第129話 準備



 霊覚器を完全習得した翌日から狩りに出発し、三日後の昼頃、シルティとレヴィンは港湾都市アルベニセに帰還した。

 重竜グラリア調査団が荒らし回ってから既に一月ひとつき以上が経ち、猩猩の森も平時の落ち着きを取り戻している。特に異常もなく二匹の蒼猩猩を仕留め、〈冬眠胃袋〉に一匹ずつ収納することができた。

 蒼猩猩の極太の頸椎を抵抗なく通り抜けた〈永雪ながゆき〉に、蛮族の少女は大変ご満悦である。

 売却も問題なく進み、多少まとまった資金が手に入った。

 これで水精霊ウンディーネを探すための準備を進められる。


 シルティの故郷の集落むらはノスブラ大陸の北東端、雲を突き抜けるほどの険しい山に寄り添うように拓かれているのだが、この山には空山羊そらヤギという魔物が生息していて、強固な角や頑丈な毛皮が取れ、しかもお肉がとても美味しい。特に肝臓を薄くスライスして岩塩と植物油をかけると絶品である。

 シルティは父ヤレックと一緒にこれを狩りに行くことが多々あったので、高度というものの影響を身を以て知っていた。


 まず問題となるのは、空気の薄さ。

 高所に慣れている者でも高い山を一気に駆け登れば体調を崩す。シルティは何度も経験しているので、生命力による再生をことで早期に復活できるが、レヴィンは初体験だ。ある程度の高さまで登ったら、そこでしばらく身体を慣れさせる必要があるだろう。


 幸いにして、レヴィンの『珀晶生成』はこの旅路にまさしく打って付けの魔法だった。生成済みの珀晶は、生成した琥珀豹が熟睡したとしても消えないのだ。生命力を消費するのは魔法行使の瞬間だけなので、生成してしまえばその上で仮眠を取ることもできる。

 ただし、珀晶は生成後にある程度の時間が経つと唐突に空気に溶けてしまうので、好きなだけ休めるというわけではない。

 事前に試したところ、今のレヴィンが持続性を強く意識して全力で生成すれば、太陽が拳四個分巡るくらいの時間は保ってくれるようだ(※二時間半と少し)。さらに、嚼人シルティの生き血をたっぷり飲んでぐっすり仮眠を取れば、消費した分の生命力を休息のたびに回復できることは確認済みである。

 つまり計算上、フェリス姉妹は食料が持つ限り空中に滞在することが可能なのだ。


 空気の薄さに順応できたとして、次に問題となるのは気温の低さ。

 例えば背の高い樹木に登っても、樹の上下で気温の低下を感じることはほとんどない。気温が高度に依存しているという感覚は乏しいだろう。だが雲を貫くほどの高い山へ登れば、誰もがその低気温に驚くことになる。

 雲の高さまでの往復で三日ほど、レヴィンの身体を高度に順応させるのに一日ほど、とシルティは推測しているので、水精霊ウンディーネを探す時間を抜きにしても四日は必要だ。生命力の消耗を抑えながら、ただでさえ寒い高所で、最少でも四泊以上は夜を過ごさなければならない。

 しっかりとした防寒具は絶対に必要である。



 蒼猩猩の売却金を懐に納め、シルティは早速朋獣ほうじゅう用装備品の専門店を訪ねた。

 狩りを終えてアルベニセに到着したこの日は、奇しくもシルティとレヴィンが出会ってからぴったり三百日目。長いようであっという間だった。出会った当時のレヴィンは生後二か月前後とシルティは考えているので、今はちょうど一歳ぐらいだろう。

 琥珀豹の成獣は頭胴長でシルティ三人分にも迫る。一歳にもなればいよいよ本当にデカい。シルティを背中に乗せて走り回るのも余裕だ。体重ではそろそろシルティの倍に届きそうである。

 そんなレヴィンが着用する防寒具だから、当然ながら特注となった。


 琥珀豹のための防寒具。こんな珍品を仕立てられる機会はどれだけ願っても得られるようなものではない。職人は客の前だというのに狂喜乱舞し、己の魂を燦然さんぜんと燃え上がらせながら採寸に取り掛かった。

 使う素材は海狗オットセイの仲間の毛皮を考えているとのこと。海獣の類の毛皮は得てして耐水性および保温性が高いため雨具や防寒具に向くが、この海狗オットセイの毛皮は殊更に品質が良く、アルベニセで得られる素材では最高級だと熱弁された。


「どうですか、この毛の密度。ぜひ触ってみてください」


 店員が見本サンプルとして、同じ海狗オットセイの毛皮で作られた朋獣用のケープを見せてくる。

 促されるままにケープを撫でると、表現の難しい、だがこの上なく心地の良いきめ細やかな感触がシルティの手のひらを甘やかした。


「お。おお。くすぐった……くはないけど、なんというか……よくわからない感触で……気持ちい……」

「陸棲獣とは比べものにならない手触りでしょう? この被毛が空気を孕んでしっかりと保持し、優れた断熱性を発揮します。暖かいですよ」


 密生した柔らかい灰褐色の毛は艶々とした光沢を持ち、暖かいだけでなく純粋に美しい。

 レヴィンも興味深そうに首を伸ばし、すんすんと匂いを嗅いでいた。


「いかがでしょう」


 当然ながら、製作費として提示された金額もなかなかいかついお値段だ。


「お願いします」


 だが、シルティは躊躇ためらうことなく頷いた。

 自分はお洒落にはほとんど興味もないくせに、レヴィンのお洒落となるとついつい財布の紐が緩んでしまうシルティである。



 お洒落に興味のないシルティの分は、別の店で狩猟者用のマントを購入した。正確に言うと嚼人グラトンの男性用のロングケープなのだが、小柄なシルティにとってはちょうど膝下まで覆えるくらいのマントである。薄くなめされた牛革製。こちらは既製品なので即日入手だ。

