第130話 出立
五日後の早朝。
港湾都市アルベニセの西門を出てしばらく南西へ。適度に開けた草原に、フェリス姉妹は居た。
本日は曇天。昼間だというのに薄暗い。見上げれば空は一面灰色に塗りつぶされていた。今のところ雷鳴や雲内放電は見られないが、このまま成長してくれれば雷をぶっ放してくれそうな、将来性に溢れた巨大な雲である。
別にこれを待っていたわけではなく、準備が完了した日がたまたま曇天だっただけなのだが、雷斬りに挑戦するにはいい日和だ。ありがたい。
レヴィンは冷蔵用魔道具〈冬眠胃袋〉のハーネスを身体に巻き付け、その上から
灰褐色の毛皮で作られたレヴィン用の防寒具は、着脱を容易しつつ動作性を向上させるため、大まかに身体の前・中央・後ろの三つの部品に分かれた構造となっている。
丁寧に
脇の下と
全てをしっかりと着用すれば、露出するのは顔面と四肢の先端、そして尻尾のみ。
もちろん、
全身をゴテゴテと飾り付けられたレヴィンは、どうにも違和感が拭えないのか、そわそわと落ち着かない様子を見せていた。生まれてこの
なお、レヴィンの朋獣認定証は微量とはいえ生命力を消費するので、
「んん~……」
うろうろぐるぐると歩き回るレヴィンを他所に、シルティは自分の装備と荷物を念入りに確認していた。
左腰には剣帯で吊った愛刀〈
シルティにせよレヴィンにせよ、今の状態で〈冬眠胃袋〉の鞄を背負った場合、ハーネスと鞄の間に防寒具が挟まってしまうのだが、これは全く問題ない。〈冬眠胃袋〉の脱着機構は物理的なものではなく、
(んー……ん。忘れ物はないな)
地面に下ろした二つの〈冬眠胃袋〉に詰め込んであるのは、水筒、生肉、固く焼き締められたビスケット。
シルティの方の鞄にはさらに、緩衝布に
現在のフェリス姉妹は狩猟中、まず食事に不自由しない。レヴィンにとって『目視した』は『捕獲できる』とほとんど同義なので、小動物の類は捕り放題なのだ。刃物や霧状にした珀晶に突っ込ませれば、空を飛ぶ鳥ですら落とすことが可能だった。
しかし、空の上で同じように食料を得られるとは思わない方がいいだろう。ただでさえ空というのは生物の密度が低いものだが、一定の高さを超えればさらに希薄になる。
ご飯はたっぷり用意しておかなければならない。
生肉はレヴィンの食べる分。ビスケットはシルティが食べる分だ。
さすがの
これは、魔法『完全摂食』は空気を生命力に変換できない、という意味ではない。
肺腑を膨らませるのではなく、意識的にごくんと食道を通して飲み込めば、空気もしっかりと生命力に変換される。
しかし残念ながら、それだけで生存に必要な分を
一概に言えるものではないが、まず、『
また、『質』と呼ぶべき項目もあるようだ。例えば血液などは、大抵の動物(特に陸上動物)ではおおよそ似通った密度を持っているが、飲んでみればその変換効率の差は明々白々。牛や馬の血液を
重さの点においても質の点においても、空気という食料は最悪に近かった。必死にごくんごくんと飲み込んだとしても、恒常魔法『完全摂食』が常時消費している僅かな生命力すら相殺できない。
今回購入したビスケットはかなりずっしりとしているし、材料も良質なものを使っているので、充分な量の生命力を補給してくれるはず。日持ちするし、味も美味しい。ゴリゴリした硬い歯応えが頼もしく、噛んでいると小麦の香りと甘味がふわりと広がる、シルティ好みの素朴なビスケットだった。
ただ、これはレヴィンの好みではなかったようである。
レヴィンが生まれて初めて食べたビスケットは、
「よっし、忘れ物なし!」
荷物を全て点検したあと、シルティは脱着機構を操作して〈冬眠胃袋〉を背負った。レヴィンを呼び寄せ、その背中にも〈冬眠胃袋〉を乗せる。
「いよいよだね。レヴィン、お願い」
即座に『珀晶生成』が行使され、シルティの胸元ほどの高さに水平な板が出現した。
万が一にも重量で割れたりしない
「ありがと」
感謝を伝えつつ、シルティは軽やかに跳び乗った。
着地と同時に靴底に感じる確かな摩擦力。最近読み漁っていた幾何学の知識を適用したのだろう、足場の表面には緻密な
シルティが三枚目に乗り、レヴィンが二枚目に乗ると、一枚目の板が消された。
姉が四枚目に乗り、妹が三枚目に乗ると、二枚目が消される。
あとはこれをひたすらに繰り返し、雲の高さまで登っていくのだ。
七枚目に乗り、八枚目に乗る前に、シルティは空を仰いだ。
視界に映る空の姿に、変化は全く感じられない。
「ふふっ……」
思わず笑いが漏れてしまうくらい、気の遠くなる道程だった。
「いやー。これ、めちゃくちゃ大変だなぁ。目的地が雲ってさぁ。わかってたけど果てしないよ……。レヴィン、疲れたら我慢しないで言ってね?」
ヴォゥン。
足の下のレヴィンが了承の唸り声を上げた。
それなりに分厚い防寒具を身に纏い、生肉でパンパンに膨らんだ〈冬眠胃袋〉を背負っていても、レヴィンの跳躍にはまだ余裕が見える。
「んふふ」
いつの間にやら、本当に力強く育ってくれたものだ。シルティは無性に妹の頭を撫でたくなった。
しかし、残念ながらこの位置関係では手が届かない。
なので、代わりの
魔術『
瞬間、レヴィンの鼻面に深い皺が刻まれた。
威圧的な唸り声を上げながら頭を振り、宙に浮いていた〈瑞麒〉にガチリと勢いよく噛み付く。
「
自己延長感覚を通してシルティの神経を苛む鋭い痛み。
甘噛みと呼ぶのは少しばかり難しい、苛烈で容赦のない刺激だった。
「ぃったぁ……。え……な、なに?
困惑する姉を余所に、レヴィンは〈瑞麒〉をぺっと吐き出し、不快げに鼻を鳴らした。
レヴィンは姉との触れ合いをこの上なく大切な時間だと考えている。ゆえに、柔らかい手での愛撫の代わりに硬くて平たい五角形を押し付けられるのは、
「えっと……ご、ごめんね……?」
しかし悲しいかな、それはシルティには理解できない
シルティからすれば、この〈瑞麒〉は自分の手そのもの、いや、自分の手よりも貴重な手なのだ。手はぶっ壊れても無料で治せるが、飛鱗は安くない補修材がなければ治らないので。
(えー……? なんで怒ってんだろ……?)
琥珀豹にも思春期とかあるんだろうか。シルティはそんなことを考えながら、レヴィンのご機嫌取りに力を注ぐことになった。
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