第155話 ローゼレステ



「レヴィン、コップ作ってくれる? この辺に」


 シルティが背後のレヴィンに声をかけると、すぐさま半透明なティーカップが生成された。

 かつて槐樹かいじゅのエアルリン宅で出されたものを記憶頼りに模したようで、細く華やかな装飾がしっかりと施されている。もし空中に固定されていなければ美術品として高値が付けられるだろう、そんな出来栄えだ。

 職人気質というか、凝り性というか。レヴィンはこういう雑務的な用途の時にこそ洗練された美的形状に作ろうとする癖がある。

 ちらりと表情を窺うと、絵に描いたような澄まし顔をしていた。

 だがシルティには、洞毛ヒゲの動きで得意げなのが丸わかりである。


「ありがと。ふふ。エアルリンさんのとこのカップだね」


 微笑みつつ感謝を告げ、シルティはカップの上に左腕を掲げた。水精霊ウンディーネの捕獲から逃れるために肘から先を斬り飛ばしたが、再生を促進させていたので、既に出血はほとんど止まっている。〈永雪〉の鍔元に断面を押し付け、新たな傷を作り、新鮮な生き血でカップにそそいだ。


【どうですか?】


 青虹色の胡麻粒は答える代わりに動いた。非物質の身体で半透明のカップを通り抜けると、生命力をたっぷり含んだ嚼人グラトンの生き血に座標を重ね、動きを止める。


(お? ……おっ、おお)


 シルティの霊覚器精霊の目は、青虹色の胡麻粒が微かに脈動する様子と、己の生き血から生命力が急速に失われていく様子をしっかり捉えていた。魔物の生き血は極めて劣化の早い素材だが、さすがにここまで短命ではない。

 生き血が劣化するつれ、水精霊ウンディーネの身体はじわじわと大きくなっていく。状況から察するに、水精霊ウンディーネが生命力を獲得したのだろう。吸収した、という表現の方が適しているかもしれない。

 なんにせよ、ティーカップ一杯分程度では足りないようだ。シルティは追加の生命力をカップに注ぎ、血腥ちなまぐさい掛け流しの温泉を構築した。


(精霊種にとってのご飯、みたいな感じかな?)


 動物の心臓を思わせる水精霊ウンディーネの動きには覚えがある。高速の狙撃により左手首と生き別れになり、そのおかげで遠隔の形相切断を成功させた直後のことだ。水精霊ウンディーネはシルティの生き血が僅かに混ざった貯水塊の表面を波立たせながら、今のように脈動していた。

 精霊の耳の構築を受けているのと同じような苦しみを味わっているのか、重竜の血を飲んだシルティのように美味しすぎて震えているのか、水を掌握しにくくなって苛立っているのか……などと考えていたが、二つ目が正解に近かったのかもしれない。


 しばらく血浴けつよくを楽しんでいた水精霊ウンディーネだったが、身体の大きさが胡桃クルミほどになると湯舟から出てきた。物質的な肉体を持たぬ彼らに脱水は必要ないので、そのままシルティの眼前に静止する。


【大丈夫ですか。もういいですか。まだ出せますが】


 元の大きさに比べると、今の水精霊ウンディーネの体積は十分の一もないだろう。体積がそのまま体調を表しているかどうかはわからないが、少なくとも万全には見えない。


【助かった。礼を言う】

【いえいえ。困ったときは、えーと、お互い様ですよ】


 シルティがたどたどしい水精言語で意思を伝えると、水精霊ウンディーネは押し黙り、空中をゆっくりと揺らめいた。

 見た目は単なる青虹色の球体なので、表情や仕草などは窺い知れないが、なんとなく、気まずそうにも見える。殺そうとした相手からそんなことを言われるとは思っていなかったのかもしれない。


【お前は……なんなんだ、お前は】

【あ。改めまして、私はシルティ・フェリスといいます。こっちはレヴィン・フェリスです】


 手振りを交えて妹を紹介しつつ、レヴィンにも会話の内容が伝わるよう、物質の喉を使って同時進行で翻訳を行なう。

 自分を紹介されたと理解したレヴィンは鼻面にしわを寄せ、長い牙を剥き出しにした。元々、初対面の相手にはあまり気を許さないレヴィンだが、それにしてもかなり苛烈で不機嫌なご様子。『汚い』と言われたことを根に持っているのかもしれない。


【……ローゼレステ】

【え、あ、んんっと? すみません、意味がよく……わからなくて】

【私は同胞たちにそう呼ばれる】

【あっ、お名前ですか! えーと、ロース、セレステ、さん?】

【ローゼレステだ】

【ローゼ、レステさん】


 シルティは聞き取った水精言語を脳内で分解し、人類言語で表現するならば『空色の雫』のような意味かな、と解釈した。

 ちなみに『シルティ』は、ノスブラ大陸の嚼人グラトンたちが使っていた独自の古代言語において、『素質』を意味する単語をもじったものである。


【綺麗なお名前ですね】


 素直な感想を伝えてみたが、反応はない。完全な無言である。かと言って、逃げる様子もない。ふるふると落ち着かない様子で微震しつつ浮遊している。

 これ幸いと、シルティは気になっていた点を尋ねることにした。


【ひとつ教えていただけますか】

【なんだ】


 愛刀〈永雪〉を鞘に納めてから、不機嫌そうにしているレヴィンの頭を撫でる。


【あなたはレヴィンを汚いと言っていましたが、この仔はとても綺麗好きなんです。この仔よりも私の方が汚いと思いますが。なにが不快だったのでしょうか】


 すると、ローゼレステはギロリと血走った視線をレヴィンに向けた。もちろん、水精霊ウンディーネには眼球がないので、シルティがなんとなくそう感じただけだが……そう的外れな印象でもないだろう。怒りなのか悔しさなのか、ローゼレステの身体はブルブルと小刻みに震えている。


