第137話 失態



 太陽がもうそろそろ中天に差し掛かるといった頃合。

 もう間もなく五回目の大休憩だ。タイミングもいいので、昼食として少し多めの食事を取るつもりである。

 シルティが千二百四十一段目の足場に乗り、入れ替わりにレヴィンが千二百四十段目の足場に乗った。

 その瞬間。

 びしり、と。

 硬脆さを感じさせる、耳障りな亀裂音が響いた。


 シルティは思考するよりも早く振り返り、視線を下方音源へ飛ばす。

 レヴィンが肩をすくめるような体勢で身体を硬直させ、自らが身体を預ける珀晶の足場を見下ろしていた。

 右前肢を起点として白いヒビが放射状に走っている。

 蜘蛛の巣のような特徴的な亀裂。

 耐えられる重量の上限を超えたのだ。

 シルティの体重には耐えられたが、レヴィンの体重には耐えられなかったらしい。


 破壊された珀晶足場が音もなく空気に溶けて消える。

 支えを失ったレヴィンの四肢が反射的に伸ばされた。

 その肢の動きには何の意味もない。空気を押しのけるだけだ。

 ただ重力に従い、速やかに落ちていく。


 シルティはポカンとした呆け顔を晒しながら、ひと呼吸ものあいだ無様に固まった。

 なぜ落ちる。


「えっ、ちょっ、なんっ?」


 我に返ったシルティは目を見開き、情けなくも困惑した声を漏らした。

 レヴィンは琥珀豹なのだ。足場が消えたとしても新しく作り直せば無様に落下することなどない。もしも足場が割れてしまったら速度が乗る前に足場を作り直すようにと、シルティは地上でレヴィンにしっかり言い聞かせていた。

 だが否定できない現実として、レヴィンは無抵抗のまま刻一刻と落下していく。

 なんだ。

 まさか。

 生命力が尽きたのか。


 妹の危機を目の当たりにし、シルティの主観が引き延ばされる。

 鈍間のろまに流れる時間の中、シルティは霊覚器を全開にし、小さくなっていくレヴィンを視界の中央にとらえた。

 レヴィンの肉体は輝くような虹色を内包している。魔法が使えないほどに生命力が枯渇していればこうは見えない。つまり、魔法は使える。だというのに、なぜ。


 目を凝らす。

 レヴィンと、目が合った。

 つまり、視線が足元に向けられていない。

 真ん丸に見開かれた両目。瞳孔がきゅっと小さく絞られ、顎は半開きになって、そのまま固まっている。

 絵に描いたような混乱の表情だ。


(あ……)


 シルティは全てを察した。

 この体積ならば自分の体重で割れることは絶対にない。そんな確信を持って、レヴィンは足場を生成したのだろう。だが現実には敢え無く罅が入り、空気に溶けてしまった。おそらく魔法に関しては生涯初の致命的な失敗だ。これまで培ってきた自信を粉々に打ち砕かれ、あまりのショックに思考が漂白されてしまったらしい。

 どんな動物でも、絶対の確信を帯びた行動が失敗に終われば、その直後の挙動には大なり小なり淀みが生まれるもの。シルティ自身、蛇角羚羊じゃかくレイヨウに放った必殺の木刀を折られた時や、ヴィンダヴルとの模擬戦で確信の一撃を躱された時などには、やはり同じように硬直してしまった。

 こういった自失状態からの復帰は、やはり経験がものを言う。その点、レヴィンは未熟であると言わざるを得ない。自力で我に返るまでどれほどかかるか。

 重力のもたらす落下は迅速で無慈悲だ。既にかなりの速度を得てしまった。

 もちろん、落下速度が乗ってしまった場合の対応も事前に考えて教え込んでいるのだが、焦燥の最中でレヴィンがそれを思い出せるかどうかは怪しいところ。焦ったまま下手に強固な足場を作ってしまえば、落下の勢いを肉体でまともに受け止めることになり、レヴィンは潰れて死ぬだろう。


「んふふっ」


 これを助けるのはなかなかだ。

 だからこそ燃えるというもの。


 お姉ちゃん、格好いいとこ見せちゃうぞ。


 シルティは躊躇なく足場から飛び降りた。

 革鎧に生命力をぶち込み、魔術『操鱗聞香そうりんもんこう』を発動。十二枚の飛鱗全てを鉛直下方へと操作、シルティの身体ごと革鎧を引き摺り下ろす。

 自由落下を嘲笑うような加速度。保護眼鏡ゴーグル越しの視界に映るレヴィンの姿がみるみるうちに大きくなる。


(これ、ほんとに便利だなぁ)


 シルティの口元には堪え切れない笑みが浮かんでいた。

 飛鱗を革鎧から切り離さずに操作するというのは、ヴィンダヴルとの模擬戦の最中、何か手を打たねば死ぬという臨死に際して閃いた咄嗟の手段である。後日、レヴィンと近接格闘レスリングをしながらいろいろと試行錯誤した結果、シルティはこれに強い将来性を見出し、大いに磨く価値のある技術だと判断していた。

