第161話 ジャラグ



 三日後。

 港湾都市アルベニセの外、南南東にしばらく進んだ位置。

 サイキス河の小さな派川はせん、そのほとりに、鍛治師店シグリドゥル、そしてフェリス姉妹の姿があった。


「ふふふ……」


 にまにまと、この上なくだらしのない笑みを浮かべるシルティ。

 鬣鱗猪りょうりんイノシシの革鎧をしっかりとまとう戦装束。その手に握るは真銀ミスリルの愛刀〈永雪〉……ではなく。

 目の覚めるような赤い刀身を持つ、一振りの打刀うちがたなであった。

 超常金属燦紅鈥カランリルを素材とし、鍛冶師シグリドゥルが趣味で作り上げた渾身の一刀である。


 昨日、シルティは替えの柄糸つかいとを購入するために鍛冶屋『髭面の孫』を訪れた。その際の雑談の中でという話をしたところ、シグリドゥルが『ならこれを使って』と申し出てくれたのだ。

 大量の蒸留水を用意するには大量の燃料が必要になる。決して安いものではない。その点、燦紅鈥カランリルを熱源として使う場合、シルティが肉体労働をすれば燃料費は無料タダである。

 燦紅鈥カランリル製の刃物を振るいたいという欲求と、厚意に甘えすぎているという自覚から来る遠慮がシルティの脳内でぶつかり合った結果、ものの数瞬で前者が圧勝した。

 ゆえに、本日の蛮族はこうして深紅の打刀を握っている。


 ちなみにこの打刀、銘を〈ジャラグ〉という。

 命名者はもちろん製作者のシグリドゥルだ。彼女は注文を受けて鍛えた刃物に関しては命名しないようにしているのだが、趣味として打った刃物には全て固有の銘を付けていた。シルティには耳慣れない響きだが、〈ジャラグ〉というのは古い鉱人ドワーフの言葉で『赤』という意味だとか。

 シルティとしては、なんというか、非常に納得感のある命名だ。〈虹石火にじのせっかしかり、〈玄耀げんよう〉然り、〈紫月しづき〉然り、〈永雪ながゆき〉然り、〈銀露ぎんろ〉然り、蛮族は色を由来とした命名をすることが多いので。


「はぁぁ……」


 湿度の高い吐息を漏らしつつ、シルティは右手に握る〈ジャラグ〉の刀身をじっとりと眺めた。

 重ねの厚い刀身は剛健であり荘厳だが、燦紅鈥カランリル特有の赤色が鮮烈な華を主張しており、優美な反りも相まってどこか女性的な印象を受ける。五枚の花弁を持つ花の図案がかげすかしにされたつばも可愛らしい。

 にぎにぎと手の内を確かめる。

 柄糸つかいとあかねいろ蛇腹糸じゃばらいと組上巻くみあげまき。惚れ惚れするような手溜てだまりの良さだ。

 少し甘えてくるような感覚があるのは、なかごとして鍛接たんせつされた真銀ミスリルの影響だろう。


「はぁ……ほんと綺麗……かっこよ……」


 ゆったりと片手上段に構え、右足を気負いなく踏み込み、神速の右袈裟。刀身を返しながらさらに前へ踏み込み、初太刀を綺麗に遡る左逆袈裟。

 シルティの顔面と首筋をもわっとした熱気が撫でた。

 燦紅鈥カランリル燦紅鈥カランリルたる所以ゆえん。加えられた衝撃に即応して噴火する超常の特性だ。空気を斬るというかすかな刺激では明瞭な火炎を形成することはできなかったようだが、真夏の炎天下でもはっきりとわかるほどの熱塊が生じている。

 ぬるくない。ちゃんと熱い。

 空気を斬ってさえこの熱量。強靭な動物の毛皮や肉を斬ったならば、一体どれほどの暴力を生み出せるだろうか。


「ぃひっ」


 笑いが止まらない。

 燦紅鈥カランリルの特性は、雷銀熊らいぎんグマの宿す恒常魔法『炸裂銀角さくれつぎんかく』に似ていると言えるだろう。だが、空気抵抗にすら反応するほど敏感なうえ、自身には一切の影響がない『炸裂銀角』と違って燦紅鈥カランリルの噴火に好き嫌いなどない。下手に振り回せば自身が消し炭である。

