第165話 交渉開始



 四日後。

 フェリス姉妹は実に十三回目となる空の旅を楽しんでいた。

 物資の調達が完了し、ローゼレステに追加契約を打診できるようになったのだが、地表に呼び出すのは嫌がられるかもしれない。そこで、雲の高さまでとはいかずとも少し地表から離れることにしたのだ。

 シルティを縦に二百人並べた程度の高さまで駆け登り、広くて水平な足場を生成。

 二つの〈冬眠胃袋〉の中から貢ぎ物の数々を取り出す。


 まず、最も多いのが蒸留水が密封された大量のガラス瓶。マルリルが提案した『浴槽いっぱいの蒸留水』というのはさすがに難しかったが、これでも合計すれば中型のたる一つ分ぐらいはあるだろう。

 総量の五分の二ほどは液体のまま。しっかり密封していたので純粋な状態が保たれている、はずだ。

 五分の三ほどは芯までガチガチに凍らせてある。このままでは中身を取り出すのも不可能なので、シルティが〈銀露ぎんろ〉を振るい、皮を剥くように瓶をぎ落とした。少し勿体無いが、仕方ない。このぐらいの出費は誤差と思っておく。


「それじゃレヴィン、お願い」


 姉の要請に応え、レヴィンが魔法を行使した。

 たる形の器が二つ、浅い大皿を一つ。全てが半透明の珀晶で分厚い。つまり通常よりも断熱性を持たせた構造だ。事前の打ち合わせ通りの形なのだが、やはりというかなんというか、それぞれに細やかな装飾が施されていた。

 ただし、今日のデザインには見覚えがない。シルティの知らないところで仕入れた知識だろうか。あるいはレヴィンが自分で考えたオリジナルかもしれない。

 シルティはくすくすと笑いながらレヴィンの喉を掻き撫でる。

 レヴィンは澄まし顔で喉を鳴らした。


「いつもありがと。便利に使っちゃってごめんね」


 最も大きな樽型容器は蒸留水で満たす。

 大皿には細かくした純氷をこんもりとる。残った樽型にはそれらを混合させた氷水を。前例では氷水に喜んだという水精霊ウンディーネは複数いるはずだが、ローゼレステはどうだろうか。


 次に、ヴィンダヴルに連れて行って貰った酒屋で購入した酒瓶。

 透き通った琥珀色のウイスキーが三本である。

 ヴィンダヴル曰く『こいつはまあ手頃な値段だが、果物みてぇなテロッとした甘え香りが極上でよ。まずカッとべろにきて、あとから喉をガオッと焼きやがる。熱くねえのにあちい感触が腹んなかに落ちてくんだ。キンキンに冷やして飲むのが殊更に美味うめえ。俺ぁ三倍の値でも買うぜ。精霊サマも気に入るだろ』とのこと。

 独特の表現ばかりだったが、とにかく、お気に入りだということはよくわかる。

 なお、酒にうといシルティは『これでまあ手頃な値段なのか……』と呆然とした。

 一本につき、フェリス姉妹が『琥珀の台所』で最大限に豪勢な食事を二十回くらいは楽しめる金額なのだ。かなり洒落にならない。


 こちらも蒸留水と同様、液状のものと凍ったものを用意するつもりだったのだが、残念ながらフェリス姉妹の〈冬眠胃袋〉では凍らせることができなかった。それだけ酒精が濃いということだろう。仕方がないので、一本は常温のまま、二本はキンキンに冷やしてある。

 小ぶりな林檎リンゴ二つ分ほどの大きさの杯を三つ生成。一つには常温の酒を、二つには氷点下の酒をトクトクとそそぎ、さらに片方には大きめの氷を浮かべる。

 レヴィンは酒精の匂いが少し苦手なようだ。無表情だが、煙たがるような視線を向けている。


 最後に、アクアマリン。

 ジュエリーになる前の、裸石ルースが一つ。

 シルティは全く知らなかったので完全に偶然なのだが、なんと槐樹かいじゅのエアルリンはこういった裸石ルース蒐集家コレクターであり、魔法『光耀こうよう焼結しょうけつ』でそれぞれの裸石ルースがぴたりとまる形状のブローチやネックレスを創出し、一期一会のオリジナル装身具アクセサリーを生み出すのが趣味なのだとか。

 森人エルフ以外の生命力を霧散させる凶悪な霧白鉄ニフレジスも、遠目に見る分にはただの美しい乳白色の金属。他種族と抱き合ったりしなければ社交の場でも身に着けられるのだ。


 上流階級の女性にとって美しい装身具アクセサリーというのは一種の武具。エアルリンは魔術研究者であると同時に港湾都市アルベニセでも有数の大富豪なので、裸石ルース蒐集しゅうしゅうは実益を兼ねた趣味と言えるだろう。

 シルティとの初対面時、エアルリンはいの一番に『琥珀の蒐集家コレクターという噂は本当なのか』と尋ねたが、あれはもし本当ならコレクションを見せて貰いたいという目論見があったらしい。


 今回はそのコレクションのうちの一つをで快く譲ってもらった。胡桃クルミほどの大きさ、包有物インクルージョンは皆無で極めて透明。夏の水平線のように深い青色を呈しており、角度によって仄かに緑色が滲む。楕円形のオーバルカットで、六十九個の切子面ファセットが陽光をきらびやかに反射していた。

 稀少な大粒原石に職人の繊細な技術が惜しみなくそそぎ込まれた素晴らしい逸品だ。

 つまり、エアルリンが提示した価格は、実際のところ全く適正ではないのである。

 二度の鷲蜂納入や重竜グラリアを持ち込んだという実績、そして外見的な好みにより、最近のエアルリンは蛮族の娘がお気に入りなので、かなり割り引いた値段を提示していた。残念なことにシルティはなにひとつ理解していないが。


