第154話 次のは斬っちゃダメ



 水精霊ウンディーネを両断後、シルティは空中でくるりと体勢を整え、飛鱗を踏みつけて落下速度を段階的に落とし、レヴィンの待つ足場に無事に帰還した。

 即座に腰を落とし、左足を前に。〈永雪〉を右肩に担いで刀身を寝かせ、霊覚器を研ぎ澄ませて周囲を探る。シルティは今、確かに水精霊ウンディーネを半分に斬った。『冷湿掌握』が途切れたような様子もある。だが、どの程度刻めば精霊種の命が終わるのかわからない。

 心臓が三十、鼓動するほどの時間が経ち。

 息を吸って、吐く。

 霊覚器にも、生来の感覚にも、引っ掛かるようなものはない。

 大丈夫そうだと判断したシルティはゆっくりと構えを解き、〈永雪〉をひゅるんと回して血振ちぶりを挟み、納刀した。


「んふ。ふ。ふふふっ……ふっふっふ……」


 そして、にまにまと、この上なくだらしない笑みを浮かべる。

 と、背後からかなりの速度で駆け寄ったレヴィンが、姉の臀部に突進気味の頭突きを見舞った。


「んゔっ」


 衝撃で身体が少し浮き、色気のない音が喉から漏れる。結構痛い。興奮のせいかレヴィンが手加減を忘れてしまっているようだ。そのまま猛烈な勢いで首筋を擦り寄せる。シルティは苦笑しながら腰を下ろすと妹の頸部にしな垂れかかるように抱き付き、頬擦りをしながら顎の下をもにもにと揉み撫でた。


「最後の、完璧だったね。めちゃくちゃ気持ちよかった。さすが私の妹だ」


 姉妹のどちらが欠けても実現できなかったであろう勝利を二人で噛み締め、存分に讃え合う。


「身体は平気?」


 問いかけると、レヴィンは己の胸元をざりざりと舐めたあと、自慢げに胸を張った。毛繕いグルーミングにより血汚れが拭われ、血の滴る痛々しい切り傷が顔を出す。血化粧のために飛鱗で長々と斬り裂いた部分だ。それが、シルティの見ている前でみるみるうちに再生され、あっという間に完治した。根元から斬り落とした尾の方も、生やすのはさすがに無理そうだが、断面の肉が盛り上がって止血される。


 当初、意識的な再生促進の訓練は水精霊ウンディーネとの契約を終えてから始めるつもりだった。

 だが、空での暇潰しとして珀晶強化の習得訓練(肉球を薄く斬ったあとに手袋型のような珀晶を生成し、珀晶越しに刺激を与える)をこなすうちに、レヴィンは『肉体を再生させない感覚』を掴むことに成功。

 最初は再生を少し遅らせることしかできなかったが、すぐに完全に再生を停止させられるようになり、やがて停止させられる時間が長くなり、さらには複数の傷を負った状態で一部のみを再生しないということができるようになり……いつの間にか、意識的な促進もできるようになっていた。


「んふふ。ほんと、上手くなったなー」


 人類種に比べ、他の魔物たちは総じて傷の再生や身体能力の増強を得意とする傾向はあるが、それにしても優秀だ。

 やっぱりきみは天才だねぇ、とシルティが姉馬鹿を発揮しながら胸元を掻き撫でると、レヴィンは耳介をぷりんと震わせながらさらに一歩近寄ってきた。頭を下げて姉の鳩尾にそっと頭突きをし、そのまま腋下をくぐりつつ身体を擦り付け、背後に回ってうなじをざりざりと毛繕いグルーミングを施す。

 ご、る、る、る、る。

 喉からはおごかな遠雷が鳴り響いている。


「……しっかし水精霊ウンディーネさん、レヴィンのこと全然構ってくれなかったねぇ」


 レヴィンの身体の傷は全てシルティが刻んだもので、水精霊ウンディーネから与えられたものは一つもない。この戦いの舞台を整えていたのはレヴィンなので、最優先で潰すべきは嚼人グラトンではなく琥珀豹だったのだが、水精霊ウンディーネはレヴィンのことをほとんど放置していた。

