第164話 蒸留完了



 本日の蒸留作業には大別して四つの目的がある。

 蒸留水を製造すること。

 刃物愛好家たちの欲求を満たすこと。

 エミリアとの入浴時に微かに光明が見えた、レヴィンの『遠隔強化』の訓練をすること。

 そして、シルティがヴィンダヴルから授かったキレの神髄、『足場強化』の訓練をすることである。


 地面を覆うように広げた分厚い珀晶の土台。これはククルビットの体積強度を稼ぐためだけのものではない。体積を累加するだけなら他にいくらでもやりようはあった。わざわざククルビットの下に大きく広く生成したのは、したたり落ちた火炎を受け続け、肉が焼けるほどの高温に達した土台のが、遠隔強化や足場強化の訓練に有用かもしれないとシルティが考えたからだ。

 自己延長感覚の確立の第一歩は、その対象を執念深く愛を込めて使い込み、精密に把握したうえでという実績と実感を積み上げること。

 しかし、動かすことのできない地面や珀晶にこの方法は使い難い。

 そこで、エミリアの舌というを呼び水として曲がりなりにも珀晶への生命力導通を実現したレヴィンを参考にする。


 元々、蛮族は痛みや苦痛のような不快とされる刺激をも糧とするように育てられる。

 無論、シルティに育てられたレヴィンも同様である。

 必然、それが自己延長感覚の確立に役立たないはずがないのである。

 と、思うことにした。



 レヴィンは理解していた。

 近い将来、自分は純粋な筋力で姉を圧倒するだろう。

 だが、殺し合いになれば、魔法を使ったとしても勝てない。

 魔法『珀晶生成』の経路は精霊の目では捉えられないと言って褒めるくせに、いざ模擬戦となれば、『珀晶生成』はほとんど使わせて貰えないのだ。魔法を行使する直前、姉は異常なキレを発揮して生成座標に身体や〈永雪〉を割り込ませてくるため、ことごとくが不発に変えられてしまう。

 どうやって察知しているのかを聞いてみれば、答えは『なんとなく死にそうな気がした』。


 新米蛮族にはまだ少し難しい理屈だったが、ともかく。

 自分の最も速い攻撃ですら姉を捉えることはできず、姉の振るう刃物は珀晶の盾ごと自分の毛皮を空気のように両断するのだ。筋肉をどれだけ肥大化させても、このままでは勝てるはずもない。

 姉の斬撃を純粋な身体強度のみで防いだのは、レヴィンの知る限り四肢竜重竜グラリアのみ。

 あの最強種を超える硬さが、この身に欲しい。


 前肢をかたどった珀晶。

 これは〈ジャラグ〉が噴火するための燃料であると同時に、レヴィンの認識を歪めるための偶像でもある。

 前肢珀晶は沸騰を内包したククルビットに肉球を押し付けている。

 レヴィン自身の肉球も灼熱を帯びた土台に肉球を押し付けている。

 相同的な形状かつ相同的な苦痛を浴びる二つを同一のものとする。

 遠くにある自らの身体が斬られ続ける惨状を一つ一つ丁寧に認識し、いつの日か実現するであろうで姉に勝利すべく、変態の斬撃に耐え得る超常的な珀晶肉体の強度を渇望する。

 表情に乏しい琥珀豹の身でありながら、レヴィンの相貌は明確な歓喜に彩られていた。


 シルティもまた、土台の灼熱を楽しんでいた。

 踏み締める地面を自らの身体の延長と見做し、生命力を導通させ、武具強化の対象とすることで不壊の足場を実現する。ヴィンダヴルの移動術を習得するためには、もっと精密で敏感な足裏の感覚が必要だ。

