第151話 小さく、速く、そして強い



 致死の気配。

 全力で首をかしげる。

 一瞬前まで頭部があった空間を、水塊が貫通していった。

 びちゅっという湿った音と共に左頬がえぐれ、耳介が丸ごと吹き飛び、露出した肉から鮮血が滲み出す。

 痛い。躱し切れなかった。しかし、聴覚が死ぬほどではない。

 直後に響くのは分厚いガラスが叫ぶ断末魔のような破砕音。斜め上方から飛来してシルティの頬をかすった微小な水塊が、そのまま足場を破壊したようだ。

 支えを失い、フェリス姉妹の肉体が自由落下に移行する。


「ぅおっ」


 とにかくまず飛鱗が必要だ。レヴィンに咥えさせていた一枚がちょうどいい。すぐさま意識を飛ばして呼び寄せ、直下の雲を広く切開すると、頼もしい妹がそつなく頑丈な足場を作り直した。


「っと」


 新たな足場を両足で踏み締め、落下の衝撃を膝と股関節で吸収する。新たな足場は一枚板ではなく、シルティの足が嵌まり込まない程度の大きさの格子で生成されていた。先の自由落下から姉妹の命を救った積層壁と同様、六角形の骨格を隙間なく並べた網状の珀晶だ。

 これは単位面積辺り最脆最弱の板を実現できる構造でもあるが、一定体積で最大面積の板を実現できる構造でもある。同じ体積強度でより広い足場を作ろうと思ったとき、レヴィンがこれを選ぶのは当然と言えた。また、こちらは副次的効果だと思われるが、水捌みずはけが良いと言うのも有り難い。足を払われる恐れが少なくなる。

 さすがはレヴィンだ、と内心で姉馬鹿を発揮しつつ、シルティは右腰の〈銀露ぎんろ〉を順手で引き抜いた。

 頭上の水精霊ウンディーネに視線を固定。感覚だけで己の肢体を素早く診断する。

 顔面は軽傷。耳介が無くなってしまったので音源定位能力は著しく低下したが、この程度であればなんの問題もない。

 一方の左腕は少し問題だ。手首から拳一つ分ほどの位置で切断されている。いや、千切られている。より正確に言えば、穿うがたれている。

 どちらもにぶい凶器による挫滅創ざめつそうだ。ある種の獣たちが備えるつのでやられた傷に近い。


(めちゃくちゃ小さかった)


 左腕を千切り飛ばした攻撃は見逃してしまったが、顔面を狙ってきたは見えた。せいぜい指二本分ぐらいの小さな水塊。それが恐ろしい速度で飛来し、強化されたシルティの肉体を容易く貫いていったのだ。状況から言って、おそらく左腕の方も同様の攻撃だろう。

 小さく、速く、そして強い。素晴らしい。まるでどこかの蛮族の娘のようだ。シルティは自画自賛混じりの親近感を覚えた。

 しかし、腑に落ちない点がある。今までの戦況から、魔法『冷湿掌握』が水を動かす際の物理的な出力は対象の体積に依存するとシルティは考えていたのだが。なにか思い違いがあったのか。考えてみれば、シルティが『弱い』と判断した微小な水滴は形相切断で霧散させたものだけだ。物性是正の影響下になければ、小さい水にも肉を抉る威力を持たせられるのかもしれない。

 水精霊ウンディーネを見る。青虹色の球体は相変わらず上空に浮かび、周囲に大量の水を浮遊させていた。先ほどの水弾に換算すれば、どう少なく見積もっても一万発分を下回らないだろう。もっとたくさん撃ってきてもいいように思えるが、連射してこないことを考慮すると、高速の狙撃にはなにか事前準備が必要なのか。

 わからない。

 わからないが、いつ来てもいいよう、意識を割いておく。


「ふふ……」


 シルティは笑みをこぼした。

 素敵な攻撃を受け、幼い頃に家族で入浴したある日のことを思い出したのだ。


(お父さんの水鉄砲水はじき、痛かったなぁ……)


 あの日、両親と共に実家の風呂場で入浴を楽しんでいたシルティは、右目を失明した。父ヤレック・フェリスが両手を組んで加圧噴射した水鉄砲を顔面に受け、眼球が潰れてしまったのである。真っ赤に染まった湯船の中で、細く絞られ充分な速度を得た水とはここまでものなのかと感動したものだ。

 水精霊ウンディーネの水鉄砲はヤレックのそれを遥かに超える威力だった。顔面に喰らっていたら失明では済まなかったはずだ。

 しかし、初撃で頭ではなく左腕を狙ったのは何故だろうか。頭蓋骨を貫通していればシルティは呆気なく死んでいたのに。

 水精霊ウンディーネになにか考えがあるのか、あるいは判断ミスか。


(なんとなく、ミスっぽい気がする)


 シルティの捕食者としての嗅覚は後者だと判断した。左腕を千切られる直前。水精霊ウンディーネを間合いのうちに取り込み、上段に構えたあの瞬間。ぶるりと震える青虹色には、確かに怯えの匂いが感じられた。

 要するに水精霊ウンディーネは、笑顔で大上段に構える蛮族にビビったのだ。

 臨死の恐怖にさらされたとき、冷静な判断力を保てる動物はそう多くない。頭を潰していれば終わりだったのに、意識が逃避に傾き、身近な恐怖の対象を遠ざけようと『』を狙ってしまったのではないだろうか。