 左の膝裏と腸骨稜ちょうこつりょうを結ぶように、深々とした切れ目スリットが入れられている。得物の鞘を外へ逃がせるようになっているのだ。

 また、えり部分には強いバネが仕込まれていて、首元の留め金を外すと弾かれたようにめくれて広がり、簡単に脱ぎ捨てられるようになっている。

 狩猟者向けの〈冬眠胃袋〉に設けられた脱着機構と同様、魔物との突発的な遭遇に備えた仕組みだ。戦闘に支障のない格好へ即座に移行するための工夫である。


 着心地を確かめるために試着中、シルティは留め金に手を引っ掛けてしまい、この機構を暴発させた。

 弾かれて広がったマントが背後にいた店員へと襲い掛かる。不意打ちでマントを被ったお姉さんが意外と野太い悲鳴を上げて尻餅をつくことになった。

 このマント、素材が革であることに加えて屈強なバネと留め金が仕込まれているため、見た目よりもかなり重い。シルティは平謝りだ。これを羽織っている間は首回りに気を付けなければならない。

 ただ、今回の目的地を考えると、この重さもまたシルティには好都合だった。

 不意打ちとはいえ女性を押し倒せるほどの重さならば、空の上で脱ぎ捨てても風に飛ばされる恐れが小さくなる。



 諸々の注文を終えた翌日は、丸一日の休日。

 ちょうど休日が一致したので、フェリス姉妹は女衛兵ルビア・エンゲレンと琥珀豹狂いエミリア・ヘーゼルダインと共に遊び回った。もう一か月ほども前になるが、エミリアが二十歳になっていたので、そのお祝いも兼ねた女子会である。

 相変わらずエミリアはレヴィンにべったりだ。

 出会った当初、レヴィンは割と本気の嫌悪感をエミリアに対して抱いていたようだが、さすがにいろいろと慣れてしまったらしい。素っ気ない態度ではあるものの、前ほど嫌がってはいなかった。肉球を舐められた時は鉤爪がにゅっと出ていたが。



 さらにその翌日からもう一度蒼猩猩を狩りに向かい、三日後に無事に帰還。

 追加の資金を得て、さらに買い出しを進める。

 といっても、もう高価なものはない。マルリルから指摘された気付け薬だけだ。

 薬品店へ向かう。


 狩猟者の使う気付け薬は鹿のたぐいの魔物の枝角から作られることが多い。シルティの生家で飼育していた藍晶鹿らんしょうジカと呼ばれる魔物も、春頃に抜け落ちた角を焼いて砕くと凄まじい刺激臭を発する気付け薬になった。

 アルベニセでは鶏冠鹿けいかんジカと呼ばれる魔物の角から作られた品が一般的のようだ。鶏冠鹿の枝角を焼き、さらに粉末になるまでいて、同じ重さの酒精に溶かしてから頑丈なガラス瓶に入れ、しっかりと密封したものとのこと。色は妙に毒々しい赤色だ。

 説明を終えた店員の青年が、商品をシルティに差し出しながら言う。


「よろしければ一度、いでみますか? 効き目がわかりますよ」

「おっ。いいんですか? ぜひお願いします」

「どうぞ」


 シルティは軽く頭を下げながらガラス瓶を受け取った。

 早速せんを摘まんで引き抜こうとするが、ずいぶんと固い。揮発する薬品のため、気密性が大事なのだろう。売り物なので力任せに扱うのは怖い。くりくりと丁寧にねくり回していると、次第に緩み、ついには外れた。

 きゅぽっ、と小さな音が鳴る。

 僅かに遅れ、店の入り口付近で興味深そうに展示品を見ていたレヴィンが著しい反応を見せた。

 全身の被毛を瞬時に逆立たせてしばし硬直。舌でべろんと舐め、鼻鏡びきょうを湿らせてから顎を半開きに。口角をぐっと引き上げて牙を露出させながら目を細める。鼻面にはうっすらとしわが刻まれた。

 その表情を維持したまま、きょろきょろと周囲に視線を走らせる。

 嗅いだことのないにおいを確かめようと鼻を利かせているのだ。表情のいかめしさがかなり増量されているが、猫や馬がよくやるやつフレーメン反応である。


 レヴィンはすぐにシルティの手元がにおいの発生源だと看破した。すっと表情を戻し、速やかに後ずさりをして距離を取る。どうやらこの気付け薬、レヴィンにとってかなり不快なにおいらしい。


「そんな反応されると怖くなるじゃん……」


 シルティは苦笑しながら、瓶の口を鼻に寄せ、手で仰ぐようににおいを確かめる。


「っひ! ぅ、ッん、ヅ、ぐぅ……」


 言葉にならぬ音を喉から漏らしながら、シルティは盛大に顔をしかめた。

 なるほど。シンプルにめちゃめちゃくさい。故郷で作られていた気付け薬よりも遥かに強烈だ。確かにこれならば、気絶していても一発で目が覚めるだろう。


「キツいでしょう」

「……めちゃくちゃ、キツいっす」

「そうでしょうそうでしょう」

「店員さんなんか嬉しそうですね」

「ははっ」


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