第144話 銀露



 三十五日後。

 フェリス姉妹は青空にぽつんと浮かび、仮眠を取っていた。

 今回で累計九回目の水精霊ウンディーネ探索旅行だ。

 水精霊ウンディーネを探し始めて既に三か月弱。十日間地面から離れ、三日間の休息と準備、という日程を繰り返している。もはや空中に居るのが日常だった。


 季節も巡り、今は晩春。夏が近くなったおかげか空に大きな雲が浮かぶ回数は増えたのだが、同時に降水量も増えてしまったので、相変わらず本当の意味で水精霊ウンディーネを探せる時間は長くない。

 言葉を変えればそれは、暇な時間が長い、ということである。

 晴天時、雨天時、そして夜間。本当にただただ長い。休息するにも限度がある。

 暇を持て余した姉妹はこの時間を訓練にてることにした。といっても、足場の上で暴れ回っていると万一ということもあるので、あまり身体を動かさずにできる訓練内容である。


 レヴィンの次なる段階。

 珀晶に強化を乗せることを目指す。

 最終的および理想的な目標を挙げるとするならば、それは距離を超越した遠隔の強化の習得だ。だがこれを実現するには、身体から物理的に離れた物体を心の底から自分の身体の一部と見做せなければならない。

 シルティがアルベニセで知り合えた人物の中でも突出した強者二名、マルリルとヴィンダヴルが共に至れていないということからも、どれほど困難な技法であるかがうかがい知れるだろう。正真正銘、狂気の技なのである。


 、現在のシルティは遠隔強化の境地に踏み込んでいると言えるが、これは鬣鱗猪りょうりんイノシシの『操鱗聞香そうりんもんこう』という、自身の性癖刃物愛好と奇跡的なまでに相性のよい魔術を用いているからに過ぎない。薄氷の上に成り立つ一時的な到達だ。今のままでは革鎧を失った瞬間に遠隔強化も失ってしまう。

 もちろん、将来的には飛麟以外の刃物、投擲したナイフなどにも強化を乗せられるようになりたいとシルティは思っているので、マルリルに教わったトスジャグリングを無心で続けてみたり、とにかく投擲の精度をあげようとしてみたり、自分の生き血にひたしたナイフを投げてみたり、強化を乗せた実績のある〈瑞麒みずき〉を魔術を介さずに手で投げてみたり、時間を作ってはいろいろと試行錯誤を繰り返しているのだが……今のところ、結果は芳しくなかった。


 だが、過去琥珀豹に挑んできた数多あまたの狩猟者の証言からすると、年齢を重ねた琥珀豹たちはそんな狂気の極致に到達していることが珍しくないようだ。これは猩猩の森だけでなく、他の地域に生息する琥珀豹でも同様である。

 ちなみに、ある珀晶が強化されているかどうかは、霊覚器を構築していない人類種でも血肉で受け止めればはっきりわかるらしい。己の肉体に食い込んだ異物に他者の生命力が導通していれば、それなり以上の不快感を覚えるからだ。耳の穴に注いだ朱璃しゅりに他者の生命力をぶち込まれると凄まじい苦痛を覚えることと同様の理屈だろう。


 野生の琥珀豹たちがどういった経験を積み、自然と遠隔強化に至るのか、シルティには想像もつかない。だが、レヴィンならば確実にその高みまで到達するという確信があった。

 小さく強靭な珀晶を生成できるようになればレヴィンの戦闘能力は格段に向上する。特に、大量の粉末を空中に固定する霧状珀晶目潰しなどは尚のこと凶悪な性能を発揮できるようになるだろう。

 もっとも、レヴィンは遠隔どころか接触している珀晶に強化を乗せることもまだできていないので、まずはそこからだ。


 さて、珀晶への強化を習得するには、どういった訓練が効果的だろうか。シルティは悩んだ。

 武具類であれば、とにかく寝食と闘争を共にし、その存在がそばにあることが自然である、と身体に叩き込むのが蛮族の定石セオリーなのだが……残念ながら、琥珀豹の珀晶は動かせない。


 そこでシルティは、レヴィンの前肢を半ばで斬り落とし、欠損部を珀晶で精密に補ってみるという方法を考案した。前肢型珀晶の内部にくだを張り巡らせて生き血で満たせば、それは視覚的にも生命力的にもレヴィンの身体の一部となる、と自信満々に強弁したのだ。

 同時に片方の眼球を傷付け、前肢の傷口に香辛料をちょっとばかり振りかけておけば、致命的な眼球と激痛を発する前肢という二つの負傷を生み出せる。意識的な再生促進の訓練も並行して行なえるだろう。


 レヴィンも非常に乗り気だった。

 だが、冷静に考え、やめた。さすがに生命力の枯渇が心配になったからだ。切り傷や擦り傷ならともかく、失った骨の再生はかなり重い。

 この『第一案』はまた地上で実施することにして、空中ではもっと穏便な『第二案』で訓練を行なっている。



 その日、仮眠から目覚めたシルティはまず空を見渡し、溜め息を吐いた。


「うぅん……雲ひとつないなぁ……」


 昨日から、憎らしくなるほどの晴天。

 つまり、本日も暇である。


「レヴィン」


 シルティが声をかけると、朝のストレッチと毛繕いグルーミングをしていたレヴィンがのしのしと近付いてきた。そのまま、姉の腹部へズドンと頭突きを見舞う。もはやじゃれつきではなく暴力と表現する方が正しい威力だ。シルティはしっかりと腹筋を引き締め、レヴィンのおはようを受け止めた。

