第133話 発熱袋
三百回目。
単純計算でシルティを二百四十人ほど縦に積み上げたくらいの高さ。遮るものが皆無なためか風が凄まじい。体重を軽減しているせいもあって、気を抜くと冗談抜きで吹き飛ばされそうだ。また、はっきりとわかるほどに気温も低下している。
シルティはここで最初の大休憩を入れることにした。
三百段を登るのに必要な時間と、
仮眠用の足場……『仮眠室』の設計は、事前に地上で打ち合わせ済みだ。
「レヴィン、お願い」
レヴィンが即座に魔法を行使した。
シルティの真正面に、天面のない箱型の足場が出現する。
側面の高さはシルティの
床面積は、姉妹が身を寄せ合えば寝転がれる程度だ。かなり手狭だが、〈雷避け〉の範囲内に収まるようにすると、こうせざるを得なかった。
おおよそ事前の打ち合わせ通り。
だが。
「んっ?」
シルティは眉を
形状は打ち合わせ通りなのだが、全体に
レヴィンは内部に気泡を含ませることで珀晶の透明度を落としているので、気泡を除いた正味の体積、つまり強度が同じならば、半透明の珀晶の方が見た目は遥かに大きくなる。
地上で作ったものは壁も床も
(んんん……。なんで半透明にしたんだろ?)
この設計変更はシルティの指示ではない。レヴィンの独断だ。
だが、わざわざ変更した理由がわからない。
(高いのが怖くなっちゃった、とか)
ちらりと眼下を
(全然平気そう……)
シルティは伸ばした人差し指を自らの
この仕草、
しばし考え、思い至る。
「あ。もしかして、こっちの方が
シルティの問いかけに、レヴィンが喉を低く震わせて肯定した。
ある種の樹皮や
現在レヴィンの身体を覆っている
珀晶は割と熱しやすく冷めやすい物質なので、触っているとかなり体温を奪われる。
ただでさえ気温が低いのだから、身体に触れる部分の断熱性は少しでも高い方がありがたい。
「工夫に余念がないなぁ……」
シルティはくすくすと笑いながら箱型足場に跳び乗り、床面の中央付近にしゃがみ込んだ。レヴィンもすぐ後に続き、姉の
低いながらも四方を壁に囲まれた空間は、びゅうびゅうと吹き荒れる風から物理的に切り離されている。相変わらず風音はうるさいが、内部の空気自体は充分に停滞していた。それだけでもほんのりと暖かい。
両手を伸ばし、手のひらで床をぺたぺたと撫で、妹の腕前を確認。
「おおー……すっごい
思わず感嘆の声が漏れてしまうほどに水平が出ている。少なくとも、シルティの平衡感覚では傾きを検知できない。精密な球を置いても全く転がらないのではないだろうか。当然、今までの足場と同様の
広くて水平で滑り
シルティが感謝を込めてレヴィンの顎下を掻き撫でようとすると、レヴィンはその手からするりと
ご要望にお応えしつつ、シルティはレヴィンの背中の〈冬眠胃袋〉を片手で
「あっ」
唐突に声を上げて硬直した。
「ごめんレヴィン……温めるの忘れてた……」
シルティの漏らした言葉を聞き、レヴィンもまた硬直した。
冷蔵用魔道具〈冬眠胃袋〉に収納していた肉だ。当たり前だが冷え切っている。
「……」
シルティは無言のまま、取り出した生肉を床にそっと置く。
しばしの沈黙の後、大きな溜め息を吐き、レヴィンが生肉へ齧りついた。
両の前肢で肉を保持。頭を傾け、
だが、鼻面には深い
琥珀豹のような積極的に狩りを行う肉食動物の味覚は、基本的に獲物の体温と同じか、それより少し低いぐらいの温度の肉を最も美味に感じるようにできている。寒冷地に生息する肉食動物は冷たい肉も食べるが、やはり好むのは体温ぐらいの肉だ。
シルティと共に生活してきたレヴィンは調理された肉を食べる機会が多く、姉が美味しい美味しいと満面の笑顔で食べる場面が目に焼き付いているため、体温よりも高い温度の肉については完全に『美味しいもの』として認識している。だが、姉も自身も優秀な捕食者であるということもあって、冷たい肉を食べた経験は皆無と言ってもいい。冷蔵用魔道具〈冬眠胃袋〉から出したばかりのような冷えっ冷えの肉は、不慣れなせいもあってか殊更に不味く感じてしまうようである。
「次のお肉はちゃんと温めながら持ってくから……今回はこれで我慢してくれる?」
肉を温めるのを忘れていたのはシルティだが、それに気付かずにここまで登って来てしまった自分にも責任の一端はある、とレヴィンは考えていた。
とても不愉快そうに、しかし文句ひとつ漏らさず、黙々と食事を継続する。
「ごめんね。……忘れないうちに準備しとこ」
シルティは自分の〈冬眠胃袋〉を一旦床に下ろし、収納してきた雑貨類から黒色の
今回、燃料の類は持ってきていない。さすがに荷物が膨大になりすぎるからだ。だが、燃料を使わずに肉を温める手段を用意してきた。それがこの黒い袋だ。
これ自体は難燃性の繊維で作られた厚手の袋で、そう特殊なものではない。重要なのは中身である。
袋の
これは、同好の士シグリドゥルの鍛冶場の地面に転がっていた
衝撃に反応して噴火する危険物、超常金属
シルティは全く知らなかったのだが、シグリドゥル曰く、
この話を聞いた時、そのままでは扱い
鍛える際中に脱落したような鍛造剥片は不純物まみれなので、衝撃を与えても火を噴くようなことはない。しかし、ほんのりと発熱するくらいの特性は残っているのだとか。どれだけ衝撃を与えても人肌より冷たい程度の温度にしか届かないので、やはり使い勝手は悪いと言わざるを得ないが……フェリス姉妹の空への旅路に限定すれば、まさしくお誂え向きの物質だと言えるだろう。
シルティは新たな生肉を黒い発熱袋に収納し、口を閉めて、自身の〈冬眠胃袋〉の外に
今のレヴィンの顎と牙を
「よし」
一仕事を終えたシルティは自分の食料を取り出し、レヴィンの横に座り込んだ。相変わらず美味しくなさそうな表情をしているレヴィンを宥めつつ、手に持ったビスケットをざくりと
ゴリゴリという硬質な歯応え。小麦の香りと甘味。
「……美味し」
レヴィンには悪いが、こっちのビスケットは冷たくても普通に美味しかった。
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