第136話 要遮光



「んぐ……」


 皮膚、筋肉、臓腑、全身が漏れなく熱くて痛い。

 肺腑が焼けているのか、呼吸が億劫で、吐息には奇妙なぬるさを感じる。鼓膜が破れているらしく、自分の咳き込む音も上手く聞こえない。かなり深刻な難聴を発症しているようだ。両方の眼球は自覚できるほど眼圧が高く、赤いような白いような異常な視界であるが、一応、見えてはいる。

 八年ぶり、二度目の、懐かしい感覚。

 瞬間の記憶はないが、事実は明らかだ。


(くっそぅ……)


 シルティは、またもや雷に負けた。

 湿り気を帯びたせきを吐き出し、雨を啜る。冷たい雨だ。敗北と冷雨により、ここ数日間ずっと煮えたぎっていたシルティの頭が休息に冷えていく。


(見えた……見えたのにぃ……! そりゃ、そうだ……私の、くっそぼけぇ……!)


 見えていた。

 シルティの鍛え上げた眼球と極限まで引き延ばされた主観時間は、間違いなく、こちらに向かってくる先駆放電ステップトリーダの先端を捉えることに成功した。

 思ってたより細いな、と思った。枝分かれした一本一本は、シルティの腕より細かった。

 だが、次の瞬間、シルティの視覚は敢え無く殺された。天雷の生み出す莫大な光量を至近で直視したため、目を焼き潰されてしまったのだ。

 今考えてみれば当然だ。遠くからでも眩しいのに、至近で眩しくないわけがない。

 閃光により痛いほど漂白された世界で、自分を貫きに来る悍ましく雄大な死を感じ取ったあの時、シルティの主観時間は限界を超えて引き延ばされた。一が百にも千にも感じられる生涯最高の主観遅延だった。だが、脳の性能が全てそちらに割り振られた結果、肉体を動かすという機能が切り捨てられ、シルティの肢体は頸椎を断絶されたかのような全身麻痺に陥った。

 見えない。動かない。

 身体が岩塊と化したかのような永い永い刹那の末に、シルティは空から落ちる破壊に身体を貫かれ、焼き潰され……次に意識が戻ったときにはくさかった。


「ふっ……ふ、ふふふ……ででで……んふふ……」


 堪え切れず、シルティは笑いを漏らす。

 見えたのに、見えなくされて、やられた。

 見えなくされなければ、私は斬っていた。

 必要なのは保護眼鏡ゴーグルだ。それも、先日買ったレヴィンとおそろいの透明な眼鏡ではなく、不透明に見えるほど濃く暗い有色ガラスを使った、専用の遮光眼鏡ゴーグルが。

 それさえあれば、次は、斬る。


「うひ、ひひひ……」


 シルティは陶酔したような笑みを浮かべ、自らの明るい未来を断定した。


「ふふふ、ふ……ふ、ぅ……ぐ」


 笑っている場合ではない。ともかく、今は身体を再生させなければ。

 シルティはのろのろと仰向けになり、口を大きく開けて落ちてくる雨水を摂取した。魔法『完全摂食』が即座に働き、体内で生命力が生み出される。僅かだが、肉体に活力が戻った。なんとか動けるようになったので、視線を巡らせて周囲を把握する。雷斬りに挑戦する前に脱ぎ捨てたマントや〈冬眠胃袋〉は、レヴィンがしっかり回収して持ってきてくれたようだ。

 這いずるようにして〈冬眠胃袋〉に近寄り、ビスケットを取り出して貪り食う。ちょうどよく雨水が喉を潤してくれる。


「んまい……」


 まず回復すべきは肺腑。続いて視覚、聴覚、嗅覚。

 全身の火傷は後回しである。

 皮膚はもちろん体内まで満遍まんべんなくこんがり焼かれてしまったが、かつて雷銀熊らいぎんグマに爆破された時と比べると、負傷自体は軽いものだ。あの時は指が二本ほど行方不明になってしまったし、左半身の皮膚は酷く爛れ、片方の眼球も潰れてしまった。

 今は、少なくともどこも欠損していない。

 このぐらいならば、シルティは痛みを楽しみながら動くことができる。

 追加でビスケットを十数枚、ついでにレヴィンの分の生肉もいくらか横領し、生命力へ変換。

 やがて呼吸が穏やかになり、視覚と聴覚もある程度鮮明になった。


「レヴィーン……」


 呼びかけると、レヴィンがシルティに身体を擦り寄せてくる。


「改めてありがと……ほんと、助かった……」


 引き続きビスケットを食べながら、シルティはレヴィンの頬を撫でた。

 ご、る、る。

 レヴィンは短く喉を鳴らしながら頬擦りをし、親愛を表すようにシルティの顔をべろんと舐める。

 そして。


 ヴッ、と奇妙な声を上げた。

 勢いよく顔をそむける。

 鼻面に皺を寄せながら顎を大きく開け、舌をにゅうっと出し、頭を下げ。

 前肢が強張り、肩甲骨が隆起し、胸郭きょうかくがぎゅうっと収縮して。

 レヴィンは嘔吐した。


「おわっ! ……。吐いちゃったか……」


 どうやら、シルティの顔に気付け薬の風味が残っていたらしい。

 結構な量を吐き出し、カュフッと奇妙な音の咳をしてから、焦燥感と罪悪感の入り混じった表情を浮かべるレヴィン。

 毛玉を吐く場合はいつも、『頬擦亭』のトイレなり草叢くさむらなり、しかるべきところへ出しているレヴィンだ。粗相をしてしまった、叱られるかもしれない、と思っているらしく、視線が嘔吐物とシルティの顔とを忙しなく行き来している。