【そいつは、わざわざ、何度も、私の家に来て、汚物を撒き散らした】

っ……? ……あっ】


 そこまで言われてようやく、シルティはこの水精霊ウンディーネが怒っていた理由に思い至った。


【ああー……】


 生物由来の汚れを嫌うという情報を持っていたのに、レヴィンの排泄が水精霊ウンディーネを怒らせる可能性を全く考慮しなかったのは、完全にシルティの落ち度である。


【一度や二度ではない。凍解いてどけから、ずっと……ずっとずっとずっと。そのうち消えるかと、我慢していたが、いい加減、もう……それで、殺そうと……】


 凍解春頃から、。ローゼレステはかなり初期の段階でフェリス姉妹を捕捉していたようだ。何度も家に来たという表現から察するに、港湾都市アルベニセの上空という空間そのものを自らの『家』と定めているらしい。

 水精霊ウンディーネの縄張りがどれくらいの広さになるのかはわからないが、おそらくフェリス姉妹は全ての探索旅行でローゼレステの領域にお邪魔していたのだろう。


【えー……っとー……それは……】


 まあ殺意を抱かれるのも当然だな、とシルティは思った。

 清潔で居心地のいい我が家で寛いでいたところ、見ず知らずの嚼人サルヒョウが無断でずかずかと入り込んできて、うろうろと無為むい彷徨さまよい、我が物顔で飲食しつつ、方々ほうぼうで排泄物を空中に撒き散らすという日々が、百三十日余りも続いたのだ。

 縄張りを荒らすというのは宣戦布告と同義である。しかも、考え得る最悪の手段で荒らしてしまった。手を出さずに百三十日間も我慢してくれたローゼレステは、むしろ異常なほどに温厚だと言える。シルティが同じ立場ならば多分一月ひとつきかそこらで斬りかかっていただろう。


「レヴィン。聞いて。一緒に謝ろう。あのね……」


 シルティは妹に対し、ローゼレステの怒りの正当性を懇切丁寧に説明する。すると、レヴィンの頭部は次第に下がっていき、やがて首をすくめ、揃えた前肢に顎を乗せるような体勢になった。若干の上目遣いになり、耳介はぴたりと横に倒れる。


【ローゼレステさん、申し訳ありません】


 シルティが深々と頭を下げると、同時にレヴィンもぺたりと平伏し、謝罪を込めて喉をか細く鳴らした。

 レヴィンは綺麗好きだ。自分の寝床に他者が潜り込み、ふんや尿を置いていかれたとなれば、彼女も一瞬で沸騰するだろう。気付かぬうちにそれをやってしまっていたとなれば、己へ叩き付けられた『汚い』の評価にも納得である。平身低頭、謝意を示すほかに取れる手段などない。


【あなた方が動物の糞尿を殊更に嫌うということに対し、配慮が不足しておりました。ですが。誓って、我々はあなたの住処を故意に汚しにきたわけではありません】

【いや。まあ。お前が私の言葉を発した時に踏み止まり、事情を聞いて追い返せばよかった、と今は思う。お前が謝る必要は、ない。頭を下げるな】

【ありがとうございます】


 シルティは頭を上げ、苦笑を漏らした。彼女自身、戦意が収まらないという経験は多々あるので、興奮すると止まれないという気持ちはとてもよくわかる。今では随分マシになったが、かつては一度刃物を握れば何かを斬るまで手放さない幼女だったのだ。


【それと、声もかけずに吹き飛ばして殺そうとしたのも、よくなかった。謝罪する】

【えっ? ……ん?】


 続けて発せられた精霊の声を聴き、蛮族の娘は首をこてんと傾げた。少し遅れ、姉の翻訳を聞いたレヴィンもまた全く腑に落ちないといった表情を浮かべ、首を傾げる。


【あの。いきなり殺しかかるのは別に悪いことではないのでは?】

【……いや。喧嘩ならば、宣言をし、正面を切ってやるべきだろう】


 水精霊ウンディーネも喧嘩することあるんだなぁ、と思いつつ、シルティは一歩前に出た。

 眼前の青虹色に向け、とろけるような微笑みを叩き付ける。


【もちろん尋常な殺し合いは素晴らしいものです。ですが、相手を一方的に殺せるというのも、それはそれでとても素晴らしいことではないでしょうか】

【えぇ……】


 人類種的な観点では正々堂々を美徳としがちだ。事実、シルティ自身も真正面からの戦闘が大好物であり、一方的に襲うよりも尋常な殺し合いを好む。

 だが、だからと言って、不意打ちを卑怯とは全く思わない。

 彼女は蒼猩猩あおショウジョウをめちゃくちゃ格好いい魔物だと思っている。


水精霊ウンディーネの方々はご存じないかもしれませんが。私たち動物の狩りは、多くの場合、奇襲の上に成り立っています。不意打ちとは、されるにせよ、するにせよ、相手との真剣勝負で……とても純真な行為なのです】

【そ。……そうか。猿にとっては、そうなのか】

【はい】

【まあ……。そう……。かな……】


 ローゼレステは拳三つ分ほどゆっくりと後退し、シルティから距離を取った。


【お前がそう思うなら、それはもういい】

【もちろん、私も不意打ちより正面切った殺し合いの方が好きですけど】

【もういいと言うのに】


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