第146話 最弱の障壁
一歩目。
両脚に二枚ずつ割り振り、着地。膝を限界まで屈曲させ、慣性を筋骨と関節で吸収する。
計四枚の
二歩目。
同じく四枚を射出し、今度は全て重ね、左脚で踏み潰す。
感覚的には、元の体重で八枚を重ねた場合と大差ない。体重七割減の成果はシルティの想像を遥かに超えていた。
いける。余裕だ。
蛮族の娘はこの上なく嬉しそうな笑みを浮かべ、虹色の豹を視界の中央に据える。
レヴィンは瀑布の向こうで元気に
三歩目。
二枚に減らしてみよう。
右脚で捉え、進路を修正。
いける。全然余裕だ。四枚は慎重すぎた。ああ。楽しい。
シルティは今は亡きかつての
新しい
四歩目。
陶酔と興奮に身を任せ、一枚で挑む。使うのは右胸の〈
煮え滾る灼熱の生命力を革鎧にぶち込み、魔術『
自分の足で身体を支えるのだ。支え切れないわけがない。
私の足がこの程度で壊れるわけがないと確信し、足を
シルティの速度が上がるに連れて、無数の
物凄く邪魔だ。シルティはつい笑ってしまった。いやはやまさか、雲を
まあ、いい。シルティは冷たい食べ物が好物だ。口を開ける。飛び込んできた雲を逃さず口腔へ閉じ込め、咀嚼せずに
止める。
唐竹割り。
誰かがそれに驚いた気がした。シルティはそれを誇らしく思った。
まだ、レヴィンには届かない。
「レヴィンッ!!」
声帯と肺腑と腹筋を生命力で強化したうえで放つ全力の
五歩目。
最後の一歩は殊更に力強く。
太刀を振り下ろした際に生み出した
ああ、と。シルティは不意に納得を覚えた。体重を軽くして、足元を強化して、壊れない足場を渾身で蹴る。ヴィンダヴルが伝授してくれた
なるほど。
くっそ楽しい。
黄金色の被毛が見えた。
もう飛鱗はない。左腕を全力で伸ばす。
ぎりぎりで――届かない。
シルティがそう判断すると同時に、鞭のように振るわれたレヴィンの尻尾が手首に巻き付いた。
「ははっ!」
素晴らしい。賞賛の代わりに笑みが漏れた。毛並みのいい鞭を握り締め、容赦なく全力で引っ張る。手のひらを通して悍ましい感触が伝わってきた。おそらくレヴィンの尾椎のどこかで脱臼が起きたのだろう。
気にしている余裕はない。空中で力任せに尾を引っ張りつつ、愛刀〈永雪〉を納刀。引き寄せたレヴィンの〈冬眠胃袋〉を自由になった右手でがしりと掌握する。尻尾を手放し、〈冬眠胃袋〉を左手に持ち替え、開いた両脚で挟み込むようにレヴィンにしがみつく。下半身の筋力を振り絞って身体を捻り、レヴィンとの位置を入れ替えつつ、再び〈永雪〉を抜刀。
息を目いっぱいに吸う。
「でかくて
指示と同時に振るわれる
二度の
六角柱の部屋を隙間なく並べる構造は、実際に使われている珀晶の体積に対して、完成する見た目の体積がやたらと大きい。
レヴィンは感覚と知性の両面から理解した。蜂たちは、限られた素材でより大きな巣を作るために、建造する部屋を六角柱にしているのだ。
これはつまり。
珀晶で一定面積の壁を生成する際、六角形の輪を充填する網のような構造を取れば、その強度を最も
小豆一粒ほどの間隔を開けて平行に並べられた六角網。その数、実に三百枚。
シルティはレヴィンを庇いながら緩衝領域へと突っ込み、ほとんど一瞬で三百枚を貫通した。
前回は適度に硬い障壁への衝突と粉砕を繰り返す段階的で激しい減速だったが、今回は考えうる限り最も脆い珀晶を執拗なほど緻密に重ねている。
全然痛くない。
頭のどこかで若干の物足りなさを訴える
これを愚直に繰り返すこと、十回。三千枚強の網を突き破り、フェリス姉妹の放物運動は充分に減速した。
「っ、と」
最後にレヴィンが強固で広い足場を生成し、二人揃って綺麗に足から着地する。
即座に自己診断。
手足、首、肋骨、腰、臓腑、全て問題なし。今から
レヴィンはどうか。見れば、脱臼した尻尾が根元からだらりと垂れ下がっており、痛々しい。だが、前回のように内臓を痛めた様子はなく、ふらついてもいない。四肢で足場をしっかりと掴み、ぶるぶると頭を振るって被毛が捕まえた水滴を飛ばしていた。
諸々の状況は違うとはいえ、第一回捜索時の墜落とは随分な違いだ。それだけ珀晶による緩衝が
「ふふふ。さすがっ」
短い称賛を受け、レヴィンが耳介をぷりんと震わせた。いつもならば尻尾をぴんと伸ばしているところだが、今は痛い。
シルティもレヴィンも無事。減速しているうちに置き去りにしていた飛鱗たちも漏れなく回収できた。今回の放物運動で犠牲になったのはシルティの〈冬眠胃袋〉だけか。吹き飛ばされた時に足場に降ろしていたので、そのまま行方不明になってしまったのだ。あれはもうどうしようもなかった。多分見つからないだろう。
買い直さなければ。
ああ、またお金がかかる。
さらに言えば、シルティが使っていた低級の〈冬眠胃袋〉は狩猟者たちからの需要が非常に高く、あればあるだけ売れていくといっても過言ではないので、お金だけでなく時間もかかる……。
それはそれとして。
「レヴィン。何が起きたかわかる?」
周囲を警戒しつつ、尋ねる。
シルティは前へ吹き飛ばされたが、レヴィンは後ろへ吹き飛ばされていた。おそらく不明の攻撃は姉妹が立っていた座標の中間で炸裂したはず。であれば、レヴィンが攻撃を目視している可能性は高い。
レヴィンは低く長く唸り声を上げた。今のレヴィンは人類言語をほぼ完全に理解できるが、声帯の構造上、その喉から発せられるのは人類言語ではない。また、幼い頃に母親と死別したレヴィンは、野生の琥珀豹たちが操るであろう琥珀豹言語と呼ぶべき言語体系からも切り離されてしまった。
ゆえに、レヴィンが発するのは『レヴィン言語』とでも呼ぶべき独自のもの。
同種はおろか他の誰にも理解されない、非常に曖昧な原始的な言語体系なのだが……当然、シルティには理解できる。
曰く。
雲が降ってきた、とのこと。
周囲を覆い隠す濃密で不透明な乳白色の雲。雲の正体は微細な水滴や氷晶、つまり、純然たる質量の塊だ。これが意外と硬いのは先ほど体感した通り。
シルティは霊覚器を全開にし、前後左右上下、あらゆる方向へと視線を飛ばした。吹き飛ばされる瞬間、虹色の光は見えなかったが、おそらく魔法による攻撃だ。
そして、見つけた。
シルティの右上方。直線距離で二十歩ほどの位置。
どこか青の主調の強い、虹色の揺らぎ。
拳大の球形に圧縮された、小さな洪水が、こちらへ明確な
「ようやく会えた……」
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