第147話 挟圧
「んふふふ……」
シルティはにまにまと笑いながら〈永雪〉を脇に構えた。首元の留め金を外し、マントを脱ぎ捨て、左足を前へ。普段よりも腰を落として重心を低く保ち、半長靴に包まれた両足で足場を
青虹色の球体。マルリルに聞いていた通りの姿だ。霊覚器がなければ認識すらできない、超常の領域に踏み込んで生きる魔物。精霊種とは竜に次ぐ強者である。
こんな相手と殺し合える日が来るとは思わなかった。尊敬する父ヤレックですら精霊種を斬ったことはない。貴重な父越えの機会だ、絶対に斬って強さの糧としなければ。
姉の戦意を感じ取り、レヴィンもまた戦闘態勢に移行する。四肢を広げて頭を低く。丸い瞳孔を小さく絞り、捕食者の眼差しで、シルティの視線の先を睨みつけた。霊覚器を持たぬレヴィンに
精霊種にも死という現象はあると聞く。彼らは意外と寿命が短いようで、二十年から三十年ほどで意識が老化し、最後は形を保てなくなって霧散してしまうらしい。ちなみに、精霊種は
まぁ、老衰で死ぬのなら、斬ればなおさら死ぬだろう。
姉妹揃って溢れるような生命力を
二人同時に、ハッと我に返った。
いや、殺しちゃだめだった。
「ん、んンッ!」
シルティは切先を下ろし、意図的な咳払いをした。
物質的な喉の調子などどうでもいいのだが、精霊の喉を使う前にはついやってしまう。動物としての癖のようなものだ。
【敵意はありません!】
明確な意味を持って空間を伝播する生命力の波。
だが、揺らいでいたのは僅かな間。すぐに
【はじめまして。私は、シルティ・フェリスと言いま】
【黙れ。お前はどうでもいい】
おお。答えが返ってきた。しかも、ちゃんと意味がわかる。
マルリルの授業のおかげだ。嬉しくなったシルティは生命力に好意を乗せて震わせた。
【私は。では、私の……あー、私の大切が、なにか失礼を?】
妹、という単語が水精言語に存在しなかったので、適当に言い換える。レヴィンを指した言葉だと伝わるだろうか。
【汚い】
【
ほんのつい六日前、お風呂に入ったばかりだし、
というか、レヴィンが汚いと言うのならばシルティも汚いはず。
【死ね】
これほどの体積、質量、速度。まともに喰らえば敢え無くぶっ飛ばされるだろう。
警戒していたレヴィンは即座に後方へ跳躍して間合いを取った。
シルティは、鋭い呼気と共に右袈裟を放つ。
であれば、斬れる。
シルティは切開した水塊の
「ぅぁッ!」
左右から叩き潰され、無様な悲鳴を漏らした。
衝撃より先に感じたのは冷気。一瞬で耳の奥までびしょ濡れになっていた。咄嗟に生命力を防御に偏らせたおかげで鼓膜は無事だが、
気が付けば視界が
間違いなく魔法の結果に拘束されている、というのに、自分の周囲に
(なるほどッ!)
不意打ちの一撃目と今の二撃目で、シルティは理解した。
例えば革鎧の魔術『
これは『
だが、
この魔法には、生命力の経路も存在しないし、
もちろん、
だが、斬ったところで魔法の効果自体になんら影響を及ぼせない。
多少
回避を選んだレヴィンの判断が正しかった。かつてのシルティであれば同じく回避を選んでいただろう。しかし、形相切断に至った今となっては、つい。
斬れるならば斬るのがシルティという娘である。
「ぐっ、ご、ぼっ……」
左右からの圧力が強まった。物性是正の影響で、シルティは水に呑み込まれているのではなく、水に
窒息は竜をも殺す万能の手段だ。呼吸がままならなければ生命力の作用も弱まる。
即座に魔術『
水中で太刀を振るうのも久しぶりだ。船が沈没して海原を漂っていたとき、家宝〈
シルティは両の手首を強引に捻った。〈永雪〉の切先が滑らかに翻り、身体の左面を押し潰す透明を斬り開く。さらにそこへ新たに四枚の飛鱗を滑り込ませ、水塊を雲に戻す気概で
すると、圧力が嘘のように消えた。しっかり細切れにすれば物理的な脅威ではなくなるらしい。
魔法『冷湿掌握』が水を操作する際の物質的出力は対象の質量に大きく依存する。シルティはひとまずそう決めつけた。
支えのなくなった方へ倒れ込むように重心を傾け、左手を地面に。手で床を跳ねると同時に両足を曲げ、コンパクトな側転を披露しつつ、飛鱗を追加で二枚射出。ぐるりと回転する視界の中で螺旋を描かせ、シルティに追い縋っていたもう一つの拳を千々に刻んだ。
側転を終え、着地。
頭を振り回し、乱暴に脱水。
使い物にならなくなった
吐いて、吸って、一度の呼吸で
改めて、
恋慕にも似た視線を
【なんだお前は。
やはり、苛立っている。
【私たちを殺しますか】
【殺す】
【ですか】
理由はいまいちよくわからないが、あの
殺したくは、ないのだが。
せっかく、こうして殺しに来てくれているのだ。
「ふ。ふふ。んふふふ……」
ならば蛮族として、受けなければ
殺してしまったらそれはそれ。一度出会えたのだからまた出会えるはずだ。殺されるというのもいい。これほど強者、素晴らしい
水の拳から退避していたレヴィンが即座に
見えずとも、シルティの視線や動きから敵の位置を予想しているらしい。
(早くレヴィンにも霊覚器を作らなきゃな……)
家宝〈虹石火〉を回収した
人類種以外で霊覚器の構築を試した例があるかどうかシルティは知らなかったが、
もしもレヴィンが精霊術を習得できたら、間違いなく史上最強の琥珀豹だ。
「んンッ」
シルティは咳払いをし、〈永雪〉の刀身に付着した水の雫を払った。
将来のことを考えるのは楽しいが、今は、目の前の敵のことを考えよう。
「レヴィン、手伝って」
姉からの共闘の申し出に、レヴィンは嬉しそうに牙を剥き出しにした。
といっても、レヴィンが
現状、
「〈
端的に作戦を伝える。
「咥えてて。もしレヴィンが吹っ飛ばされたらそれで雲を斬るから、自力で立て直して。いけるよね?」
レヴィンは自信ありげに唸り声を上げてから飛鱗を咥え込んだ。そして、お尻を振る。根本から垂れ下がった尻尾がぷらぷらと揺れ、後肢に絡みついていた。凄まじく邪魔そうだ。
脱臼を整復している余裕がないことはレヴィンも理解しているだろう。
つまりこの仕草は、尻尾を
シルティは〈永雪〉を振るい、レヴィンの尻尾を根本から斬り飛ばした。露わになった肉の断面から鮮やかな血が吹き出したが、この程度、今のレヴィンにとってはどうということもない。戦っているうちに止まる。生やすのは二十日以上かかりそうだが、これも経験だ。
「よし。じゃ、行こっか」
愛刀〈永雪〉を振るってレヴィンの血を払い、切先を
【私たちはあなたと仲良くしたいと思っています。なので、あなたを殺すつもりはありません。でも、殺すつもりで行きますね。よろしくお願いします】
【なんだお前は】
◆◆◆◆◆◆
お読みいただきありがとうございます。
精霊言語について
今までは『
ひらがなとカタカナしか表現できない上に無駄に読みにくいな、と反省しました……。
今回以降の精霊言語は【敵意はありません】表記にしようかと思います。表現が安定せず、申し訳ありません。
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