 限界まで皮膚感覚を再現した半長靴で粘性の火炎に覆われた足場を踏み締める。

 靴下に含まれていた水分が絞り出され、土台に垂れて蒸気が立ち上った。

 熱い。熱い。熱い。

 熱いと言えば熱いが、まだまだぬるい。

 レヴィンの肉球が焼け、垂れた水が一瞬で煮え立つほどの高温なのだ。もっと熱く感じていなければおかしい。

 ここで問題なく立ち回れていること自体が、シルティの武具強化皮膚感覚が粗雑だということの証左である。

 もっと。本当の皮膚と同じぐらい鋭敏に。

 いや。

 革職人ジョエル・ハインドマンがその技術を注ぎ込んだ半長靴の価値を正しく理解しよう。

 仮に、シルティの足の皮を剥ぎ、縫い合わせて足袋たびを作ったとする。

 その足袋と、この半長靴。

 どちらがより高値で売れるかなど、考えるまでもないではないか。

 自前の皮膚より完成度の高い靴なのだから、裸足よりも鋭敏になってしかるべきだ。


「ひひっ」


 それはそれとして、〈ジャラグ〉を振るうのが死ぬほど楽しい。

 黄金色の前肢が絶え間なく生み出され、素晴らしき打刀がことごとくを斬断し、太陽を思わせる白金の炎が翻る。

 気温の上昇が止まらない。

 肉球が焼ける香ばしい匂い。

 真夏の川辺に構築された異常な蒸風呂サウナで、熱に浮かされたフェリス姉妹はひたすらに没頭した。





 当然のことながら、遠隔強化も足場強化も、少々肉体を焼き焦がした程度で習得できるほど簡単なものではない。

 だが、少なくともレヴィンとシルティの主観には確かな手応えを累積した。

 やはり痛いのはいい。実際はどうであれ、なにかを着実に乗り越えている気がする。

 誠に残念ながら、〈ジャラグ〉が借り物である以上、この訓練を頻繁に行なうのは不可能だ。いつでも反芻はんすうできるよう、今日の記憶と感覚はしっかりと脳髄に刻み込んでおく。


 シグリドゥルもシグリドゥルで、丹精込めて生み出したいとが大活躍する光景をたっぷり堪能することができた。

 シグリドゥルはこれまでも趣味で打った刃物を知り合いの狩猟者に振るって貰い、それを鑑賞するということを繰り返している。彼女が見初みそめた人物は、誰もが皆ひとかどの実力者。確かな腕前を持つ彼らが愛し子を振るう姿を眺めるのは至福の時間であった。

 だが、その甘美な思い出たちにも増して、今日の鑑賞会は殊更に格別だ。

 純粋な戦闘能力という観点で言えば、シルティを上回る個人は少なくないだろう。剣の腕や動きのキレではヴィンダヴルに劣り、筋力ではジョエルに劣る。しかしこの若い友人、物を斬るのが狂気的に上手い。こと『斬術』において、彼女はシグリドゥルが知るどの狩猟者よりも高みにあった。

 なんというか、ただひたすら、本当に美しい。

 こうしてシルティが斬るところを見ているだけで天にも昇る心地なのだ。こんなことなら他の刃物も持ってくればよかった、とシグリドゥルは後悔した。いわゆる刀剣と呼ばれるもの以外の、〈スリアヴ鉱山斧〉や〈ゴッヴォハルバード〉を振るうシルティも、きっと素晴らしく美しいに違いない。




 何度か設備を再生成しながら蒸留を繰り返し、西の空がほんのりと赤く染まり出した頃、目標としていた量の蒸留水が獲得できた。

 三者ともこの時間を充分に満喫できたので、全員がほくほく顔である。

 仕上げとして、蒸留水をたっぷり蓄えた受け瓶を排水口ドレンを設けた珀晶で包んだのち、受け瓶を消去。勢いよく流れ出てきた蒸留水を事前に準備していた頑丈なガラス瓶に移し、木栓コルクをしっかりと詰め、さらに溶かした蝋で密封する。

 ガラス瓶は煮沸消毒し、さらに封入前に蒸留水ですすいだので、不純物の混入も最小限に抑えられたと思いたい。

 二十数個の瓶を緩衝布で丁寧に包み、シグリドゥルの手も借りて港湾都市アルベニセまで持ち帰る。

 定宿じょうやどとしている『頬擦亭』の自室へ荷物を置いたのち、汗だくになった身体を清めるため、連れ立って公衆浴場へ。

 さっぱりした身体で夕食を共にし、互いに礼を言って気持ちよく解散した。


 なお、連絡用の水珠みずたまでローゼレステを呼び出し、できたての蒸留水を見せて気に入って貰えるかどうかを確認する、ということも考えたのだが、やめておいた。

 まだ強い酒の用意ができていない。何度も呼び出していてはローゼレステもうんざりしてしまうだろう。できる限りの用意をしてから持て成すべきだ。

 ひとまず、ローゼレステに提示しようと考えている対価は四種。

 蒸留水。

 蒸留水から作る氷。

 そして強い酒。

 念の為に、アクアマリンも用意するつもりである。


 蒸留水はこうして手に入った。

 氷については〈冬眠胃袋〉でも時間をかければ作れるので問題ない。

 レヴィンのお下がりとは既に血縁を結び直してある。蒸留水入りのガラス瓶を〈冬眠胃袋〉に収納し、背負ったままひと眠りすれば、翌朝にはカチカチになっているはず。


 強い酒については、シグリドゥル曰く『お爺ちゃんに聞いてみたら』とのことなので、あとで『ジジイの店』に行ってみることにした。人類種の中でも鉱人ドワーフ岑人フロレスは酒を好む者が多く、特に鉱人ドワーフは氷点下でも凍らず火を近付ければ引火するような激烈な酒を好む傾向がある。ヴィンダヴルも例に漏れず酒好きらしく、多くの酒店と付き合いがあるのだとか。

 ちなみに、シグリドゥルは付き合い以外では全く飲まないらしい。

 酒を飲むより刃物を愛でる方がよっぽど気持ち良くなれると言ったので、シルティは心の底から同意した。


 アクアマリンについては、かつて友人たちと共にひやかした装身具アクセサリー販売店に行けば一つくらいはあるだろうと考えている。

 良い商品がなければ、槐樹かいじゅのエアルリンに頼ってもいいかもしれない。あの美人はアルベニセでも有数の富豪だ。研究所を応接室に備えられた調度品の数々は、シルティにすらわかるほど素晴らしいものだった。宝飾商への伝手も豊富に違いない。