「なんでそんな不安そうな顔してんの。怒るわけないでしょ」


 シルティは苦笑しながらレヴィンの額を撫でた。


「……ていうか、そんなにくさいっすか」


 左の手のひらで頬をゴシゴシと擦り、その匂いを嗅ぐ。


「うーん……わからんっ」


 シルティの嗅覚は完全に麻痺していた。雷により鼻腔を火傷している影響ももちろんあるが、なにより顔面にぶち撒けられた気付け薬による被害が大きいだろう。嗅覚というのはとても疲労しやすい感覚だ。ある一種類のにおいを嗅ぎ続けていると、そのにおいに対する感度が迅速かつ甚大に低下する。


「せっかくだし、もう身体洗っちゃおっか」


 シルティはのろのろと立ち上がり、身に着けていたものを脱ぎ始めた。剣帯から〈永雪〉とナイフの鞘を外し、床にそっと安置。〈冬眠胃袋〉のハーネスを緩め、革鎧と半長靴はんちょうかを脱いで、鎧下と肌着も脱ぎ、さっさと全裸になる。

 瑞々しく張りのある皮膚には、赤みがかった羊歯シダ植物が這い伸びたような、奇妙な痕跡が走っていた。雷撃傷だ。うなじの辺りが起点だろうか。右の首筋を通って鎖骨に沿い、胸骨端から胸元へ広がって、乳房の膨らみを避けるように谷間を通り、下腹部そして鼠径部へと、身体の前面を無数に枝分かれしつつ、右の足首まで続いている。また、両腕にも同様の模様が生じていた。こちらは拳から肩へ向かって走っているが、肘を過ぎたあたりで途切れている。

 いずれにせよ、見た目は痛々しいがそう深刻なものではない、とシルティは自己診断した。再生は容易いだろう。

 そして幸いなことに、装備品に破損は見られなかった。〈永雪〉は当然として、〈永雪〉の鞘も、鎧下衣類も革鎧も半長靴もハーネスも、全てがシルティの身体の延長である。生命力の作用によって十全に強化された防具は人類種の肉体よりも遥かに頑強になるので、雷の破壊力にも余裕で耐えてくれたようだ。まぁ、鎧下はちょっと焦げている部分もあるが。


「よし。おいで」


 呼び寄せたレヴィンの装備も全て外した。ただ、今も雷には備えなければならないので、〈雷避け〉の縫い付けてある海狗オットセイの防寒具は遠ざけるわけにはいかない。

 防寒具を床に広げて敷く。最高級の毛皮を使った贅沢なマットの上で、レヴィンの毛皮をわしわしと掻き撫でる。


「んふふふふ。雨で洗うのも久しぶりだね」


 レヴィンは仰向けに寝転がると、肘と手首を屈曲させ、股間をおっぴろげて脱力したポーズへ移行した。

 今はお腹の気分らしい。





 雷斬りに失敗した高さで雨が止むのを待っていると、完全に日が沈んでしまったので、シルティたちはそこで一夜を過ごすことにした。

 土砂降りの中では『珀晶生成』も不安定だが、現在の足場のすぐ下に生成することで悪天候の影響をある程度は無視できる。少し背の高い仮眠室を作り、濡れてしまった装備品を部屋干ししながら仮眠を取った。シルティは肉体の再生を促進に、レヴィンは生命力の回復に努める。

 〈雷避け〉だけは欠かせないので、海狗オットセイの防寒具から取り外してレヴィンの身体に接触させておく。

 体内までボロボロだが、一定時間ごとに仮眠室を作り直す必要があるため、深く眠りすぎないようにしなければならない。



 翌朝、太陽が僅かに顔を見せた頃。

 シルティは仮眠室の中で己の身体の調子を確かめていた。


 視覚、聴覚、嗅覚、問題なし。

 仮眠の連続とはいえ半日以上も休息を取ったのだ。全身の火傷についても戦闘に支障がない程度には治癒できた。食料もまだまだ残っている。昨日とは打って変わって快晴。地上に引き返す必要はないだろう。


「よし、行こっか」


 レヴィンが欠伸で応えた。仮眠室の天井が消え、代わりに足場が生成される。


「えっと、これが……六百四十、六段目だっけ?」


 レヴィンが肯定の声を上げた。

 つまり、次の小休止は六百九十五段目で、次の大休憩は九百四十五段目だ。


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