第149話 お揃いのお化粧



 愛刀〈永雪〉により裂かれた喉。

 ぱっくりと開いた断面から勢いよく噴出する自らの血液をピタリと合わせた両の前腕で受け止め、革鎧や鎧下に染み込ませる。続いて〈銀露ぎんろ〉を逆手に引き抜き、左右の太腿にトントンと突き刺した。鎧下を貫通した不銹ふしゅうの刃が筋繊維に平行な穴を開け、両脚に鮮血をしたたらせる。

 再生の促進を殊更に苦手とするシルティだが、喉の切開と治療は諸事情によりであるし、超越的な速度を生み出せる両脚はシルティの自慢の一つ。この二か所については戦闘中に癒せる領域にまで達している自信があった。すぐに戦闘に支障が無い程度まで再生できるはず。いや、再生してみせる。


【なん……お前……? えぇ………】


 水精霊ウンディーネの発した生命力のには明らかに怒りとは別の色が混じっていた。殺そうと思っていた相手がいきなり自傷行為を始めれば、精霊種と言えども当惑するらしい。

 無論、シルティは痛みを味わいたくなったから自分の身体を斬ったわけではない。

 水精霊ウンディーネがその身に宿す『冷湿掌握れいしつしょうあく』は、認識内にある冷気と水気と液体を超常的に掌握する魔法。生命力超常が介在するものを対象とする場合、彼我ひがの生物としての強弱が天と地ほどもかけ離れていない限り、これを掌握することはできない。

 『冷湿掌握』を行使すれば巨大な川を一時的にき止めることも容易いが、例えば他者の脳漿のうしょうを暴れさせて内部から破裂させる、などということは非常に困難なのだ。


 ゆえに、シルティは自らの生き血で全身をよろった。

 新鮮な生き血。当人の生命力に限定すれば極上の導通性能を誇る伝統の素材である。少々水で薄まったとて誤差の範疇。血塗ちまみれである限り、水精霊ウンディーネがシルティの肢体をまさぐることは不可能なはず。

 これで思い通りに動ける。足をすくわれる恐れは依然として存在しているが、体表を掌握されなくなっただけでも充分だ。

 シルティは体重を再び軽量化し、傷を最低限まで再生促進させつつ、レヴィンに鋭い視線を送った。魔術『操鱗聞香そうりんもんこう』を発動、咥えさせていた飛鱗を素早く揺する。

 レヴィンはシルティの望み通り、顎を開いて咥えていた飛鱗を解放した。言葉はなくとも姉の意図をしっかり理解できたらしい。

 自由になった飛鱗を回転させることで切断力を宿らせ、レヴィンの身体を螺旋状になぞる。海狗オットセイの防寒具ごと毛皮を浅く長く斬り裂き、自分とお揃いの血化粧を施した。

 空という環境にいる限り、姉妹の生命線はレヴィンの魔法である。体表をまさぐられて集中を乱すわけにはいかない。

 作ってくれた職人が見れば血の涙を流しそうな光景だが、シルティの防寒マントと違ってこちらは着脱に時間がかかるのだ。悠長に脱いでいる暇はないので、申し訳ないが仕方ない。修繕できないようであれば、後日、仕立て直して貰おう。

 血塗ちまみれになった飛鱗を再びレヴィンに咥えさせつつ、シルティは遥か上空の水精霊ウンディーネを見上げた。


(んん。ちょーっと遠いかな)


 霊覚器による目算なので自信がないが、おそらく直線距離で五十歩以上ある。

 初めて鷲蜂わしバチの駆除を請け負った時、シルティが自信を持って精密に操れる飛鱗は一度に二枚が限度で、距離もせいぜい太刀の間合い程度だった。あれから七か月強。今では『操鱗聞香そうりんもんこう』への適応も進み、一度に操作できる枚数は十二枚に増え、距離も五倍以上に伸びている。ある程度の距離ならば、わざわざ近付かなくても飛鱗を飛ばしてばっさり行けるのだが……五十歩はさすがに遠すぎる。

 やはり、ちゃんと肉薄しなくては。


「ふふ、ふ……」


 含み笑いによって喉の割れ目を泡立たせながら、シルティは〈銀露〉を鞘に納め、〈永雪〉を脇に構えた。


 息を静かに吸い。

 止めて。

 跳び出す。


 展開済みの丸棒を踏み砕いて消費しながら、シルティは宙を駆け上った。太腿が痛い。それがまた好い。シルティ単独では届かぬ高さだが、レヴィンの助けがあれば。

 三枚の飛鱗を先行させ、雲を切開してレヴィンの魔法行使を補助。以心伝心、レヴィンが新しく生成してくれた丸棒で進路を細かく修正し、水精霊ウンディーネへと襲い掛かる。


(くっそう! わかってたけど、もどかしいなっ!)