 血気盛んな蛮族の相手で忙しかった、という点もあると思うが、それだけではないだろう。


「魔法、気付いてなかったのかな?」


 あの水精霊ウンディーネは、琥珀豹という魔物をよく知らなかったのでは、とシルティは推測していた。

 水精霊ウンディーネは生物を、より正確に言えば生物の排泄物や腐敗した有機物を殊更に嫌うという。そんな彼らにとって森林という環境は肥溜めに等しい。そこに生息する琥珀豹の情報など持ってはいないだろう。ならばその魔法についても無知のはず。

 精霊種は生命力を知覚できるので、大抵の魔法や魔術であれば行使したことくらいは感知できるらしいが、『珀晶生成』は天雷かみなりよりも速く雪原よりも静謐せいひつである。天雷の先駆放電ステップトリーダを目視できるシルティでも、『珀晶生成』の過程はほぼ見えない。つまり、シルティを遥かに超える時間分解能を持っていなければ、魔法の過程を認識することは不可能のはずだ。だが、戦闘を思い返してみても、水精霊ウンディーネの意識はそこまで速くはなかったような気がする。

 要するに、珀晶の足場や丸棒を生成しているのがレヴィンだということに気付いていなかったのではないか、とシルティは考えていた。

 だとすれば、水精霊ウンディーネにとってレヴィンはこっちを見ながらうろちょろしているのデカブツだ。己の身体を傷付けた実績を持ち、現在進行形で襲いかかってくる嚼人サルを優先するのも当然だろう。


「ちょっと残念な気もするね。レヴィンのこともしっかり攻撃してきたら、もっと忙しくて楽しくなったのに」


 ヴォゥン。レヴィンが肯定の唸り声を上げた。

 水精霊ウンディーネがレヴィンやレヴィンが乗っていた足場を破壊するように動いていれば、シルティはそのフォローに回らねばならず、もっと苦戦することになっていただろう。


「他の水精霊ウンディーネもそうなのかな? 次は最初にレヴィンの魔法を教えてから斬り合っ……あ。次のは斬っちゃダメだった……」


 あの水精霊ウンディーネを斬ったことに後悔は全くない。だが、出会う個体を全て斬っていては契約などできない。

 水精霊ウンディーネの捜索を始めて既に百三十日余り。『珀晶生成』のおかげで雲に侵入できる姉妹は機会に恵まれているはずなのだが、かなり時間がかかってしまった。

 精霊種の中でも水精霊ウンディーネは特に遭遇が難しいことで知られており、契約に五年や十年かかるのが普通だ、とマルリルはにこやかに言っていたが……あれは多分、森人エルフの時間感覚だろう。できれば一年以内に決めたいところ。

 しかし、〈冬眠胃袋〉がどこかに吹き飛ばされてしまったので、まずはあれを買い直さなければ。いや、シルティは普通の背嚢はいのうを使い、休憩のたびに中身をレヴィンの〈冬眠胃袋〉と入れ替えれば、腐らせずに登れるだろうか。水精霊ウンディーネを探すために長期滞在する高さは足場換算で二千五百段ほど。ここまで登れば、地表が猛暑でも冷蔵一歩手前ぐらいの気温まで下がる。

 となると、最優先はレヴィンの防寒具の補修だ。


 次の予定をざっくりと決めたシルティは、レヴィンの〈冬眠胃袋〉から食料を取り出した。まずはビスケットを喉に流し込むように摂食し、生命力を大量に補給。それから生肉の塊を取り出し、左の肘から垂れる生き血をトッピング。レヴィンに差し出しつつ、自身の負傷の再生を促進させる。

 レヴィンは嬉しそうに顔を傾け、裂肉歯おくばで生肉を咀嚼した。ちゃぐちゃぐと音を立てながら剪断せんだんし、飲み込んでいく。

 これを食べたらすぐに降りなければ。レヴィンは水精霊ウンディーネと遭遇するずっと前から魔法を使い続けているのだ。かなり消耗しているはず。正直に言えば、地上に生還できるかもちょっと怪しいところだ。


「結局、なんで怒ってたのかよくわからなかったなぁ」


 次の水精霊ウンディーネとは穏やかな出会いをしたいものだが、なにが気に障ってしまったのかよくわからない。シルティは眉間にしわを寄せ、しばらく思案してみたが、これという答えは得られなかった。次の水精霊ウンディーネはできれば怒らせたくないのだが……わからないことは、改善することもできない。