 しばらくの間、レヴィンはシルティの革鎧をぐりぐりとひたいで押しにじり、喉で遠雷の音色を奏でていたが、やがて満足したのか身体をくるりと反転。ぴんと立てた尻尾でシルティの首筋を撫でながらするりと離れていく。

 普段ならば頭突きののちに首筋や脇腹をり付けてくるのがお約束なのだが、海狗の外付け防寒具の毛皮を着用しているせいなのか、空中では頭突きのみで終わってしまう。

 そこはかとない寂しさを覚えつつ、シルティは右腰に装備しているナイフを引き抜いた。


 飴色の握りグリップを持つ、剣鉈けんなたのような大振りのナイフ。空での触れ合いを通じて仲を深めたシルティは、これに〈銀露ぎんろ〉と名前を付け、日々思う存分に愛を注いでいた。由来は、七回目の旅路でレヴィンの高度順応を終えた朝、引き抜いたナイフの刀身ブレード朝露あさつゆにしっとりと濡れ、朝陽を浴びて白銀色に輝いていたことから。

 遮るもののない世界、吸い込まれそうな蒼空を背景に、洗練された美しさを主張するあでやかな刃。シルティはその光景に目を奪われ、レヴィンにお尻を叩かれるまでうっとりとほうけていた。

 ちなみに、〈銀露ぎんろ〉の刀身に使われている鋼は鉱人ドワーフたちの知恵と経験から生み出された不銹ふしゅう合金の一種である。硬く、ねばく、そして滅多なことではびない。相応に高価だが、過酷な環境で使用されることの多い狩猟者用装備の素材として広く好まれていた。朝露はおろか、魔物の血に濡れたまましばらく放置しても心配は無用だ。もちろん、定期的な手入れは必要だが。


「じゃ、今日もやろっか。どっちの手にする?」


 シルティが促すと、レヴィンが前肢をぴたりと揃えた三つ指エジプト座りの姿勢を取り、そこから右前肢を持ち上げた。手首を返し、肉球を空へ向ける。シルティはレヴィンの手首まで覆っている防寒具のそでをたくし上げ、肘関節より先を陽光にさらすと、袖口を短い紐で軽くくくって固定した。

 前腕の被毛を流れに沿って撫で付けて毛並みを整えると、〈銀露〉を構え、躊躇なく一閃。

 音もなく振るわれた〈銀露〉の切先がレヴィンの掌球しょうきゅうに滑り込み、無抵抗のまま通り抜ける。斬り込んだのはシルティの指の幅で一本分ほど。浅く切開された肉球から真っ赤な血が噴き出すより早く、レヴィンが魔法『珀晶生成』を行使する。

 右前肢の手首から先をぴったりと覆い尽くす手袋のような珀晶が生成された。厚みはなめした豚の革程度だ。肉球からの出血が手袋と肉体の接面にみ込み、黄色透明な珀晶がじんわりと赤みを帯びる。


「ん、よし。手袋これ作るのも上手くなったね」


 レヴィンはどこか自慢げに目の上の洞毛ヒゲを動かしつつ、両の瞼を完全に閉じた。視覚を封じて触覚に集中。既に何度も同じことをしているので訓練の流れは共有済みである。


「触るよー。まずは、親指ね」


 シルティは〈銀露〉のみねを使って珀晶の手袋越しにレヴィンの狼爪ろうそう(親指)をノックした。コン。硬い物体同士が弱く衝突する澄んだ音が響く。


「小指。中指。人差し指。中指。親指。小指」


 気の赴くまま、シルティはレヴィンの指球しきゅうをコンコンと叩いていった。音が鳴るということは振動しているということだ。当然、この振動は接触しているレヴィンの前肢まで届いている。

 これが、シルティの考案した強化習得法の第二案だった。手袋のように生成した薄い珀晶に対し、位置を宣言しつつ刺激を与え、それをひたすら肉体に認識させる。

 今は〈銀露〉でのノックだが、徐々に与える衝撃を弱めていき、最終的には指で撫でるような僅かな接触すら感じ取れるようになって貰いたい。

 繰り返すうちにレヴィンが手袋と皮膚を混同してくれればしめたもの。事前に肉球を斬ったのは、珀晶と肉体の間に血を含ませ、生命力の導通性を高めるためである。


 もちろん、琥珀豹の訓練法など確立されているわけもないので、この手法が有効かどうかは定かではない。全てが手探りだ。


「中指」


 シルティは第三指球中指を宣言しつつ、第四指球薬指を叩いた。

 レヴィンの耳介がぴくんと羽ばたき、尻尾の先端が足場をぺしりと叩く。


「んふふ。せーかい」


 時たま嘘の宣言を混ぜるのは、ちょっとした遊び心である。


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