 飛鱗を重ねて足場にする用法と比べると、瞬発的な速度としてはどうしてものろいが、こちらは物のことわりような奇怪トリッキーな動きが可能となるのだ。


 やはり第一に、跳躍の際に身体を下方へ押し付けて滞空時間を短縮できるというのが面白い。シルティがヴィンダヴルにやられたように、大抵の陸棲動物は空中へ投げ上げられてしまうと無防備を晒してしまう。空中で体重を増加させても滞空時間はそう変わらないので、これを覆せる手段があるというのは非常に大きい。逆に、上方へ引っ張り上げれば滞空時間を延長できるので、跳躍で間合いを大きく取る場合にも使える。


 また、体勢が崩れて死にたいとなった際、身体を重心方向へ押し戻して持ち直す、あるいは胴体をすることで無理やり踏ん張りを生み出す、という使い方も面白い。やろうと思えば、地面と脊椎が鋭角を成すような無茶な体勢から、真に腰の入った斬撃を繰り出すことも可能だろう。


 優れた戦闘本能を持つ生物たちは、相対する獲物の体勢が崩れたと見れば即座に踏み込んでくる。シルティだって、相手の体勢が明確に崩れれば反射的に踏み込む。

 つまりこれは、反応が速ければ速いほど引っ掛かりやすくなる、死に体という絶好の餌を用いた釣り殺しである。

 実に悪辣素敵だ。

 革鎧を購入した当時はこんな使い方など全く頭になかったのだが、いやはや、何がどう転ぶかわからないものである。


「レヴィンッ!」


 追いついた。

 左腕を伸ばして海狗オットセイの防寒具を掴み、渾身の腕力で引き寄せてしっかりと抱え込む。同時に十二枚の飛鱗を上方へ操作し、身体を引っ張り上げて減速をかけた。

 全身を吞み込んで荒れ狂う空気がシルティのマントの裾を貪る。バタバタとはためくなめし革の狂おしい鳴き声に負けないよう、シルティはレヴィンの耳介に唇を寄せ、腹筋を引き絞りながら全力で叫んだ。


「ボサッとしない!」


 姉の叱責に鼓膜を叩かれ、レヴィンはビクリと身体を震わせる。

 シルティは巧みな操身により空気の抵抗を掌握、さらに並行して身体各部の飛鱗を操作し、体勢を強引に整えた。支えのない空中でレヴィンを引き寄せ、腹側に潜り込み、担ぎ上げる。膨らんだ〈冬眠胃袋〉が上手い具合に背負子の役割を果たしてくれそうだ。狩猟者たちに愛される〈冬眠胃袋〉、その脱着機構の強度は折り紙付きである。


「目線は下!」


 シルティに担がれた状態のレヴィンが、言われるがまま、肩越しに下方へ視線を飛ばす。保護眼鏡ゴーグルに覆われた両目は強風の影響を受けない。


「でかくてやわいのたくさん!!」


 でかくて柔いのをたくさん。事前に考えていた『落下速度が乗ってしまった場合の対応』だ。

 明瞭な指示を受け、レヴィンの瞳にようやく理性の光が戻った。了承の返事として、燃えるような憤怒を感じさせる咆声ほうせいが轟く。

 不甲斐ない己への殺意は強さの糧。

 こんな状況だというのに、シルティはレヴィンを褒めたくなってしまった。


「出せッ!」


 シルティの合図と共に魔法が行使され、フェリス姉妹の進路上に薄膜のような珀晶が出現する。シルティは両足から真っ直ぐに突っ込み、瞬時に粉砕して貫通した。骨身に染みるような硬い衝撃。薄膜と言っても面積があるので、それなりの強度だ。

 貫通した先には同じような薄膜が待ち構えている。

 間髪入れずそれも貫通し、突き抜けた先で三度みたび、薄膜。

 かつて削磨狐みがきギツネを狩ったあと、荷運び業者コンラッド・フィンチの正拳突きを受け止めた十枚の平行障壁。あれをより脆く多くしたような、層状に並ぶ多重の板だ。

 この状況でレヴィンが気絶でもすれば死が確定する。貫通の度に襲ってくる強烈な衝撃は、シルティが緩衝材となって可能な限り吸収しなければならない。

 息を付く間もなく繰り返される着地と粉砕。

 シルティはその都度、怠けることなく全身の関節を柔らかく緩め、しなやかな筋肉を全力で酷使した。


(レヴィン、ほんとに重くなったなぁ!?)


 レヴィンの体重は既にシルティの倍を超えている。

 最近では抱き上げることもなかったので、こうして担ぎ上げてみると改めて重さに驚いてしまう。

 重いということは、つまり、痛い。


(背骨から聞いたことない音がする!!)


 両足をさいなむ断続的な衝撃。

 上下からの壮絶な衝撃に挟まれ、ぐわんぐわんとたわむ脊椎。

 それに伴って、シルティの体内では硬質な石材が寿命を削るような音が響いている。


「ぐッ、ぶッ、んぎっ、ぐふっ、ひッ、ひひひっ」


 食い縛った奥歯の隙間から苦痛の声を漏らしながら、シルティは嬉しそうに笑った。

 未経験の音が体内で鳴り響いているということは、シルティの体内に初めての傷が刻まれているということだ。

 つまり、今まで弱かったところが、強くなっているということである。


「もっと! 硬く!」


 薄膜の強度を上げてくれという、絶叫するような要請。

 そこに、『減速の度合を上げるため』以外の意図が含まれていたことは、残念ながら否定できない。


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