第139話 正立像式望遠鏡



「レヴィンもそう思う?」


 ふいごを勢いよく吹いたような唸り声には、肯定と、明らかな悔恨かいこんが込められていた。

 シルティとレヴィンはかつて、公衆浴場の手桶を使い、生成済みの珀晶を水中に沈めてから消滅させるとどうなるのか、という実験したことがある。形を失った珀晶は水中で同程度の体積の気泡となり、水面へと浮かび上がってきた。つまり、珀晶の材料は正真正銘の空気なのだ。『珀晶生成』は珀晶と呼ばれる黄色透明な物質を空気中に生成できる魔法と言われているが、より厳密に表現するならば、空気を任意の形状に固めることができる魔法と言うべきかもしれない。


「くそう……。なんで登る前に思い付かなかったんだ。私の馬鹿め……」


 空疎な素材を使えば完成品が脆くなるというのは、シルティにとって非常に素直に納得できる理屈である。少し前から感覚でわかるほどに空気が薄かった。であれば、珀晶が脆くなってしまうのも当然というもの。


「……と、いうか。これはちょっと……まずいかな」


 この空への旅路は、シルティとの模擬戦を俯瞰視点で観戦していたレヴィンを見て、金鈴きんれいのマルリルが発案したものだ。シルティはその場で実現性ありと判断したが、琥珀豹の協力が必要な手段である以上、まず間違いなく世界初の試みだろう。当然だが、この手段で水精霊ウンディーネに出会える可能性がある高さまで辿り着ける保証などない。


 空気の希薄さが珀晶に与える影響が単に強度低下だけならば、限度はあれど、それを見越した強度で生成すれば対応可能だ。生命力を消耗する速度は上がるが、小休止と大休憩の頻度を調整すればいい。最低でも、姉妹が同時に乗って破損しない強度の仮眠室が生成できれば、食料が底を突くまでは一段ずつ登っていくことはできるのだから。

 だが、空気が希薄になったことで生成可能な体積が著しく減少したり、維持時間が短縮されるようであれば大問題だ。体積不足で仮眠室の生成が不可能になる、あるいは長時間の維持が不可能になれば、充分な休息が取れず生命力の差し引きが負に傾く。そうなればこの旅路自体を白紙に戻し、アルベニセ近辺で水精霊ウンディーネと出会うことを諦めなければならない。

 一応、千段目ぐらいの高さであればまだ深刻な強度低下は見られないようだが、おそらくこれではまだ地面が近すぎる。このくらいの高さにも雲が生じることはあるが、地表に近い雲は水精霊ウンディーネが好まないと言われているので、せめて千八百段、欲を言えば二千段は超えておきたいところ。


「うー……ん。もっと上に行っても大丈夫だと思う?」


 悩んだシルティは、主役であるレヴィンに意見を求めた。問われたレヴィンは無言のまま姉から少し距離を取り、空を仰いで仮眠室の天井を消去。動きをびたりと止め、視線を遥か上空へ飛ばす。


(んん?)


 シルティはちらりとレヴィンの視線の先をうかがったが、これと言って気になるものは見えなかった。雲もない青空が広がっているだけだ。

 レヴィンの眼球の性能はすでにシルティのそれを遥かに超えているので、姉には見えないなにかが見えているのかもしれない。そのまましばらく目を凝らしていたが、やがてレヴィンは喉を鳴らしながら小さく頷き、唐突に魔法を行使した。

 宙に生成されるのは、極めて透明で、両側面を球面とした滑らかな円板。

 凸レンズだ。

 続いて、凹レンズが生成される。


「んっ? 望遠鏡作るの?」


 レヴィンは無言のまま尻尾をくねらせて肯定した。

 珀晶の望遠鏡を初めてお披露目したのがおよそ二か月半前。それ以来、レヴィンは天気のいい夜にはちょくちょく望遠鏡を作り、『頬擦亭』の窓を開けては天体観測に臨んでいた。望遠鏡の作成工程はシルティとしても見慣れた風景だ。

 当初は対物・接眼の両方に凸レンズを用いる『倒立像式望遠鏡』しか作れなかったが、今では接眼側を凹レンズにした『正立像式望遠鏡』も作れるようになっている。

 琥珀豹特有の感覚の話なのでシルティにはピンと来ないのだが、レヴィンにとって凹レンズの作成は凸レンズよりもずっと難しいらしい。しかし、狩猟に望遠鏡を使うのならばやはり正立像式の方が好ましいので、マルリルの家で勉強をしながら地道に腕を磨いていたのだ。まともに見える正立像式を作れるようになったのはつい半月ほど前、シルティの精霊の喉が完成する直前あたりである。