 空を翔けるノミと化しながら、シルティは身を焦がすような歯痒さを感じていた。どうにも遅いしどうしても遠い。雲の切開と『珀晶生成』という手間が必要なうえ、地上と違って真っ直ぐには肉薄できず、九十九折つづらおりの道筋を辿らざるを得ないのだ。シルティが慣れ親しんだ時間感覚からすると愚鈍と言うほかない。

 その猶予に、水精霊ウンディーネが動く。さらに高所へ移動して間合いを稼ぎつつ、雲を凝縮させて巨大な水塊を生み出し、衛星のように自身の周囲に停留させた。のんびりやっていては獲物シルティを捉えられないと理解したようだ。ああしてあらかじめ水の形態で蓄えておけば、雲を凝縮するという工程を省略できるのだろう。


 水精霊ウンディーネまでもう少し。

 いよいよ殺し合いの間合い、というところで、蓄えられた巨大な貯水塊から小さな水塊が分離した。凄まじい速度で空を貫き、シルティへと襲い掛かる。小さな水塊と言ってもシルティの上半身と同じくらいはあり、一度二度斬ったぐらいでは無力化できそうにない。

 では、もっとたくさん斬ろう。

 伸ばした左足で飛鱗を踏み付け、一瞬だけ宙に停止。片足立ちの体勢から〈永雪〉を縦横無尽に閃かせ、まばたきの間に十五の斬撃を繰り出す。急停止に際して体幹に保管した慣性を流用し、速やかに再加速。七十以上に細分化した水飛沫みずしぶきの中を押し通り、さらに上へ。

 斬り刻んだ水飛沫からの抵抗はあった。だが、極めて弱い。薄いヴェールを突き抜けるような感触だ。

 やはり、水量。『冷湿掌握』が液体を動かす際の物理的な出力は水量に依存する。シルティは確信した。


 水精霊ウンディーネの迎撃。貯水塊からにゅっと伸びる軟体動物の触腕による薙ぎ払い。

 遠距離では水塊、近距離では触腕で対応するつもりだろうか。

 なんにしても大振りだ。竜の尾を思えば回避は容易い。飛鱗を踏みつけて鋭く宙返りし、やり過ごす。

 続いて、シルティの頭部ほどの大きさの水塊が三つ、貯水塊から分離した。空中で弧を描きつつ殺到する。少し面倒な位置とタイミングだ。それぞれ別の角度から頭部と左肩と右足を狙っていて、着弾の瞬間も微妙にずれている。シルティの剣速キレを以てしても、三つ全てを一度に細切れにするのは少し難しい。

 つまり、二つなら余裕だ。

 そのまま直進、胴体を狙う二つのみを斬り刻んで霧散させ、さらに前へ。前傾姿勢で首を右にかしげ、頭部を狙いに来た水塊と皮一枚の距離でれ違う――。


「っぶぇッ!」


 シルティの頭部が右方へ弾き飛んだ。

 動きを読んでいたのか、あるいは純粋な反応速度か。最後の一つの水塊が絶妙な位置で進路を折り曲げ、シルティの左頬を痛烈にぶん殴ったのだ。

 めちゃくちゃ痛い。非戦闘時に不意打ちでこれを喰らっていたら首の骨が圧し折れていただろう、そんな衝撃。空中でそんな威力を受け止められるはずもなく、シルティの身体は仙骨せんこつを中心として横転を開始する。

 お父さんに右フックをぶち込まれた時みたいだ、とシルティは笑った。

 同じ流体の凶器でも、岑人フロレスが操る天峰銅オリハルコンとは全く違うようだ。あちらは生命力がみっちりと導通しているので、殴り合えるような距離まで接近すれば、目視せずともなんとなく動きを感じることができた。だが、水精霊ウンディーネの水には生命力が介在しない。シルティの知覚に引っ掛からないため、どうしても反応が遅れる。蒼猩猩あおショウジョウとは別種の気配のなさ。それでいてこの威力。たかだか頭部一つ程度の水量でも油断はできない。


 四肢の屈伸と腰の捻りで与えられた回転運動を制御。空中に放られた猫のように体勢を整えつつ、飛鱗を足元に射出する。即座に踏み付け、慣性を膝で吸収、弾むように跳躍。爛々と輝く目で水精霊ウンディーネを見つめ、まっしぐらに向かう。

 次なる迎撃が来た。先ほどよりも大きな水塊が九つ。触腕が三つ。

 数が多い。

 地上ならともかく、これを空中で掻い潜るのは骨が物理的に折れそうだ。かと言って、一振りの太刀でさばくのも難儀である。飛鱗をいくらか迎撃に回すか。しかし、それでは足場が減ってしまう。

 このままではいつまで経っても肉薄できない。

 止まったように感じられる視界の中、シルティは九つの水塊と三つの触腕の位置を意識上に刻みつけた。


 早く水精霊ウンディーネを斬りたい。

 とにかく、最高効率を。愚直に、最短距離を。

 おや。

 あの水塊の大きさ。

 ちょうど蒼猩猩あおショウジョウの頭部ぐらいだな。

 そう認識した瞬間、シルティの経験と本能が現状の打開策を想起という形で示した。


 蒼猩猩の頭なら、シルティはとても壊し慣れている。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る