 ローゼレステが興味を示さなかった場合、シルティはこれをレヴィンにプレゼントするつもりだ。使い回しのような形になってしまうのは申し訳ないが、彼女は姉と違って宝飾品を美しいと思える感性の持ち主であるし、エアルリンの趣味の話を真剣に聞いていたのできっと喜んでくれるだろう。

 珀晶で作った台の上に持参したクッションを乗せ、その上にそっと安置する。


 蒸留水。純氷の山。氷水。

 常温のウイスキー。氷点下のウイスキー。純氷を浮かべた氷点下のウイスキー。

 そして、アクアマリン。

 この七種の中にローゼレステが気に入るものがあれば最良の結果だ。

 まあ気に入るものがなくとも、これだけ準備したうえで『あなたともっと仲良くしたいと思っています』という姿勢を示せれば、少なくとも悪印象は持たれないだろう。シルティはそう判断した。……もちろん、これが希望的観測という自覚はあるが、他に思い付かなかったので仕方がない。


「よしっ、準備完了。それじゃ、ローゼレステさんを呼ぶね」


 その途端、レヴィンは自身の胸元や前肢をざりざりと毛繕いグルーミングし、身嗜みを整え始めた。

 ローゼレステから『汚い』と言われ、しかもそれを否定できなかったことをかなり気にしているようだ。


「大丈夫大丈夫。お風呂にも入ってきたでしょ。ちゃんと綺麗だよ」


 昨晩は入浴を楽しんだうえに寝る前にブラッシングもしたので、毛並みもとびきりの仕上がりである。シルティは五指を鍵状に折り曲げた右手で妹の後頚部うなじを撫でき、滑らかな手触りを堪能した。

 ついでに左手で丸い耳を摘まみ、耳介の裏の白い模様を指先ですりすりとなぞる。

 多くの猫の仲間は、耳介の裏に『虎耳こじ状斑じょうはん』と呼ばれる白い模様を持つ。模様の形状は種によって多少の差異があり、知識があればその模様だけで種をある程度同定することも可能である。

 さて、琥珀豹の虎耳状斑は比較的わかりやすい。パッと見ると上下に白黒の二色で、よくよく見ると先端が黒で細くふちられているというもの。

 なんてこともないただの模様なのだが、シルティはなぜかこれが妙に好きだった。

 琥珀豹狂エミリアではないが、ついついなぞりたくなってしまう魅力があるのだ。


 レヴィンは頭部を軽く振ってシルティの指から逃れると、耳介をパタタと細かくはためかせ、更に無言のまま牙を見せてきた。

 今日は耳介の裏を撫でられたい気分ではないらしい。


「んむ。つれないなぁ……」


 妹の拒絶を受けたシルティは、少ししょんぼりとしながらハーネスに括り付けていた小さな布の袋を取り外し、その中から親指ほどの大きさの透明な球体を摘まみ出した。

 ローゼレステが魔法で固めている連絡用の水珠だ。

 水精霊ウンディーネは、自分の『ウォークス』とやらで染めた水の場所ならそれが抜けるまでは遠くからでも感じていられる、らしい。ただし、柔らかくなってきたら一度呼べとも言っていた。どのくらい保つかは不明だが、使用期限があるようだ。

 指先でふにふにと摘まむ。心地の良い弾力。毎朝こうして確認していたが、今のところ受け取った当初と変わらない感触に思える。まだ大丈夫だろう。


【ローゼレステさん。シルティ・フェリスです。今、お時間大丈夫ですか? よろしければ、少しお話を】


 問いかけると、そう間を置かず、水珠が小刻みにぶるぶると震えた。

 どうやら呼びかけは無事に伝わったようだ。

 シルティが摘まんでいた水珠がぱッとほどけ、渦を巻きながら霧散する。


「おおっ」


 思わず感嘆の声を上げた直後、シルティの霊的視界にほのかな青虹色が映った。気が付けば、まるで最初からそこにいたかのようなローゼレステの姿。

 多くの精霊種たちは、自分の『ウォークス』で染め上げた存在があれば、こうして自身をその場へ出現させることができるという。これは魔法の効果ではなく、精霊種という半超常の生物に備わったのようなものらしい。

 なんというか、物凄く便利だ。


【お久しぶりです!】

【……ああ】


 シルティは朗らかに挨拶をしたが、ローゼレステの反応はあまりかんばしくない。

 もしかして体調が悪いのかなと思い、シルティはローゼレステの様子を窺った。

 ローゼレステの身体は出会った当初と同じく、拳ほどの大きさに戻っている。とはいえ、精霊種の体調が身体の大きさに完全に比例するとは限らない。


【ローゼレステさん、お身体の調子は】

【問題ない】


 問題ないらしい。

 およそ半月ほど前の殺し合いで、シルティはローゼレステの身体を二度も真っ二つにした。直前まで殺し合っていた相手になりふり構わず助けを求めたのだから、あれはほとんど致命傷と呼べる負傷だったはずだ。少なくとも嚼人グラトンは正中線で真っ二つにされたらまず一回で死ぬ。

 そこから半月で快復するとは。

 物質の肉体を持つ人類種とそのまま比較するのは難しいかもしれないが、実に素晴らしい再生能力だ。


【にじのせっか、は、海にあるのではないのか】


 ローゼレステがくるくると空中で小さな円を描きつつ、呟くように疑問を呈した。海ではなく空に呼び出されたことを怪訝に思っているらしい。


【今日はそれとは別でして。折り入ってローゼレステさんにお願いが】

【殺し合いはしない】

【……ですか】

【絶対にしない】


 シルティは肩を落とした。

 正直に白状すると、もちろん、あわよくば、と思っていた。


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