 まぁ、真実はわからないが。

 とりあえず、水精霊ウンディーネの攻撃が凄まじい速さであることは間違いない。

 あの速さで狙われてまだ命があることを喜ばなくては。

 シルティの唇が弧を描き、渇愛を孕んだ吐息が漏れる。


 空から落ちる天雷に負けて以来、シルティはに飢えていた。

 私の速さはこんなもんじゃないと、世界に知らしめたくて仕方がなかった。

 私のキレはもっと素晴らしいのだと、己に酔い痴れたくて仕方がなかった。


 爛々と輝く両目で水精霊ウンディーネを見つめ、左腕を頭上に掲げる。断面から断続的に噴き出す鮮血を頭から浴び、化粧直しを施した。水の触腕に打ち落とされたせいでシルティの体表が洗われてしまったのだが、これで体表をまさぐられる恐れはない。レヴィンの方の化粧はまだうるおっているので、体表を切り裂く必要はないだろう。

 並行して、周囲に散らばってしまった飛鱗を迅速に集合させ、一枚はレヴィンの口元に浮遊させる。


「頼りにしてる」


 任せろと言わんばかりの唸り声をあげ、レヴィンが飛鱗を咥え込む。

 こうしている間にも、水精霊ウンディーネは周囲の雲を凝縮して保水量を刻一刻と増やしていた。

 シルティがよく借りる公衆浴場の個室浴槽を二杯分、余裕で満たせるほどの水量が支えもなく空中に浮遊している。

 なんというか、幻想的で綺麗だ。

 綺麗なのはいいのだが、果たしてあの質量、どうしたものか。


 形相切断で斬り刻むあるいは粉砕すれば、水精霊ウンディーネの掌握した水分を一時的に無力化できるのは間違いなさそうだ。だが、あくまで一時的。細切れにしたところで水分は消え去ったりはしない。物性是正の影響が残っている間は飛沫を集合させても融合はできず、ラズベリーの実のような状態で所在なさげに浮いているのだが、ふた呼吸ほど経つと一体化して質量を取り戻し、再び凶器と化してしまう。

 これではいくら斬っても水精霊ウンディーネのリソースを減らせない。こちらの体力が消耗していくだけだ。

 なんとかして水の再利用を防ぐ必要がある。

 どうすれば防げるだろうか。

 この手に燦紅鈥カランリルの剣でもあれば噴火能力で雲を蒸発させられたかもしれないが、心の底から残念なことに持っていない。

 シルティの生命力を混ぜれば魔法『冷湿掌握』の対象から弾くことはできるだろう。だが、生き血という素材は極めて劣化が早いため結局は一時凌ぎにしかならないし、そもそもどれほどの血液が必要になるかわかったものではない。頭抜けた生命力を誇る嚼人グラトンは造血能力も凄まじく、多少であれば血液を無駄遣いしながらでも活動可能だが、限度というものはあるのだ。

 他には。

 なにかないか。


 シルティの頭では、飲むくらいしか思い付かなかった。

 嚼人グラトンの消化器は文字通りの底無しなのでいつかは飲み干せるはず。


「ふふ」


 笑ってしまうほどに現実的ではない。

 シルティが水塊を少しずつ斬り取ってくぴくぴ飲むより、水精霊ウンディーネが新たに雲を凝縮して水を追加する方が圧倒的に早いだろう。


(まあ、やるけど)


 シルティは舌先で唇をちろりと舐めた。

 それしか手段がないのなら、それをやらない理由はない。くぴくぴ飲んで間に合わないならがぶがぶ飲めばいいのである。

 まずは〈永雪〉をこの手に取り戻さなければ。〈銀露〉の刃渡りは〈永雪〉の二割ほどしかない。もちろんシルティは〈銀露〉のことも心底愛しているが、さすがにこの状況では少し心許こころもとなく感じてしまう。

 上空の獲物から視線を外さないまま、シルティは跳躍した。脚力を振り絞った全力の踏み込み、その半瞬後、体重を瞬時に軽量化する。体重が軽すぎれば踏ん張りが弱くなり、脚力を上手く速度に変換できない。かと言って体重が重ければ、脚力の速度しか生み出せない。踏み込む瞬間は重く、動き出した瞬間に軽く。ここに来て急速に最適化の進んだ足捌きが、蛮族の跳躍力を超常的に向上させていた。たったの一歩で馬鹿げた距離を踏破し、いまだ宙に固定されたままの〈永雪〉を求めて愚直に接近する。

 即座に水精霊ウンディーネが動いた。真銀ミスリルの太刀が己にとって致命的なものだと理解しているのだろう。遠ざかるシルティを追跡しつつ十二の水塊を射出する。

 あの素晴らしく速い水弾ではない。やはり、あれを撃ち出すにはなんらかの条件がありそうだ。


(おっ?)


 放たれた十二の水塊は、やや小さめで平たい円盤状、そして高速で旋回していた。数と形状、さらには挙動まで、鬣鱗猪りょうりんイノシシの飛鱗を参考にしているのが明らかだ。シルティが便利に使っているのを見て羨ましくなったのだろうか。

 シルティは強い共感を覚えた。


(初めて見た刃物を使いたくなるの、めちゃくちゃわかるなぁ!)


 充分な速度を与えれば小さな水の弾で筋骨を貫けるのだから、充分な角速度を与えれば水の円盤で筋骨を斬れるのだろう。尋常な水であれば回転させても飛び散るだけだが、『冷湿掌握』ならばああして形を保つことができる。

 惜しいのは、回転に伴う強烈な遠心力をいまいち制御できていないようで、水円の中央が薄くなり、反対にふちはやや厚くなっていることか。あれでは切断というより研削けんさくになってしまう。


【それ、もっとふちを薄くした方が良いですよ!】


 シルティは純粋な親愛から助言を送ったが、残念ながら水精霊ウンディーネはこれと言って反応を返さなかった。

 本当に、つれない態度である。


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