第130話 出立



 五日後の早朝。

 港湾都市アルベニセの西門を出てしばらく南西へ。適度に開けた草原に、フェリス姉妹は居た。

 本日は曇天。昼間だというのに薄暗い。見上げれば空は一面灰色に塗りつぶされていた。今のところ雷鳴や雲内放電は見られないが、このまま成長してくれれば雷をぶっ放してくれそうな、将来性に溢れた巨大な雲である。

 別にこれを待っていたわけではなく、準備が完了した日がたまたま曇天だっただけなのだが、雷斬りに挑戦するにはいい日和だ。ありがたい。


 レヴィンは冷蔵用魔道具〈冬眠胃袋〉のハーネスを身体に巻き付け、その上から海狗オットセイの防寒具を纏っている。珍品の製作に燃え上がった職人が大至急で進めてくれたのだ。発注してからわずか八日間ほどで完成した。

 灰褐色の毛皮で作られたレヴィン用の防寒具は、着脱を容易しつつ動作性を向上させるため、大まかに身体の前・中央・後ろの三つの部品に分かれた構造となっている。

 丁寧になめされた毛皮は柔軟だが、布ほど伸縮してくれるわけではないので、四足歩行で大柄おおがらな朋獣用の皮革製衣類は基本的にこの構造になる。なるべく着易く、脱ぎ易く、そして動き易く、と考えられた結果だ。


 脇の下とへその辺りに切れ目が生じることになってしまうが、片方がもう片方に重なる構造になっているので、防寒性能に問題はないだろう。現在はかぶっていないが、頭部を覆うフードもある。薄い耳介などはどうしても寒さに弱くなるので、聴覚や視野が犠牲になるとしても防寒が必要なのだ。さらに、その山吹色の両目は頑丈な保護眼鏡ゴーグルでしっかりと覆われていた。山でもそうだが、高所というのは風が強い。『珀晶生成』頼りの旅なので、レヴィンの視界は万全にしておく必要がある。

 全てをしっかりと着用すれば、露出するのは顔面と四肢の先端、そして尻尾のみ。

 もちろん、背乗燕せのりツバメの剥製型魔道具〈雷避け〉は装備済みだ。小さな布袋ぬのぶくろに入れ、適当な配置で防寒具に縫い付けてある。これで雷が直撃してもレヴィンは無傷で生還できる、はず。


 全身をゴテゴテと飾り付けられたレヴィンは、どうにも違和感が拭えないのか、そわそわと落ち着かない様子を見せていた。生まれてこのかたほぼ全裸で生活してきたのだから仕方がない。まぁ、いずれ慣れてくれるだろう。

 なお、レヴィンの朋獣認定証は微量とはいえ生命力を消費するので、め込まれた首輪ごと外している。


「んん~……」


 うろうろぐるぐると歩き回るレヴィンを他所に、シルティは自分の装備と荷物を念入りに確認していた。

 左腰には剣帯で吊った愛刀〈永雪ながゆき〉。右腰には新調した大振りのナイフ。頭部にはレヴィンとおそろいのデザインの保護眼鏡ゴーグル。身体には鬣鱗猪りょうりんイノシシの革鎧を纏い、その上からハーネスを装着、さらにその上から防寒用のマントを羽織っている。

 シルティにせよレヴィンにせよ、今の状態で〈冬眠胃袋〉の鞄を背負った場合、ハーネスと鞄の間に防寒具が挟まってしまうのだが、これは全く問題ない。〈冬眠胃袋〉の脱着機構は物理的なものではなく、白磁獏はくじバクという魔物の素材を使った超常の連結であり、有難いことに少々の障害物であれば無視して鞄を固定できるのだ。


(んー……ん。忘れ物はないな)


 地面に下ろした二つの〈冬眠胃袋〉に詰め込んであるのは、水筒、生肉、固く焼き締められたビスケット。

 シルティの方の鞄にはさらに、緩衝布にくるんだ気付け薬の瓶、塩の詰まった木製の小瓶、そしてちょっとした雑貨類が収納されているが、全体を見ればほとんど全てが食料品である。

 現在のフェリス姉妹は狩猟中、まず食事に不自由しない。レヴィンにとって『目視した』は『捕獲できる』とほとんど同義なので、小動物の類は捕り放題なのだ。刃物や霧状にした珀晶に突っ込ませれば、空を飛ぶ鳥ですら落とすことが可能だった。

 しかし、空の上で同じように食料を得られるとは思わない方がいいだろう。ただでさえ空というのは生物の密度が低いものだが、一定の高さを超えればさらに希薄になる。

 ご飯はたっぷり用意しておかなければならない。


 生肉はレヴィンの食べる分。ビスケットはシルティが食べる分だ。

 さすがの嚼人グラトンも空気を食べるだけでは飢えてしまう。

 これは、魔法『完全摂食』は空気を生命力に変換できない、という意味ではない。

 肺腑を膨らませるのではなく、意識的にごくんと食道を通して飲み込めば、空気もしっかりと生命力に変換される。

 しかし残念ながら、それだけで生存に必要な分をまかなうことは不可能なのだ。


 嚼人グラトンがその身に宿す『完全摂食』は、経口摂取して体内に取り込んだありとあらゆる全てを、完全に安全に分解し、生命力そのものに変換して吸収する魔法である。しかし、変換する効率はその対象によって大きく上下するらしい。

 一概に言えるものではないが、まず、『重さ密度』に強く依存する傾向があることがわかっている。かつて故郷にいた頃、シルティは同じくらいの大きさの胡瓜キュウリと鉛の棒を食べ比べたことがあるが、それぞれで補給できた生命力には何十倍もの差があるように感じた。