 ただ、凹レンズと凸レンズを組み合わせる正立像式望遠鏡は光学的な制限があり、視野が狭い上に倍率もあまり上げられないので、将来的には凸レンズを三枚以上組み合わせる方式で正立像式望遠鏡を作りたいのだとか。

 望遠鏡に詳しいレヴィンとマルリルは二人で大いに盛り上がっていたが、残念ながらシルティにはそういった知識がないので、レヴィンすごいなあ、と子供のような感想と疎外感を抱くことしかできなかった。完全にちんぷんかんぷんである。


 慣れた様子で望遠鏡を作り上げたあと、レヴィンは視線を足元に向け、現在乗っている仮眠室をぴたりと覆うようにもう一つ仮眠室を作成した。僅かに大きさの違う箱を重ねたような二重の仮眠室が出来上がる。さらにレヴィンは右前肢を持ち上げ、ぽんぽんと足元を軽く叩いた。

 今乗っている、つまり内側の仮眠室を消したいという意思表示だ。


「わかった。いいよ」


 シルティが了承するとすぐさま珀晶が消滅した。フェリス姉妹が床板一枚分だけ落下する。下半身を激痛に襲われたシルティは、顔に笑みを浮かべながら小さく唸り声を上げた。ごく僅かな落下距離とはいえ、両脚と骨盤の骨折がいまだ治っていない肉体にとってはなかなか酷な衝撃だ。

 なぜ姉に苦痛を与えてまでレヴィンが仮眠室を作り直したのか。シルティにはわかっている。珀晶のを入れ替えるためだ。

 生成可能な体積の上限を超過した場合、珀晶は大きさとは無関係に年寄りの方から消えていく。既存の珀晶の一部が超過分だけ欠けるように消滅する、などということにはならない。

 例えば上限が『十』だとすると、十の体積の珀晶を作ってから一の体積の珀晶を作った場合、あとに残るのは一の体積の珀晶のみだ。一の体積を十個作ってから二の体積の珀晶を一つ作った場合は、最も古い珀晶が二つ消え、一が八個と二が一個残る。

 先ほどまでの状況では、体積上限を胡麻粒一つ分でも超過した瞬間に足元の仮眠室が丸ごと消えていた。順番を入れ替えたので、今なら消滅するのは対物レンズのみとなる。

 要するにレヴィンは、今から体積上限の測定を行なおうとしているのだろう。どれくらいの距離落下してしまったかは定かではないが、現在の高さでも地上に比べればずっと空気が薄いので、地上と高所で魔法の性能に差が生じるかどうかを把握するには充分だ。

 そして、望遠鏡を作った理由は。


(……なんでだろ?)


 思案してみたが、シルティにはわからなかった。

 望遠鏡は空へ向けられているが、まさか真昼間に天体観測をするためではないだろう。だが、体積上限を測定をするための試料としては形状が複雑で回りくどい。と思っていたら、レヴィンが望遠鏡を覗き込んだ。そのまま、じっと動きを止めている。

 何を見ているのだろうか。

 シルティは仰向けに寝転んだまま首を傾げていたが、すぐに違和感を覚えた。


(ん? なんか、チカチカする?)


 いつの間にやら、シルティの霊覚器精霊の目またたくような虹色の光を捉えている。その虹光は望遠鏡から真っ直ぐに伸びており、木漏れ日や雲間の薄明光線はくめいこうせんにも似た光景を作り出していた。濃密な生命力の塊が空中を走っているのだが、あまりにも高速なため、シルティには光線のように見えているのだ。

 雷の先駆放電ステップトリーダですら辛うじて目視できたシルティでも、明瞭に認識することはできない極限の速度。琥珀豹の魔法『珀晶生成』の経路に間違いない。レヴィンの眼球から繰り返し発せられる生命力が、望遠鏡を通り、遥かな遠方へと消えていく。


「……。んあっ!?」


 その光景の意味するところを理解したシルティは、たっぷりひと呼吸ものあいだ唖然とし、驚愕の声を上げた。


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