「なんかね、レヴィンのこと汚いとか言ってたんだけど」


 その言葉を聞いた途端、レヴィンは食事を中断し、目を丸くして姉を見た。レヴィンは水精言語を聞き取れない。当然、水精霊ウンディーネが吐いた暴言も初耳だ。

 ヴァフゥッ。吐き出された荒々しい鼻息には明確な憤りが込められていた。レヴィンは自他ともに認める綺麗好きである。入浴や水浴びを殊更に好み、日々の毛繕いグルーミングも欠かさない。汚いと言われたのは生涯初のことだろう。


「んふふ。レヴィンほど綺麗好きな琥珀豹、他にいないのにね?」


 なだめるように妹の背筋せすじを優しく撫でながら、シルティは追加のビスケットを口へ運び、そして。


【おい】


 突如、耳に届いたかすかな精霊の声に、蛮族の肉体は染み付いた動作を再生した。

 片手で為されたとは思えぬ神速の抜刀。それに伴う膨大な慣性の制御し、一瞬のうちにきょからりつへ、戦闘態勢中段構えへの移行を完了する。

 姉の居合に即応し、レヴィンもまた意識を切り替えた。シルティの後方へ跳躍しつつ四肢を広げ、頭を低く。その五感の全てを使って周囲を警戒する。


【助けろ】

「え」


 続いて聞こえたのは、予想外の言葉だった。

 警戒を解かず、精霊の目を凝らす。だが、何も見えない……いや。

 シルティの前方、八歩ほど先に、胡麻ゴマほどもない微小な青虹色の粒が一つ、ふよふよと。


【おぁ……。小さく、なりました、ね?】


 遭遇時は拳ほどの大きさがあったので、それに比べると万分の一すらもないだろう。二度も真っ二つに両断したせいか、随分と体積が減ってしまったようだ。まさかこの状態でまだ息があるとは。嚼人グラトンで言えば毛髪一本で生きているようなものではないだろうか。

 シルティは今の今まで、生存という競技においては嚼人グラトンこそが最強の魔物だと思っていたが、これは少し認識を改めなければ。物質的肉体を持たぬ精霊種の生理はまさしく超常的だ。


【私は、まだ、死ねない】


 死にたくない、ではなく、まだ死ねない。生涯を費やすような大きな宿願がなければ、死の間際でこの言葉は出てこないだろう。

 シルティは仄かな親近感を抱いた。

 根本的に死を恐れぬ蛮族でも、まだ死ねないと思うことはある。

 例えば〈永雪〉の完成を待つあの日々のどこかで死を迎えていたなら。シルティは死んでも死にきれないと叫びながら、無限の未練に包まれて死ぬだろう。

 この水精霊ウンディーネにも、シルティにとっての〈永雪〉のような存在があるのかもしれない。

 シルティは微笑みを浮かべ、構えを解いた。


水精霊ウンディーネさんが生きてた。でも、もう殺し合う気はなさそう。死にそうだから助けて欲しいって言ってる」


 口頭での説明と手振りハンドサインで、レヴィンの警戒も解かせる。


【わかりました。助けます。どうすればいいですか?】


 殺すつもりで戦ったが、殺したいわけではない。既にこの一戦の勝敗は決した。つまり、フェリス姉妹が相対的強者となり、水精霊ウンディーネは相対的弱者となったのだ。

 助けてほしいと乞われれば、助けることになんの躊躇もない。『強者たるもの、すべからく弱者を守るべき』は蛮族の戦士の常識である。

 まあ、生きていればもう一度殺し合ってくれるかもしれない、という下心もあったが。


【……お前の、血液を】

【血液を】

【丸めろ】

【丸め、……ん?】


 意味がよく分からない。水精言語の勉強不足かもしれない。


【あのすみません、どういうことですか】

【……浮かべろ】

【……えーっ、と……】

【流れないようにしろ】

【流れないように……】

【私にはお前の水は操れない。丸めて、浮かべろ。流れないように】

「うー……ん、と」


 丸めて、浮かべて、流れないように。

 つまり、シルティのを空中に集めろ、ということだろうか。


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