 夜、自室にて。

 レヴィンは床に敷いた毛布の上に腹這いになり、前肢の肉球を丁寧に舐めていた。火傷は多くの魔物にとって厄介な傷だ。切傷や刺傷のように即座に肉を盛り上げて再生完了とはいかず、どうしても時間がかかる。場合によっては表層を切除した方が早く綺麗に治ることも。

 とはいえ、今回は再生を促進させながらじっくり焼いたので、歩行に支障はない程度の軽傷に収まっている。

 強い酒とアクアマリンを調達しているうちに完治するだろう。


(明日は、ヴィンダヴルさんとこ行って……)


 シルティはベッドの上で横向きに寝転がり、脳内で明日の予定を決めていく。


(お酒を……買って……)


 が、思考は緩慢だ。

 どうにも眠い。

 灼熱の環境下での一日鍛錬とその後の入浴は、シルティの肢体に心地の良い疲労感をもたらしていた。狩猟中であれば眠気などいくらでも無視できる蛮族だが、安全な自室となれば抗う気は薄れる。


(いいお酒って、やっぱ高いのかな……麦酒ビールくらいしか、買ったことないしなぁ……)


 ぼんやりとした意識の中、かつて飲んだ麦酒の味を思い出す。

 蛮族の集落では酒は生産されていなかった。酒造りというのは長く時間のかかる繊細な仕事だ。そんなことをしている暇があったら蛮族は訓練をする。シルティの故郷は十日も歩けば竜に出会うこともある楽しい土地なので、しなければ滅びるといった方が正しいかもしれない。

 ごく稀に、近辺で作られた酒が入ってくることはあったが、そういった貴重品は集落全体の祝い事の席で振舞われるか、あるいは欲しい者たちが腕比べをして勝者が獲得するという文化だったので、シルティは飲んだことがない。


 なので、シルティが初めて酒を飲んだのは遍歴の旅に出たあとのこと。ノスブラ大陸北西部で作られていた麦酒ビールで、向こう側が見えないほど真っ黒な色をした『スタウト』と呼ばれるものであった。

 嚼人グラトンはその身に宿す魔法によって酒精も無害化するので酔うことはないが、単純な味や風味として飲酒を好む者たちは多い。さらに言えばノスブラ大陸北西部は岑人フロレス人口が比較的多いため、彼らが好む麦酒ビールの生産が盛んだったのである。

 みんながあれだけ飲んでいるのだからさぞ美味しいのだろう、とわくわくしながら飲んだのだが。

 物凄く苦く、鼻に抜けるような酸味があり、後味も心地よいものではなく……シルティにはあまり美味しいものとは思えなかった。

 スタウトが合わなかっただけかとも思い何度か他の酒も舐めてみたのだが、シルティの感想としてはどれも似たようなものだったので、今では酒の類にはほとんど手を出していない。


(アクアマリンも……買ったことないけど、多分高いだろうし……。お金が……欲しい……)


 うとうととしながら金銭欲をたぎらせていると、レヴィンがベッドの上に前肢をかけてきた。無言のまま、鼻面でシルティの胸元を押す。


「んー……」


 寝転がったままもぞもぞと後退すると、レヴィンはすぐさまその空間に収まり、姉に背中をくっつけるように横倒しになった。首を伸ばして頭をりつけてきたので、顎下を撫でてやると、満足そうに喉を震わせる。

 自室では基本的に床の上でのびのびと眠るレヴィンだが、今日は添い寝がしたい気分らしい。

 しばらく顎下を撫でていると、レヴィンの筋肉が奇妙に強張ったのがわかった。

 直後、大きな欠伸が漏れる。


 ふと悪戯心の湧いたシルティは、その口内に前腕部を横向きに突っ込んでみた。

 閉じられたあぎとに前腕が挟まり、その直後、レヴィンがぎょっとしたように動きを止める。


「ぎゃー」


 わざとらしすぎる悲鳴を漏らす。

 レヴィンは慌てた様子で顎を開き、おろおろと視線を彷徨さまよわせて狼狽うろたえたあと、シルティの前腕を恐る恐る舐めた。噛んだというより咥えたと表現する方が正しい状況だったので、その肌に傷などないのだが、今のレヴィンには関係のないことだ。

 そして、噛むつもりはなかった、とでもいうように、謝罪を込めて小さく喉を鳴らす。


「んふっ。ふふふっ……。ごめんごめん、私がわざと手を突っ込んだだけだから……」


 レヴィンの耳介がぴくんと跳ねる。

 自分の不注意ではなく姉の悪戯だったと理解したレヴィンは、身体を勢いよくくねらせ、仕返しとばかりに姉の肩に齧りついた。


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