第142話 雪辱



 重く鈍い衝撃音。

 宵闇鷲の八本の鉤爪が海狗オットセイの防寒具を貫通し、レヴィンの臀部に深々と突き刺さった。

 瞬間、轟くような咆哮を上げ、レヴィンが身をよじる。素晴らしい反応。絶大な筋力に任せて下半身をひねり、尻に取り付いた異物を足場に叩き付けた。

 頑丈に作っていたおかげで足場は無事だ。しかし、宵闇鷲も無事だ。

 静穏性をかなぐり捨てた羽ばたきにより莫大な推力と揚力を生み出し、レヴィンの身体を強引に引っ張る。さすがに持ち上げることはできないようだが、引きることはできるようだ。


 敵の正体も定かでない中、レヴィンは冷静に自らの臀部に意識を向けた。

 硬い杭のようなものが八本突き刺さり、肉を掴んで斜め上方へと引っ張り上げている。

 痛い。

 痛いは痛いが、全然、ぬるい。

 姉との近接格闘レスリング両後肢りょうあしを根本から圧し折られた時の方がよっぽど痛かった。このぐらい、どうということはない。


 レヴィンは鉤爪を剥き出しにした右後肢を暴れさせ、見もせずに襲撃者を蹴り上げた。一撃、二撃、散発的に命中する。だが、どうにも応えが軽い。威力が正しく伝わっていない。体勢の悪さも原因ではあるが、なにより、敵がやたらと軽くて硬いせいだ。

 これでは殺せない。このままでは殺される。殺せるようにしなければ。

 レヴィンは即座に前肢で右頸部をこすり、ハーネスの脱着機構を操作して〈冬眠胃袋〉を切り離した。体重が軽くなったせいで引き摺られる速度が上がる。だが、全身の可動域が広がった。身体が円を描くほどに背中を丸め、前肢を伸ばし、自らの臀部へ剥き出しになった鉤爪を叩き付ける。

 圧し折ってやるつもりだった。

 だが、甲高い金属音と共に、自慢の鉤爪が上滑りした。

 硬い。なんだこの杭は。


 そこで、レヴィンはようやく襲撃者の正体を認識した。

 見覚えのある巨大な鳥。かつて己を震え上がらせた、空の頂点捕食者。

 宵闇鷲よいやみワシ

 怒りか、あるいは喜びか。煮え滾るような生命力の奔流がレヴィンの全身を隅々まで満たし、観戦するシルティの霊覚器が眩むほどの輝きを見せた。

 レヴィンは宵闇鷲の魔法をよく知っている。くちばし、鉤爪、あしゆびの鱗、そして羽軸うじく。全身を超常金属宵天鎂ドゥーメネルよろう『鷲鎂佩帯しゅうびはいたい』。奴らは飛行動物としては破格の硬さを誇る魔物だ。特にあしゆびの鱗は分厚い。裂肉歯おくばでごりごりと噛み砕くならともかく、鉤爪を叩き付ける程度では通用するはずもない。

 レヴィンは即断した。

 生半可な攻撃は効きそうにない。だから、攻撃をしよう。


 迸る生命力をに注ぎ込み、全力で強化。空気を斬り裂き、宵闇鷲の胴体へと叩き付ける。

 生命力の作用によって増強するとはいえ、もともと攻撃用の器官ではない尾は非力だ。今のレヴィンが尻尾で魔物に通用するほどの打撃を放つのは不可能である。

 だが、琥珀豹の尾はとても長い。

 飛行という繊細極まりない動作を妨害することはできる。


 レヴィンは速やかに宵闇鷲の胴体に尾を巻き付けると、羽ばたきの動きを見極め、揚力が生じる方向へと強く引っ張った。不意に背後へ引っ張られた宵闇鷲は、体勢を立て直そうと翼の角度を調整する。重心を前に戻すため、やや後方へ向かって打ち下ろされる翼。当然、頭部は前に来る。