 また、『質』と呼ぶべき項目もあるようだ。例えば血液などは、大抵の動物(特に陸上動物)ではおおよそ似通った密度を持っているが、飲んでみればその変換効率の差は明々白々。牛や馬の血液をおけ一杯分飲み干したとしても、それで補給できる生命力は重竜グラリアの血液一口分ひとくちぶんにも及ばないだろう。

 重さの点においても質の点においても、空気という食料は最悪に近かった。必死にごくんごくんと飲み込んだとしても、恒常魔法『完全摂食』が常時消費している僅かな生命力すら相殺できない。


 今回購入したビスケットはかなりずっしりとしているし、材料も良質なものを使っているので、充分な量の生命力を補給してくれるはず。日持ちするし、味も美味しい。ゴリゴリした硬い歯応えが頼もしく、噛んでいると小麦の香りと甘味がふわりと広がる、シルティ好みの素朴なビスケットだった。

 ただ、これはレヴィンの好みではなかったようである。

 レヴィンが生まれて初めて食べたビスケットは、鷲蜂わしバチ駆除の詳細を聞くために『槐樹かいじゅ研究所』を訪れた際、お茶請けとして出されたクッキーだ。レヴィンにとっての『平たくてザクザクした菓子』はあれが基準になってしまっている。使用人ヒース・エリケイレスが丹精込めて焼き上げたあの絶品と比較してしまうと、このビスケットはまあ、確かに少し味気ないかもしれない。


「よっし、忘れ物なし!」


 荷物を全て点検したあと、シルティは脱着機構を操作して〈冬眠胃袋〉を背負った。レヴィンを呼び寄せ、その背中にも〈冬眠胃袋〉を乗せる。


「いよいよだね。レヴィン、お願い」


 即座に『珀晶生成』が行使され、シルティの胸元ほどの高さに水平な板が出現した。

 万が一にも重量で割れたりしない強度体積が必要だが、無計画に大きな珀晶ばかり作っていてはすぐにレヴィンの生命力が尽きてしまう。生命力を節約しつつ、絶対に安全に。この辺りはレヴィンの感覚頼りだ。


「ありがと」


 感謝を伝えつつ、シルティは軽やかに跳び乗った。

 着地と同時に靴底に感じる確かな摩擦力。最近読み漁っていた幾何学の知識を適用したのだろう、足場の表面には緻密な繰り返しパターン模様が浮き彫りにされていた。見た目も美しく、滑り止めとしても充分な働き。もはや職人芸だ。

 手振りハンドサインで合図を送ると、シルティの胸の高さに板がもう一つ出現する。シルティがそちらに移ると、地面にいたレヴィンが跳躍して一枚目に乗った。レヴィンが発動している〈雷避け〉の範囲はそう広くないらしいので、本来であればぴったりくっついて同じ足場に乗りたいところなのだが、毎回の足場を広く厚くするとレヴィンの生命力消費量が跳ね上がってしまう。少なくとも落雷の恐れがなさそうな間はこの手順で進む予定だ。

 シルティが三枚目に乗り、レヴィンが二枚目に乗ると、一枚目の板が消された。

 姉が四枚目に乗り、妹が三枚目に乗ると、二枚目が消される。

 あとはこれをひたすらに繰り返し、雲の高さまで登っていくのだ。


 七枚目に乗り、八枚目に乗る前に、シルティは空を仰いだ。

 視界に映る空の姿に、変化は全く感じられない。


「ふふっ……」


 思わず笑いが漏れてしまうくらい、気の遠くなる道程だった。


「いやー。これ、めちゃくちゃ大変だなぁ。目的地が雲ってさぁ。わかってたけど果てしないよ……。レヴィン、疲れたら我慢しないで言ってね?」


 ヴォゥン。

 足の下のレヴィンが了承の唸り声を上げた。

 それなりに分厚い防寒具を身に纏い、生肉でパンパンに膨らんだ〈冬眠胃袋〉を背負っていても、レヴィンの跳躍にはまだ余裕が見える。


「んふふ」


 いつの間にやら、本当に力強く育ってくれたものだ。シルティは無性に妹の頭を撫でたくなった。

 しかし、残念ながらこの位置関係では手が届かない。

 なので、代わりの飛鱗を伸ばすことにした。

 魔術『操鱗聞香そうりんもんこう』を発動、右胸の〈瑞麒みずき〉を飛ばし、眼下でこちらを見つめるレヴィンの頭を撫で付ける。


 瞬間、レヴィンの鼻面に深い皺が刻まれた。

 威圧的な唸り声を上げながら頭を振り、宙に浮いていた〈瑞麒〉にガチリと勢いよく噛み付く。


いっだ!?」


 自己延長感覚を通してシルティの神経を苛む鋭い痛み。

 甘噛みと呼ぶのは少しばかり難しい、苛烈で容赦のない刺激だった。


「ぃったぁ……。え……な、なに? だった?」


 困惑する姉を余所に、レヴィンは〈瑞麒〉をぺっと吐き出し、不快げに鼻を鳴らした。

 レヴィンは姉との触れ合いをこの上なく大切な時間だと考えている。ゆえに、柔らかい手での愛撫の代わりに硬くて平たい五角形を押し付けられるのは、本気マジ噛みが出てしまうくらいには我慢がならないのだ。


「えっと……ご、ごめんね……?」


 しかし悲しいかな、それはシルティには理解できないたぐいの機微だった。

 シルティからすれば、この〈瑞麒〉は自分の手そのもの、いや、自分の手よりも貴重な手なのだ。手はぶっ壊れても無料で治せるが、飛鱗は安くない補修材がなければ治らないので。


(えー……? なんで怒ってんだろ……?)


 琥珀豹にも思春期とかあるんだろうか。シルティはそんなことを考えながら、レヴィンのご機嫌取りに力を注ぐことになった。


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