第134話 母の血は強し



 冷たい肉とビスケットをそれぞれ片付けたあと、シルティは左の手のひらを斬ってレヴィンに差し出した。

 レヴィンは暖かい生き血を嬉しそうに舐め取っていく。少なくとも、冷えた肉を貪るよりはずっと美味しそうだ。離乳期からずっとシルティの生き血を飲んで育ってきたので、やはり舌に合う慣れ親しんだ味なのだろう。


 しばらくすると、レヴィンはシルティの手から顔を離した。

 腹這いになって手首を返し、目を細めながら前肢の肉球に付着した血や脂を舐め始める。ご馳走様でした、の姿勢だ。


「もういい?」


 上腕や前腕を舐めつつ、返答代わりに尻尾をくねらせるレヴィン。満足度はやや低そうだが、満腹にはなってくれたようだ。シルティはもう一度水を飲んで生命力を補給しつつ、手のひらの傷を再生した。

 血を拭い、傷一つなくなった左手で、拳を作り、開く。


 最近、やけに身体を再生させることが多い。

 重竜グラリアに抉られた顔面、食われた左腕。

 霊覚器を構築するために模造した〈玄耀〉を突き刺した喉。

 今日も左の手のひらの切開と再生を繰り返している。


(なんかこの感じ、ちょっと懐かしいかも……)


 シルティはほんのりと郷愁きょうしゅうを覚えた。

 蛮族たちは幼い頃に自傷と再生を繰り返す。

 手のひらや前腕をざっくりと切り裂き、溢れ出る自分の生き血をぐびぐび飲んで生命力に変換しながら、健やかな身体を渇望し、傷に肉体生命の再力を生を過剰促進に流すさせる感覚を掴むのだ。曲がりなりにも再生の促進ができないと死ぬ可能性がとても高いので、これをしっかり覚えるまでは他の訓練をさせて貰えない。

 シルティは幼少の頃から肉体の再生が特に不得意だったため、かなり長い期間にわたり自分の身体を切り刻むことになった。

 刃物の切れ味を己の血肉で味わうこと自体はとても楽しかったが、同年代にどんどんと置いて行かれるあの日々は、正直に言ってあまりいい思い出ではない。

 そして残念なことに、今も、この不得意は克服できていないのだ。


「我ながら、下っ手くそだよなー……」


 思わず呟くと、レヴィンの耳介がぴくりと反応した。姉の顔をじっと見つめながら首を傾げる。何が『下手くそ』なのか、理解できなかったらしい。


「怪我を治すの、下手だなーって思ってさ」


 レヴィンがなおのこと首を傾げる。レヴィンからすれば、シルティの再生は充分すぎるほど早いのだ。例えば己が前肢と眼球を失ったとして、それを再生させるにはどれほどの時間がかかるのか、レヴィンには想像もつかなかった。


「あー。レヴィン、私のしか見たことないもんね……」


 レヴィンは他の人類種、特に嚼人グラトンが再生を促進させている場面を見たことがないので、正しい比較ができないのだろう。

 シルティが重竜グラリアと殺し合った後遺症を完治させるのにかかった日数は十日余り。皮膚と筋肉の損傷や骨折の治癒に比べ、喪失した骨や臓器の再生に時間がかかるのは当然ではある。しかし、顔面の上半分と左腕の欠損程度で十日以上は、嚼人グラトンの狩猟者としてはかなり遅い方だ。

 シルティの父ヤレック・フェリスならば、欠損した翌日には綺麗に生やして呵々かかと笑っていただろう。

 遍歴の旅に出た当初と比べると、これでも再生自体は早くなっているのだが……ただ単に、成長に伴って増加した生命力を存分に注ぎ込めるようになったから、結果として再生も早くなっただけで、本質的には悪化してしまったような気さえしている。

 なにせ、幼い頃は『チビ』だけが自分の身体の嫌いな要素だったが、今は『デカい胸』も嫌いな要素に追加されているのだ。理屈で考えれば、前より苦手になってしまってもおかしくはない。


「背も、おっぱいも、お母さんの血が強すぎるんだよねぇ……」


 シルティは重い溜め息を吐き出した。

 男女問わず、蛮族たちは総じて身長が高い傾向がある。これは、男性は背が高くて強い女性を好み、女性は背が高くて強い男性を好む、という歯止めの存在しない蛮族たちの美的感覚が長年にわたり絡み合った結果だろう。背の高い両親の間に産まれた子供の背は高くなり易いのだ。

 しかし、シルティの母ノイア・フェリスは非常に小柄である。というのも彼女、そもそも蛮族出身ではない。遍歴の旅に出た若き時分のヤレックが旅の途中で出会った相手なのだ。蛮族の男としてはとても珍しいことに、ヤレックは小さく守り甲斐のある可愛らしい女性が好みで、ノイアに一目惚れして必死に口説き落としたのち、故郷に同伴して結婚したのである。

 そして、高身長の因子が濃縮されていたであろう蛮族ヤレックの血より、単なる町娘であったノイアの血の方が遥かに強かったらしい。産まれてきたのはノイアそっくりのちっちゃな女の子であった。

 もちろん、シルティは優しい母のことを尊敬しているし、愛しているのだが……それはそれとして、ヤレックのような筋骨隆々な肉体への憧れはどうしても捨て切れない。


「まぁ……正直、もう身長は諦めたんだけどさ……はなぁ……」


 シルティは視線を真下に向けた。

 小柄な体格については生まれた時からそうであるし、常人より低い重心が動きのキレを増している部分も大いにあるので、最近ではもう自らの強みとして受け入れようと努力し始めている。だがこのおもりについては、遍歴の旅に出る直前くらいから急激に育ち始めたということもあり、全く割り切れていない。しかも残念なことに、今なお成長を続けているようなのだ。

