第141話 再来
五十二日後。
フェリス姉妹は雲の中に居た。
幸いにも今回の雲の内部は安定しており、高さの割に風は穏やかだが、全身がしっとりと湿気を帯びているため防寒具があってもやはり寒い。
(んん……雲が濃いのは……あっち? かな? もー、ぜーんぜんわからん……)
射出した両胸の飛鱗〈
直線距離で十五歩も離れれば視界が不明瞭になってしまうほどに濃密な雲の中。前後左右上下、自身の周囲が全て真っ白に染まっている。肉眼でも霊覚器でも、視界に映る動物はレヴィンのみだ。太陽の光も散乱されてしまうため、方向感覚にいまいち自信が持てなかった。
「レヴィーン! あっちに行ってみよっかー!」
腕での方向指示、そして叫ぶような宣言の
シルティが軽やかに跳躍、危なげなく着地し、その後ろをレヴィンがぴょんと追従する。もう一度先行させた飛鱗で雲を切開し、足場が作られ、着地。さらに前方へ向かう。
淀みなく繰り返される跳躍と切開、そして人工的な
雷斬りおよび墜落による負傷の影響で、第一回
空へ登り始める前、シルティはとにかくレヴィンの生命力を節約しなければならないと執念深く準備していたのだが、いざ登ってみるとレヴィンとしてはかなり余裕のある旅路だったらしい。レヴィンの生命力の量と回復力は、シルティが思うよりもずっと上の段階に到達していたようだ。
第二回以降はレヴィンの生命力と安全を考え、千段目以上の高さでは足場の体積を三割増しに、千五百段以上で六割増しに、そして千八百段以上では十割増しにしたところ、無事に二千段ほどの足場を登り切ることができた。第一回から数えれば五十日以上も経過した今、レヴィンの生命力もさらに濃密になっている。もう少し体積を削っても大丈夫そうだ。わざわざ削る必要もないが。
なお、マルリルとの約束があるためあれ以来雷斬りには挑んでいない。旅路の最中に雷の気配を感じたら、レヴィンとくっついてやり過ごしてきた。家宝〈
(うーん……なんにも居ない……)
残念ながら
運搬できる
当たり前だが毎日が曇り空というわけではないので、気持ちよく晴れ渡った空にポツリと浮かびながらひたすら時間が過ぎるのを待つ、ということも多かった。立派な雲が見えたとしても物理的に遠過ぎれば突入はできない。本当の意味で
ちなみに、今日は地上を発ってまだ三日目だが、明日の朝から帰路に就く予定である。なぜなら
(雲に来るのも果てしなかったけど、来てからも果てしないなぁ……)
まだ探し始めてたったの五十日だが、シルティは霊術士が少ない理由というものを深く実感していた。第一段階である精霊の耳の構築が肉体的にも精神的にも恐ろしく
幸いにも、今回の旅路では昨日の昼頃から巨大な層積雲に包まれることができた。しばらくは晴れそうにない。絶好の機会である。シルティは霊覚器を全開にして周囲へ視線を飛ばしつつ、可能な限りの速度で雲の中を駆け回る。
だが残念ながら、精霊種はやる気や気合で引き寄せられる
なんの成果のないまま時間が過ぎてゆき、やがて雲が薄まり始める。視程距離が幾分回復し、東の地平線から月の
今回も空振りだったな、とシルティがレヴィンに大休憩を提案しようとした、その時。
シルティの感覚が、何かを捉えた。
直感に従い、視線を左上方へ。
薄らいだ淡い白に透けて見えるのは、凄まじい速度で飛来する巨大な黒いなにか。
(んッ)
瞬間的に引き伸ばされた主観の中で、シルティは冷静に襲撃者の姿を観察した。
巨大な猛禽だ。翼開長はシルティの七割増しほど。威圧的な両脚は目を見張るほどに太い。屈強な
(おおっ。久しぶりだ)
間違えようもない。嘘みたいに軽くて硬い超常金属
まさかこんな高空を飛んでいるとは。いや、彼らの体重の軽さと翼面積の広さを考えれば、このくらいの高さはまだまだ余裕なのかもしれない。
調べた限り、宵闇鷲は人里離れた海岸に生息する魔物である。シルティの現在地は港湾都市アルベニセのほぼ直上。彼らの生息域からすれば結構な距離があるはず。
長距離を移動するために高所を飛んでいる最中、偶然にもシルティたちを発見したので、行き掛けの駄賃とばかりに襲いかかることにした、というところだろうか。基本的に鳥は雲付近の飛行を避けるものだが、生命力の作用により素晴らしい身体能力を発揮できる魔物は、目的さえあれば雲を突っ切ることすら厭わない。
しかし、なんというか。
(ちっちゃいな)
前に斬った個体よりかなり小さい。年齢の違いかとも思ったが、この高さを飛べるならば成鳥であることは間違いないだろう。なら
宵闇鷲はシルティにとって非常に思い入れのある相手である。今は亡き鎌型ナイフ〈
甘美に殺し合った記憶も昨日のことのように思い出せる。
最初の入り江を出発して海岸線を辿り始めた初日、幼いレヴィンを狙って上空から襲来してきたのを返り討ちにしたのだった。
シルティの口元が誇らしげに緩む。
私はあの時よりも遥かに
かつては襲撃に木刀を割り込ませることで精一杯だったが、今はこんなことに思考を巡らせるほどの余裕があるのだから。
主観的にはのろのろと動く宵闇鷲。進路から察するに標的はシルティではない。食欲の対象となったのは今回もレヴィンだ。
おそらく既に宵闇鷲が好んで狙う大きさからは外れているレヴィンだが、高所は有翼種たちの独擅場。平時は狙わないような大型の獲物であっても、岸壁や急斜面に居れば積極的に襲いかかる。
賢い彼らは知っているのだ。翼を持たぬやつらは高いところから蹴り落とせば簡単に死ぬのだと。
太い両脚がそろりと揃えられた。覚えのある予備動作。蹴りが来る。
(ふふ)
飛鱗を割り込ませてレヴィンを守ることは容易い。
だがシルティは、敢えてこれを見守ることにした。
次に宵闇鷲と遭遇するようなことがあればレヴィンに任せる。これは以前から取り決めていたことなのだ。
かつてレヴィンはこの黒い
ここに居る限り、レヴィンはほとんど魔法を使えない。昼間に比べれば随分と希薄になったとはいえ、雲の中は琥珀豹という魔物にとって非常に過酷な環境だ。
だからこそ
望んでもなかなか得られない、貴重で美味しい戦闘経験となるだろう。
シルティが見たところ、レヴィンはまだ襲撃者に気付いていない。おそらくこのまま一撃を貰うことになる。〈冬眠胃袋〉を背負っているおかげで脊椎を折られることはなさそうだ。攻撃を受けるのは、〈冬眠胃袋〉か、お尻か、後肢か。レヴィンの肉体も随分と頑強になっているので、ちょっと下半身を蹴られたぐらいで死ぬことはあるまい。まぁ、鉤爪で毛皮を貫かれるだろうし、筋肉も無事では済まないだろうが。最悪、骨も折れるかもしれない。
だからこそ、最高に
鉤爪が食い込んだ激痛に耐えながら、レヴィンが冷静に相手を殺せるかどうか。楽しみだ。
もちろん勝利を収めるのが最良だが、敗北は敗北で素晴らしい糧となる。
物質の眼球と精霊を捉える眼球、シルティは自身の備える二種の視界を全力で凝らし、わくわくしながら妹を見守った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます