第153話 乾燥



 渇望すること都合八回目。

 狂おしく伸ばした右腕がついに〈永雪〉のつかに届き、シルティはようやく愛刀を取り戻した。


(っし!!)


 今すぐ刀身にキスでもしたいところだが、愛を確かめ合っている暇などない。直後に襲い来る三枚の水円。正面から下腹部を狙う一枚。左方から胸を狙う一枚。右後方から首筋を狙う一枚。シルティは〈永雪〉を掴むために身体を伸ばし切っている。地上ならばともかく、空中ではどう足掻いても綺麗な回避は望めないだろう。

 両足を振り回すように広げつつ腰を捻り、腹筋と背筋を酷使。取り戻したばかりの愛刀を振るい、下腹部と胸を狙っていた水円を一撃で粉砕した。会心の手応え。心地のいい砕音。〈銀露〉では叶わなかった形相破砕も〈永雪〉ならば完璧だ。

 ただ、最後の一枚の水円は肉で受けるしかない。〈永雪〉を振るった反作用を体幹で束ね、空中で身体の角度を変えると、こちらへ真っ直ぐに飛来する水円に左腕を伸ばし、そして。

 シルティはかすかな違和感を覚えた。

 何かが。何かが今までと違う。なんだ。何に違和感を覚えている。引き伸ばされた視界の中、シルティは必死に自問し――だが、答えを得られるほどの猶予は既になかった。

 シルティの目前で水円が――直後、悍ましい激痛が脳髄を貫く。


「ぐッぅ!」


 食い縛った歯の隙間から苦痛の声が漏れる。形を変えた水円が左腕に螺旋状に巻き付き、細く締め潰していた。小蛇のような見た目からは信じられないほどの出力。皮膚の裏側で潰し崩された骨と肉が前腕の断面部からと絞り出されている。巨大ななまソーセージを強く握り潰したような光景だ。シルティはかつてレヴィンに与えていた流動食を思い出した。

 先ほどの違和感の正体は変形の予兆だったらしい。完全に不意を突かれてしまった。十二枚の水円と戯れる時間が濃密すぎて、これが不定形の凶器であるということが意識から抜けていたか。

 水を短期的に『冷湿掌握』の対象外にするには生き血を混ぜる必要がある。対象を削る水円であれば押し付ければそれだけでいい。しかしこの水の小蛇は噴出口肉の断面をしっかり避け、シルティの腕を絞っている。一度の接触でより長く甚大な被害を与えられるよう、水精霊ウンディーネが工夫を凝らしてくれたらしい。


「キひッ!」


 本当にもう、最高だ。シルティはすっかりこの水精霊ウンディーネが好きになってしまった。

 手首の動きで旋回させた〈永雪〉で肘関節を切断し、返す刃で水蛇を打ち据える。急冷溶融ガラスルパートの滴の尾を圧し折ったかのように、水蛇の全身に粉砕が伝播、粉々になって飛散した。完全に思い通り。絶好調だ。水精霊ウンディーネの暴力も素晴らしいが私の〈永雪うで〉も素晴らしい。シルティはとろけるような笑みを浮かべ――ほんのかすかな、致死の気配。


「んッ」


 自らの直感に身を委ね、頭部を振るう。

 半瞬遅れ、水弾が右側頭部の頭皮を直線状にえぐり、空中に赤いおうぎが広がった。

 初めて見せる水蛇で意表を突いて捕獲し、動けなくしたところに間髪入れず高速の狙撃か。我ながらよくしのいだと褒めたくなるほどの極上の暴力だ。できれば動きのキレを存分に発揮できる地上で殺し合いたかった。

 にまにまと笑うシルティに向け、莫大な質量を誇る太く長い触腕が横殴りに叩き付けられる。

 見えてはいるのだが、どう頑張っても躱せる体勢ではなかった。なりふり構わず水弾に対処した代償だ。

 まともに食らう。

 物凄く痛い、というか、苦しい。巨大な牛に真っ直ぐ突っ込まれたかのような衝撃。肺腑が押し潰され、貴重な空気が口から漏れ出る。右腕で頭を庇ったものの、体重を軽減していたせいもあって、シルティの身体はそれはもう気持ちよく吹き飛んだ。

 角度が悪い。ほぼ水平だ。このままでは負け。急いで足場の上に戻らなくては。雲の中という環境ではレヴィンと離れすぎた時点で詰んでしまう。

 残りの飛鱗は三枚。

 二枚使えばなんとか勢いを殺せる、残りの一枚は雲の切開に使う。

 そう判断した直後、シルティの身体が柔らかく脆い何かを貫いた。


「っ!?」


 完全に想定外の衝突にシルティの身体が強張る。水精霊ウンディーネの攻撃かと思ったのだ。しかし、即座に覚えのある感触だということに気付いた。少し前にも味わった緩やかな減速。レヴィンが生み出す最脆最弱の積層障壁だ。触腕に与えられた初速度が見る見るうちに吸収され、すぐに減速が終わり、静止。最後に作られた水平な足場の上に膝を突き、膝の下の黄金色を見て、シルティは唖然とした。

 なぜ珀晶が。シルティは雲を切開していない。

 あの天才児、まさかとうとう雲まで克服してしまったのか。

 驚愕の視線を妹に送り、違和感を覚え、微かに眉をひそめる。


(んっ?)


 吹き飛ばされたせいでかなり離れてしまったはず。

 だというのに、臨戦態勢のレヴィンの姿が見えた。

 凛々しく伸びた白い洞毛ヒゲまで、くっきりとだ。

 つまり。


(雲が薄くなってる!)


