸留水にこそ期待を抱いていたのだが、今のところ完全に無視されている。


【ローゼレステさん。こちらはあまり好みではないですか】


 蒸留水で満たした樽杯を示しながら問いかける。


【ん……。……ああ。……きよい水だな】


 どこかおざなりな返事。悪くはないが、ウイスキーほど心くすぐられるものではないらしい。量が足りなかっただろうか。


【では、こちらはどうですか】


 常温のウイスキーを示しながら問いかける。


【……うるさいッ!】

【ひえっ。す……すんません……】


 怒られてしまった。まさか声を荒げられるとは思わなかったが、これはこれで朗報だ。邪魔されるのに怒りを覚えるほど気持ちがいいということだろう。

 なんにせよ、冷たい方が好みらしい。ヴィンダヴルも冷やして飲むのが美味いと言っていたが、精霊種の味覚も人類種の味覚と似通う部分があるのだろうか。いや、もちろん、物質的に飲んでいるわけではないので、こうしてローゼレステが恍惚としている原因が味覚かどうかも怪しいところだが。

 さらに言えば、同じ氷点下ウイスキーでも、氷を浮かべていない方を選んでいるのにも理由がありそうだ。蒸留水から作った純氷なので、水精霊ウンディーネが嫌うようなものではないと思うのだが……。


(……あんまりしつこく聞くのもよくないか。細かい好みはもうちょっと仲良くなれたら聞こっと)


 そう判断したシルティは、ローゼレステが満足するまで待つことにした。




 太陽が拳二個分も傾くほどの時間が経った頃。

 ようやく、ローゼレステがウイスキー風呂から上がってきた。


【……ぬるくなった。この……オサケ? もう、ないのか?】


 しかし、満足したわけではないらしい。


【もう少しだけなら】


 三本のウイスキー瓶のうち、二本が氷点下ウイスキーだ。残りは〈冬眠胃袋〉に収納していたので、今も氷点下のまま保たれている。

 シルティは、小さく手振りハンドサインを送ると、意図を正しく読み取ったレヴィンが新しい酒杯を生成してくれた。もはや注がれるのすら待ち切れないのか、ローゼレステは見るからにうきうきとした様子で杯の中に納まる。


「っふふ」


 シルティは思わず笑ってしまった。いやはやまさか、ここまで気に入ってくれるとは。

 瓶の栓を抜き、氷点下ウイスキーの残りを全て、惜しみなくそそぐ。


【おんッ、くふぉ……は……】


 ローゼレステがぶるぶると震えながら喘ぎ出す。


【いかがでしょう。このお酒を対価として提供しますので、今後もちょっとしたお手伝いをお願いできませんか。お酒の量は……そうですね、仕事の難度によって相談ということで……】


 ローゼレステの震えが止まった。

 多分だが、ウイスキーの中からシルティを見上げている。


【殺し合いは、絶対にしない】

【んん……わかりました。お酒を対価として私との殺し合いをお願いすることはしません。残念ですが……あ。ただ、他の動物との殺し合いに、助力をお願いすることはあると思います】


 初対面時、この水精霊ウンディーネは正々堂々を尊んでいた。多対一の戦いの多数側に参加してくれという願いは、ローゼレステにとって不愉快なものかもしれない。だがしかし、戦士として嘘は吐けない。可能性があるならば最初に伝えておかなければ。


【いかがでしょうか】

【……】


 ローゼレステからの返事がない。

 だが、無視しているというわけでもなさそうだ。悩んでいるような雰囲気を感じる。急かす必要はない。シルティはローゼレステから一歩距離を取り、レヴィンの頬を撫でてこっそり暇を潰すことにした。





 心臓の鼓動で三百回分ほどの時間が経過して。

 ようやく、ローゼレステが僅かに身動みじろぎをした。


【……まあ】


 青虹色の身体を急速に膨らませたあと、痙攣するように震えながら元の大きさに戻る。前にも見た仕草だ。やはり、これは水精霊ウンディーネにとっての咳払いのようなものなのだろう。


【悪くは、ない】

【おおっ。本当ですかっ! やったっ!】


 色好い返事に、シルティは跳び上がって喜んだ。

 触れ合った時間は短いが、ローゼレステが義理堅い性格なのはよくわかっている。約束をたがえるとは思えない。これで契約は完了したと言えるだろう。仕事と報酬の相関が曖昧なままだが、現状ではどのくらいが適当なのかわからないので仕方がない。今後、両者で相談して詰めていけばいい。


【よろしくお願いします!】

【ああ。……しかし】


 突如、ローゼレステが浸かっていたウイスキーの形が崩れ、触手となって空中へ細く伸びた。『冷湿掌握』の行使だ。この魔法は生命力が介在していない冷気と水気と液体を超常的に掌握する。ウイスキーも当然のように掌握対象である。


【こんなものがあるとは。……これほど冷たいのに。なぜ、水の形を保っている?】


 言葉から察するに、自然では当然凍るべき温度でありながら液体であることが、ローゼレステの琴線に触れたのだろうか。

 例えば塩水なども真水より凍りにくいものだが、蒸留酒ほど凍りにくい液体というのは自然界にはなかなか存在しないはず。


【えっ、と。それは……酒精が濃いので】

【シュセイ、とは?】

【え、えーと……】


 シルティは酒というものにほとんど興味がないので、酒精がどういったものなのか、酒がどうやって作られるのかなどの知識を全く持っていなかった。……仮に知っていたとしても、それを水精言語に翻訳して説明できる気はしないが。


【私もよく知りませんが、人類種が作るものでして】


 答えた瞬間、ローゼレステから呆れの波が伝わってきた。


【お前は知りもしないものを贈り物に選んだのか】

【そっ。……す、すみません……】


 至極真っ当な指摘に、ぐうの音も出ない。

 地上に戻ったら一度調べてみよう、とシルティは決意した。


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