第150話 破砕



 レヴィンの初陣の日。

 三匹のオスの群れに襲われたあの時、シルティは露払いとして二匹の蒼猩猩を相手取り、そのうち一匹の頭部を逆風さかかぜの一撃で粉砕した。

 を試してみるのもいいかもしれない。

 シルティはにまにまと笑いながら手の内を締め、血の染み込んだつかを手のひらと意識的に同化させる。

 愛情を込めて頻繁に丹念に巻き直している諸摘巻もろつまみまきは、極上の柄糸つかいとを使っていることもあって、血液にまみれようとも全く滑らない。


「ぅふっ」


 またもやぶっつけ本番だが、まぁ、失敗したらその時はその時だ。

 一旦、が要る。そう判断したシルティはおびただしいほどの剣閃を披露し、またく間に三つの水塊を霧散させて猶予を作ると、間髪入れず飛鱗を踏み付けて後方へ大きく跳躍。

 対面から背中が見えるほど腰を捻り、つかを握る右手を滑らせ、柄頭つかがしらを握る左手に接触させる。今、必要なのは、とにかく威力。精密さは二の次だ。重竜グラリアの左前肢を弾き崩したあの時と同様、〈永雪〉という太刀を最大限に長く使う。

 シルティの脳裏には、尊敬してやまない父の筋骨隆々マッチョな後ろ姿が描かれていた。

 憧れへの渇望を滾らせ、体幹筋に蓄えられた暴力を解放。

 右から左へはしる逆水平の一撃が、シルティの腹部を狙って飛来する二つの水塊をまとめてとらえる。

 世界がシルティの傲慢を容認し、水塊が粉々に


(さすが私ッ!!)


 甲高く硬質な断末魔を耳にし、シルティはたける。

 形相切断。

 至る所まで至ってしまった狂人バカは、当人がと完全に確信できるものであれば、なんでも斬れるようになる。

 ならば、当人がと完全に確信できるものであれば、どんなものだって砕けるようになるのは至極当然の帰結である。

 それは、刃物と呼ばれる概念が誕生する以前、斬撃ではなく衝撃こそが唯一無二の武器であった世界で、拳や足や棍棒を振り回す筋肉自慢の人類種たちが生存競争の末に至ったの極致。より原始的な形相切断、特に強調するならば『形相破砕』とでも呼ぶべき、超常の現象わざだ。

 シルティは砕くよりも斬る方が圧倒的に得意好きであるが、その気になれば蒼猩猩の頭部くらいは一撃で粉砕できる。その実績がある。

 水精霊ウンディーネの掌握した水は自然の水とは比べ物にならないほどが、それでも、生命力の作用によって強化された魔物の頭蓋骨よりは柔らかい。


 これでが空いた。

 残る全ての飛鱗を射出し、雲の切開と足場に総動員。黄金色の丸棒と黄土色の五角形を絶え間なく踏み付け、空中を鋭角に連続跳躍しつつ水精霊ウンディーネを追い詰めにかかる。を阻む水精霊ウンディーネの水塊を銀煌ぎんこうの刃が次々に捉え、例外なく粉砕した。自慢の速度に任せて三本の触腕の隙間をうように回避、り抜け、さらに前へ。


「ひひッ」


 何度も〈永雪〉を振るって斬り刻むという手間がなくなった恩恵は想像以上に大きかった。

 逃げ惑う青虹色の球体を、ついに間合いの内に取り込む。


(いけるっ!!)


 ようやく、肉薄できた。

 斬るべきか、砕くべきか。

 やっぱり、斬りたい。

 斬り殺したい。

 爛々と輝く両目を見開き、とろけるような満面の笑顔を浮かべ、大上段に振りかぶる。


「あはっ!!」


 シルティの野蛮極まる嬌笑きょうしょうを受け、水精霊ウンディーネの表面がぶるりと震えた。

 燃えるような昂りを乗せ、左手一本で放つ全力の唐竹割り。

 音すら置き去りにする真銀ミスリルの刃が、水精霊ウンディーネの真芯を捉える――かに思えた。


 ぢゅびっ、と。

 かすかだが、悍ましい音が響く。

 シルティの左腕が強く左方へと弾かれ、直後に感じたのは凄まじい痛みと骨身に沁みる冷気。


(んぁっ?)


 完全な不意打ちを受け、シルティの体勢が無様に崩れる。

 なにかが起きた。

 なにが起きた。

 わからない。

 だが、結果だけは明らかだ。

 左前腕に攻撃を受けた。手首にほど近い位置で、完全に分断された。


(あっ)


 不意に生き別れになった左手は、〈永雪〉を固く握り締めたまま、唐竹割りの慣性を綺麗に保持して放物運動に移っている。

 鍔元を中心として、高速で回転しながら、シルティから遠ざかっていく。


(あああっ!?)