 五か月ほど前、鬣鱗猪りょうりんイノシシの革鎧を作成する際に採寸した値。つい先日、琥珀豹狂エミリア・ヘーゼルダインの二十歳のお祝いで服飾店に赴いた際に採寸された値。二つの採寸値の間には誤差とは決して呼べない差が存在していた。シルティは自らの成長率を数値として明確に叩きつけられ、かなり本格的に絶望している。

 比較的控えめな胸部を持つ女衛兵ルビアがじっとりとした怨嗟の視線を向けてきたが、シルティ自身としては全くもって嬉しくない。むしろシルティは、背が高くスレンダーなルビアのことを、なんの含みもなく心底羨ましいと思っているのだ。

 帯びた意志を世界に容認させる生命力の作用も、残念ながら生物の身体的成長についてはほとんど影響を及ぼさないということが知られている。人生はままならないものだな、と両者は揃って溜め息を吐き出した。

 なおエミリアはその横で、レヴィンに構い過ぎて噛まれ、幸せそうに悲鳴を上げていた。


「……。まぁ、再生の促進はレヴィンにも覚えて貰わないとだし。今度一緒に練習しよっか。もっと強くなれるよ」


 レヴィンが喜びの唸り声を上げつつ、繰り返し頷く。ご機嫌な様子で前肢の毛繕いグルーミングを再開した。

 人類種に比べ、他の魔物たちは傷の再生や身体能力の増強が得意だ。現在のレヴィンでも、負傷すれば再生を促進させることはできる。しかし、これはあくまで本能的な促進であり、意識的な再生の促進ではない。自然治癒とは比べものにならない速度で負傷を癒せるが、ただそれだけなのだ。

 例えば、二か所や三か所と複数の傷を負った場合、レヴィンは複数の傷を並行して再生してしまうし、またより痛みの強い傷を優先して再生させてしまう。これはあまり良くない。

 たとえば眼球をスパリと斬られ、さらに指先をぐちゃりと潰された場合、痛みが強いのは指先だろう。だが、なにより再生させるべきは眼球である。どこを優先的に再生させるかという選択によって継戦能力や生存能力が大きく変わってくるので、意識的な再生促進は是非とも習得しておくべきなのだ。

 例えばシルティが片手の手首から先をスパンと斬り落として、あふれ出る血をレヴィンに飲ませつつ、レヴィンの身体のどこか数個所を斬り、レヴィンの生き血をシルティが飲むというように、生き血の飲み合いを経由して生命力の循環を作れば、お互いに無駄なく再生の訓練ができるのではないか……。


(……それも水精霊ウンディーネと仲良くなってからか。とりあえず今は寝よう)


 シルティは思考を打ち切り、ごろんと横になった。食後の掃除を終えたレヴィンがすぐそばに横たわり、シルティに身体を寄せて体温を共有する。いざと言うときに備え、両者とも〈冬眠胃袋〉は背中に装着したままだ。

 姉妹の体高が揃って低くなったところで、レヴィンが仕上げの魔法を行使。広い板状の珀晶が箱型足場の天面を覆う。

 見た目は空中に浮かぶ巨大な直方体。

 天井を消さないと立ち上がることもできなくなったが、これで仮眠中ににわか雨に襲われたとしても濡れ鼠になることはない。仮眠中に落雷があった場合も、仮眠室は丸ごと〈雷避け〉の範囲内に収まるようになっているので、シルティたちが被害をこうむることはないだろう。


 仮眠室作りという仕事を終えたレヴィンは、妙に甲高い音を漏らしながら大口おおぐちを開け、薄っぺらい舌をにゅうっと伸ばし、盛大な欠伸を披露した。

 食後の肉食獣特有の血腥ちなまぐさい吐息がシルティの鼻を擽る。早くも眠気を覚えているらしい。

 眠るべき時に速やかに眠るのは、狩猟者としての必須技能である。

 シルティは当然として、レヴィンの寝付きも素晴らしく良い。たとえ真昼間であっても、寝ようと思えばすぐに眠れるように訓練したのだ。

 シルティは腕を伸ばして五指を折り曲げ、レヴィンの首筋を優しく掻き撫でた。


「時間が来たら起こすから、ぐっすり眠っていいよ」


 睡眠の時間や深さを調整するのもまた、狩猟者としての必須技能である。

 今回はレヴィンを休ませることが目的の大休憩であり、シルティの休息は二の次三の次だ。レヴィンには起床時間を気にせず熟睡して貰い、シルティは浅い睡眠に抑えて周囲を警戒しつつ時間を計る。

 もしシルティが寝過ごした場合、維持可能時間を超過した足場が消滅してしまうので、シルティとレヴィンは突然の浮遊感で起こされることになるだろう。責任重大だ。

 レヴィンは両の前肢を交差させ、自前の枕を作ると、そこに顎を乗せた。

 シルティは妹の鼻鏡びきょうを親指の腹で優しくくすぐりつつ、鼻面に沿って額の方まで丁寧に撫でつける。

 ご、る、る、る、る。

 成長に伴ってレヴィンの声は重低音になったが、この喉慣らしの音色だけはあまり変わらない。


「おやすみ」


 徐々に遠雷の切れ目が長くなり、やがて、寝息に変わった。


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