 だからこそ、い。

 真銀ミスリルの太刀〈永雪〉のように甘えん坊な刃物も、もちろん可愛くて仕方がないが。

 輝黒鉄ガルヴォルンの太刀〈虹石火〉のように扱いの難しい刃物も、それはそれでめちゃくちゃ可愛いのだ。

 当然、使い手を殺しかねないこの〈ジャラグ〉も、シルティにとっては死ぬほど可愛かった。


「んふふふふ……」


 人目もはばからず身をくねらせ、悦に入る蛮族の娘。

 辛うじて残ったなけなしの理性が、刀身への頬擦りをギリギリで踏み止まらせている。

 そんな姉の姿を、レヴィンが珍しく、興味深そうに眺めていた。

 シルティの刃物愛にあまり共感できていないレヴィンだが、今回は特別。火という現象を殊更に好む彼女にとって、ぶつけるだけで火炎を生み出す燦紅鈥カランリルは充分に興味を注ぐに値する物質なのだ。


「ふふふふふ……」


 それを見守る鉱人ドワーフの娘もまた、幸せそうにとろけた笑みを浮かべていた。

 シグリドゥルの鍛冶の腕前は、一流の狩猟者である祖父ヴィンダヴルにも認められるほどの域に達している。よわい七十にも届かぬ若人わこうどの身でありながらだ。

 あいつが産まれんのがもう二十年も早けりゃ俺の長巻ながまきを打たせてたんだがよ、とヴィンダヴルはシルティに語ったが、これは決して身内みうち贔屓びいきから出た言葉ではない。彼女は間違いなく刃物造りの天才と称すべき個体だろう。

 しかし、実際に刃物を使う才能については、残念なことに酷く乏しいと称するほかなかった。

 いや、才能が砕けてしまった、と言うべきかもしれない。


 シグリドゥルが初めて満足のいく直剣つるぎを作り上げたのは四十の時だった。彼女はそれを携え、意気揚々と魔物を斬りに行った。だが、敗北した。行動を共にしていた狩猟者が助けてくれなければ死んでいた。絶対の自信を持っていた逸品は無残にも折れ曲がり、シグリドゥルの精神に無限の絶望を植え付けた。

 二十年以上経った今でも、その心的外傷は癒えていない。

 相変わらず刃物を心底から愛しているので、自分の身体の延長と見做すことはもちろんできる。初めて触れる刃物であっても、シルティに匹敵するほど迅速に自己延長感覚を確立できる。ただ刃物を持つだけならば気をりそうなほどに幸せになれる。

 だが、いざこれを振るう段階になると。

 自分のせいで刃物がまた折れ曲がってしまうのではないかという恐怖が思考を染め上げ、生命力の作用が負の方向へ働いてしまう。

 どうしても、過去の記憶が拭い去れない。


 ゆえに、シグリドゥルは自分の作品が使われる場面の観賞を殊更に好んだ。

 自分では引き出してあげられないいとの素晴らしさを目の当たりにできるのは、今ではもう、こういった機会しかないのだ。

 シルティに〈ジャラグ〉を使ってと申し出たのは、実のところ友人への厚意というより、自分自身の欲求を満たすため。

 特に今回は使ってくれるのが自分の同類刃物愛好家で、ことあるごとに本心から褒めてくれるのだから、観賞の楽しさも一入ひとしおである。


「よしっ。いけそう」


 何度かくうを斬って〈ジャラグ〉と息を合わせたあと、シルティは満足げに頷き、剣帯に吊り下げたさやに左手を伸ばした。超常の危険物である燦紅鈥カランリルを休ませるための鞘だ。当然ながら特別製である。耐火耐熱性は折り紙付きのはずだが、下手な魔道具より高価なので、万が一にも壊すわけにはいかない。

 鯉口を左手で握り、刃を誘導して切先を入れ、角度を合わせたのち、剣帯を緩ませながら慎重に慎重に鞘を送り、最後に右手で納める。

 ここ数年で最も気を遣った納刀を終え、シルティはとろけ切った笑みを浮かべた。


「シグちゃん……」


 恍惚としながら振り返る。


「この子、ほんっと、最高っ……こんなに綺麗なのに……振り応えは、むしろかっこいい、感じがする……」


 興奮しすぎて途切れ途切れになった称賛の声を受け、シグリドゥルも満面の笑みだ。


「ありがと。〈ジャラグ〉も喜んでる」

「んふふふ……」

「今日はいっぱい斬るところ見せて」

「うんっ! この川辺を燃やすつもりでやるね!」

「うん」


 朗らかに微笑み合う刃物狂いたち。

 二人に比べれば幾分冷静なレヴィンが、何とも言えない視線を送っていた。


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