 読み通り。レヴィンはそこを狙った。全身のバネを酷使した左の掌打が宵闇鷲の頸部を的確に捉え、痛烈に弾く。抱き付いてくるエミリア・ヘーゼルダインの顔面に見舞う殴打とは比べ物にならない威力だ。これなら表面がいくら硬くとも関係ない。

 打ち据えられた頭部が振り子運動を強制され、羽ばたきが一瞬止まり、宵闇鷲の巨体がぐらりと傾いた。握られたままの臀部の肉がブチリと千切れ、防寒具の内側で鮮血が噴き出す。


 両後肢を伝う赤色が足場を染めるより早く、レヴィンはさらに尾を操った。強引に獲物を引き寄せ、鉤爪を剥き出しにした右前肢を頭部へ叩き付ける。

 しかし、一方的な殴打は叶わなかった。瞬時に復帰した宵闇鷲がくちばしを大きく開け、これを迎撃。肉食鳥類特有の頑丈な鉤嘴かぎはしがレヴィンの掌球しょうきゅうに深々と突き刺さり、鋭利なスプーンのように肉を

 肉ごと骨を齧られる硬い感触。引き延ばされた主観の中、レヴィンは前肢の損傷具合を冷静に自己診断した。決して浅くはない。だが、こちらまた宵闇鷲に痛手を与えている。鉤爪の一本が閉じられた瞬膜を貫通し、宵闇鷲の左眼球を完全に潰していた。

 痛み分け。

 充分だ。

 激痛からか、宵闇鷲が甲高い悲鳴を上げ、ぐにゃりと身体をよじって暴れる。明らかにレヴィンから逃れようとする動き。

 蛮族レヴィンはこんなことでは怯まない。

 こちらに痛みを与えられる強い相手を目の当たりにすれば興奮する。彼女はそういう道徳の下で育ってきた。


 左後肢を踏ん張る。負傷からか不完全になったが、体重の大部分を右前肢へ集約することに成功。苦痛を糧に生み出した膂力を以て強膜輪きょうまくりんを強引に砕き、鉤爪を力ずくで眼窩の奥に抉り込んだ。

 互いの凶器が互いの肉に食い込み、前肢と頭部が強固に噛み合う。

 まだ足りない。

 レヴィンは間髪入れず左前肢を叩き付ける。狙いは宵闇鷲の右翼の下、あしゆびよりも遥かに柔らかい脇腹だ。宵天鎂ドゥーメネルの羽軸を両肢の力で無理やり圧し折り、その下の皮膚に鉤爪を到達させる。

 正真正銘、殺すための抱擁。

 これでもう、死ぬまで逃がすことはない。

 指の先で味わう血肉の感触。レヴィンの視線に嗜虐しぎゃくの色が混じった。

 暴れ回る宵闇鷲の動きを力任せに抑え込む。顎を大きく開け、両前肢を屈曲。露わに細い頸部に齧りつき、深く深く深く、明確な殺意を持って牙を突き込んだ。


 美味。

 口内に溢れかえる血の味に、レヴィンは一瞬、恍惚とした。その脇腹に、宵闇鷲の鉤爪が突き刺さる。硬く長い異物が筋肉に潜り込んだ後、宵闇鷲が死に物狂いの握力が発揮。傷口をむごたらしく拡張した。

 獲物のものではない血の味がレヴィンの思考を冷却する。

 真正面からの取っ組み合いなのだ。こちらの牙があちらの首に届くということは、当然、あちらの鉤爪はこちらの腹に届く。恍惚としている場合ではない。

 レヴィンの身体に更なる生命力が滾り、頸部や肩部の筋肉がぼこりと隆起した。ギリギリと顎を噛み締め、獲物の気道を押し潰しつつ延ばしてじる。嘴が食い込んだままの右前肢を全力で固定、確固たる支点と見做みなし、最後に、自らの頭部をぐりんと全力で旋転させた。