 一帯を包み込む雲が巨大なうえ、視界内に碌な物体がないため気付けなかったが、いざ見回してみれば一目瞭然。明らかに希薄になっている。なぜ。一瞬だけ考え、すぐに答えが出た。水精霊ウンディーネが水塊を蓄えたからだ。

 シルティが水を飲めば飲むほど、水精霊ウンディーネは対抗するように水塊を生み出していった。大きくなりすぎてもはや正確には把握できないが、今の水精霊ウンディーネの貯水塊は少なくとも公衆浴場の湯船五杯分ほどはある。あれだけの水量を雲から絞り出したのだから、周囲の雲がのも当然というもの。

 ありがたい。これならレヴィンは『珀晶生成』を充分に行使できる。


(これなら……。チャンスは、一回かな。)


 シルティは右手を口元へ持っていき、今なお柄頭つかがしらを握り締めている己の左手、その親指の付け根に噛み付くと、力ずくで引き剝がした。

 この手首のおかげで遠隔強化が実現できたという自覚はあるが、さすがに邪魔である。

 そのまま顎に力を込め、中手骨ごと母指球筋ぼしきゅうきんかじり取り、ゴリゴリと咀嚼。シルティの好みで言えば嚼人グラトンの肉はあまり美味しくはないのだが、好き嫌いをしていられる状況ではない。これも貴重な食料だ。補給した生命力で肘の断面の再生を促進する。


「すー、ふぅ」


 吐いて吸う。ただの一度の呼吸で肺腑の働きを整え。


「いくよ、レヴィン」


 シルティは跳び出した。もはや飛鱗を足場に回す必要はないのだ。シルティが信じて足を踏み出せば、完璧なタイミングかつ絶妙な角度で珀晶が生成される。姉妹の以心伝心に支えられた曲芸のような空中跳躍、いや、空中疾走を披露して、蛮族の戦士は水精霊ウンディーネへと襲い掛かった。

 水精霊ウンディーネが迎撃に動く。総数三十七枚に膨れ上がった水円の群れ。貯水塊から伸びる十八本の長大な触腕。前者は同時に、後者は波状に、シルティへと殺到する。

 だが、愛刀〈永雪〉を取り戻し、レヴィンの『珀晶生成』が解禁された今、シルティの動きは飛躍していた。最小限の形相破砕で水円を粉砕し、切り開いた空間を瞬く間に貫通、そして。


「硬いの!」


 シルティが叫ぶように飛ばした短い指示に従い、レヴィンが足場を生成した。大きな直方体。これまでのような丸棒や薄い板とは比べ物にならない体積強度を誇るそれを、シルティは粉砕するつもりで蹴り飛ばし、水精霊ウンディーネとの距離を一気に詰めに掛かる。

 シルティの姿が消えた、そう錯覚するほどの加速度で、蛮族が空を跳ぶ。

 だが、水精霊ウンディーネの反射神経を置き去りにすることはできなかった。


 直進するシルティを真正面から迎え撃つ触腕。

 正直、これは厄介だ。貯水塊から生えるように伸びている。先端部を斬ろうが砕こうが、根本からの供給を絶たなければすぐに元通り。根本的に形相切断との相性が悪すぎる。

 だが、この触腕は回転による局所的なを内包していない。もちろん、もちろん、『冷湿掌握』の影響下に置かれた水は自然水より硬いが、要するに単なる質量攻撃だ。

 例えるなら、水円は削磨狐みがきギツネの『弥磨尻尾いやすりしっぽ』で、触腕は自然の滝だろうか。

 多分、受け方さえ工夫すれば……触腕は『珀晶生成レヴィン』との相性がいい。


「盾! 円錐!!」


 出現するのは長大かつ鋭利な中空円錐。事前の打ち合わせなどもちろんしていない。だが、完璧だ。シルティが欲しい形そのままの盾である。左腕が存命であれば拳をグッと握っていただろう。あとでめちゃくちゃ褒め殺そう、とシルティは決意した。

 跳躍中のシルティが内部にすっぽりと格納され、直後に触腕が円錐を呑み込む。ベクトルに平行に生成された鋭利な円錐が、莫大な水を船首のように滑らかに貫き、直後、シルティが〈永雪〉を振るう。触腕をやり過ごすのに使った円錐盾を自ら破壊、レヴィンが間髪入れずに追加した足場を踏み砕き、再度の加速。完全な最短距離を辿り、水精霊ウンディーネの元へ。

 ようやく、間合いに取り込んだ。

 今度こそ、いける。

 爛々と輝く両目を見開き、とろけるような満面の笑顔を浮かべ、片手大上段に振りかぶる――致死の気配。


 また来たか。

 シルティの目を以てしても、不意打ちであれば目視の難しい、水精霊ウンディーネの高速狙撃。


「ひっ!」


 確かに素晴らしい攻撃方法だが、それはもう、慣れてしまった。

 だから、シルティは躱さなかった。

 ただ、気配の方を向き、首を伸ばして、口を開けた。


【な】


 口腔に取り込んだ死を飲み込んで生命力いのちに変換。

 一歩間違えば死んでいた。つまり私はより強くなった。蛮族にしか理解しがたい理論で自己を肯定し、涎を垂らさんばかりの笑顔を浮かべ、シルティは全身全霊の唐竹割りを放つ。


【ぁっ……】


 音すら斬り裂く真銀ミスリルの刃が、青虹色の球体を捉え、真っ二つに分断。

 直後、空中に蓄えられていた水たちが形を失い、重力を思い出したように地表へと降り注いでいった。


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