 戦闘が始まって以来、最大の焦燥がシルティを襲った。

 愛する〈永雪〉が。

 なんとかしなければ。なんとかしなければ。絶対になんとかしなければ。あれを失くしたら、肉体的には無事でも精神的に死ぬかもしれない。いつもと一味違う臨死に際し、シルティの主観が極限に引き延ばされる。完全に静止した視界の中央に〈永雪〉を据え、己の脳の性能を絞り切った。


(レヴィッ……)


 雲を切開すれば。雲さえなければレヴィンが珀晶で掴み取ってくれるはず。だが、飛鱗では間に合わない。シルティの全力の唐竹割りがそのまま初速度に変換されてしまった。いやはや素晴らしい速度だ。水精霊ウンディーネを斬ることこそ叶わなかったが、我ながら惚れ惚れするような神速の一撃だった。

 馬鹿め。自己陶酔している場合ではない。今すぐ〈永雪〉の周囲の雲を斬らないと。あの素晴らしい太刀が行方不明になってしまう。

 雲が邪魔だ。

 斬らないと。


(あっ)


 今すぐ、愛する〈永雪〉のつかを握り締めて。

 雲を、斬らないと。


(あ、あっ)


 どうやって。

 ああ。

 つかを握り締めることさえできれば。


「あっ。……ふふっ」


 その瞬間、シルティはあることに気付き、一瞬だけ呆然としたあと、自嘲気味に笑った。


 一体全体、自分はなにを焦っていたのやら。

 私の左手は相変わらず〈永雪〉の柄を握り締めているというのに。

 私の握った〈永雪〉が、雲如きを斬れないはずがないというのに。


 実績と確信が混ざったに呑み込まれ、シルティの意識のたがが勢いよく千切れ飛んだ。

 左腕の断面から噴出した莫大な生命力が世界の後押しを受け、体外という絶縁空間を食い破り、空と地を結ぶ天雷てんらいのように〈永雪〉に到達する。

 繋がった。

 ならば。

 斬れる。

 形相切断遠隔強化

 旋回しながら空中を泳ぐ〈永雪〉はシルティの主観に則り、、雲を斬り開いた。


「やっ!」


 快哉を叫ぶ。


「だぇっ!」


 そんな暇など与えられない。

 襲い来る甚大な圧力。水精霊ウンディーネの操る水の触腕だ。背中を叩かれたせいで息が詰まる。やはり存在を感じられない。どうしても反応が遅れてしまう。足場もなく、飛鱗もない。耐えられるはずもなく、羽虫のように打ち落とされる。

 致命的速度を与えられ鉛直に落下するシルティ。咥えていた飛鱗を放り出し、レヴィンが走る。素晴らしい瞬発力を発揮して華麗に跳躍すると、シルティを迎え打つように空中で激突、両前肢で姉の胴体を挟み込んだ。

 剥き出しになった鉤爪が革鎧と肉に深く食い込み、姉妹の身体を強固に結び付ける。支えのない空中でのの強弱は質量に依存し、そして現時点の体重はレヴィンの方が圧倒的に大きい。この瞬間、物理的な動作の主導権はレヴィンが握っている。


 レヴィンは姉をしっかり確保したまま、前肢と後肢を精一杯に伸ばした。実現し得る最大の半径で自らを中心とした円動を生み出し、半回転。シルティに与えられていた慣性を柔らかくすくい上げ、絶妙なタイミングで前肢を放す。

 シルティの落下速度の何割かがレヴィンに吸収され、一塊ひとかたまりとなっていた姉妹が再び離れた。

 自らが跳躍した速度よりも遥かに加速して落下することになったレヴィンは、広げた四肢と体幹筋を最大限に柔らかく使って着地、なんとか足場を壊さずに済ませる。

 一方、妹の献身で大幅な減速を果たしたシルティは余裕を持って体勢を整え、揃えた両足で軽やかな着地を成功させた。


「ありがとっ!」


 なにより先に視線を空に飛ばす。

 愛する〈永雪〉はどこだ。

 居た。薄雲の向こう。鍔元つばもとつかつばを挟み込むように生成された二本の輪に支えられ、宙に浮かんでいる。


「信じてたッ!!」


 レヴィンへの賞賛と感謝を叫び、すぐさま意識を切り替える。

 水精霊ウンディーネはどこだ。

 居た。シルティの後方上空。大量の水と共に青虹色の球体が浮かんでいる。

 シルティの左腕から噴出した血が混ざったらしく、滞留させた貯水塊の一部がほのかに赤く染まっていた。


(んんっ? なんか、変な動きしてるな?)


 生き血混じりの貯水塊の表面は微細に波打っており、また水精霊ウンディーネ自身は動物の心臓を思わせる脈動を見せている。先ほどまではなかった反応。異様な雰囲気だ。苦しみを堪えているようにも、喜びを堪えているようにも見える。

 考えるに、貯水塊に混入したシルティの生き血がなんらかの影響を及ぼしているのではないだろうか。水精霊ウンディーネが魔法の対象とした物質の状況をどこまでできるのかはわからないが、嚼人グラトンの生き血ほどの濃密な異物生命力が混入して、影響が全くないということはないだろう。

 精霊の耳の構築を受けているのと同じような苦しみを味わっているのかもしれない。もしくは、重竜グラリアの血を飲んだシルティのように美味しすぎて震えているのかもしれない。あるいは単純に、水を掌握しにくくなって苛立っているのかも。


【なぜ震えているのですか?】


 興味半分時間稼ぎ半分で問いかけてみるも、残念ながら水精霊ウンディーネは反応を返してくれなかった。つれない反応だ。


(んむん。せっかくだからもっといろいろ話を聞いてみたいんだけどな)


 シルティは残念に思った。殺すつもりの相手と殺す寸前まで談笑できるのが蛮族という動物である。

 まあ、仕方ない。とりあえず隙を見て〈永雪〉を回収しなければ。

 貯水塊に混入した赤色が全体に広まって薄まり、元のように無色を取り戻す様を見ながら、静かに息を吐き、吸って、止めて――シルティの視界に、が映った。


 こっちに来る。

 小さい。


(あっ、まずッ)


 速い。


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