 生木の枝がじ折れるような、悍ましい音が響く。

 宵闇鷲の身体が一度だけビグンと跳ね、そして動きが止まった。頸椎が破断したのだろう。致命傷だ。だが、レヴィンの暴力はなおも弱まらない。興奮のままに獲物を押し倒し、完全にマウントを取ると、顎を開いて頭部を放す。いまだ嘴が食い込んだままの頭部ごと右前肢を持ち上げ、大きく振りかぶり、一切の躊躇なく叩き付けた。

 硬い足場と前肢に挟まれ、林檎リンゴが砕けるような音と共に宵闇鷲の頭蓋が著しく変形する。同様の殴打をもう一度。もう一度。

 三度に亘る執拗な頭部圧潰あっかい。宵闇鷲のくちばしが根元からげ、頭部と右前肢の連結が外れる。宵闇鷲は力なく横たわり、びんと伸ばした両脚を僅かに震えさせていた。

 どう見ても、意識的な動作ではない。宵闇鷲の心臓はまだ動いているかもしれないが、これはもう、死んでいると言っても支障はないだろう。


 レヴィンは荒くなった呼吸を整え、高らかに勝鬨の咆哮を上げた。

 だらりと垂れ下がった鷲の頭部に改めて顔を近付け、ぶふーっと大きく鼻息を吐き出し、ベロンと舐めすくって口内へ。

 首をぐりんと傾け、肉の位置を調整して、頭蓋を裂肉歯おくばで一息に噛み砕いた。

 という咀嚼音を立てながら、かつての恐怖の対象を捕食し始める。


「ちょ」


 これに慌てたのはシルティだ。


「レヴィン、待った待った。刺さる! 吐いて吐いて!」


 勝鬨を上げた辺りまでは微笑ましく観戦していたのだが、まさかそのまま食べ始めるとは思わなかった。琥珀豹の消化器はらわたでは宵天鎂ドゥーメネルを消化できない可能性が高い。特に羽軸はほとんど針のようなものなので、下手をすると内臓に刺さり、そのまま体内に残ってしまうかもしれなかった。

 シルティは即座に足場を跳び移り、レヴィンの咥え込んだ宵闇鷲の死骸を引っ張る。すると、レヴィンは腹の底に響く低い唸り声を上げて抵抗する様子を見せた。咬合力を緩めず首を振り、シルティの手から死骸を取り返そうとする。

 近頃、身体を動かす狩りをしていなかったせいだろうか、ちょっとばかり本能が爆発してしまっているようだ。


「取らないよ。落ち着いて?」


 レヴィンの唸り声が収まる。だが、顎の力は弱まらない。


「レヴィン。宵闇鷲の羽根はただの羽根じゃないでしょ。食べちゃだめ。お腹痛くなるよ」


 これでようやく冷静になったのか、レヴィンがゆっくりと顎を開いた。シルティはぐちゃぐちゃに砕けた宵闇鷲の頭部を引っ張り出し、苦笑しながらレヴィンの鼻鏡をつっつく。


「お腹空いてた?」


 レヴィンは顔を背けて逃げた。そっぽを向いたまま、舌を出し入れして口内の羽毛を排出し始める。なにやら気恥ずかしそうな様子だ。

 おそらく本的には、ができない子供のような振る舞いだった、という認識なのだろう。


「ふふ。大丈夫だよ。かっこよかったよ?」


 シルティは笑いながらレヴィンの背中を撫でた。楽しい殺し合いを制したあとに興奮が収まらないのは仕方がない。シルティにも覚えがある。例えば、己の振るう刃が初めて形相切断に至ったあの日。削磨狐みがきギツネの死骸の横で、シルティは随分と長い間、んふふふふと笑い続けていた。

 己の強さに正しく酔うのは強者の特権であり、戦士の素養だ。決して恥ずかしがることではない。


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