第128話 擬人化
失神しそうな、あるいは失神した者に嗅がせることで意識の覚醒を助ける、ある種の興奮剤のことだ。嗅ぎ塩などとも呼ばれる固形物で、細かく砕いてそのまま吸い込むか、あるいは酒精に溶かして揮発したものを嗅ぐ。
チームを組むような狩猟者はこの気付け薬を準備していることが多い。魔物と言えど気絶すれば格段に再生力が落ちるからだ。仲間が気絶した場合は迅速に覚醒させなければならない。
魔法『完全摂食』を宿す
だがシルティは、この気付け薬を準備をしていなかった。
シルティはレヴィンと共に行動しているのだから、当然持っていて然るべきである。
だと言うのに、準備していなかった。
マルリルに言われるまで、気付け薬を用意しようという考えすらなかった。
「……いえ、持ってません」
シルティは身体を縮こまらせ、
「そう。じゃあ必要ね。しっかり準備して、レヴィンにも使い方を説明しておいて。わかった?」
「はい……わかりました」
「よろしい」
シルティが素直に頷いたことで、マルリルはほっと息を吐く。
(時々すごくおバカになるのよね、シルティは……。まぁ、レヴィンが一緒なら大丈夫でしょう)
マルリルはレヴィンの賢さに強い信頼を寄せていた。
レヴィンが〈雷避け〉と血縁を結んでおけば、少なくともレヴィンが雷に焼かれることはなくなる。シルティが雷の切開に失敗し、焼かれて昏倒したとしても、レヴィンさえ無事ならば気付け薬を嗅がせて姉を覚醒させられるだろう。
シルティの死亡率は格段に下がるはず。一安心だ。
なお、当のレヴィンは『自分の名前の由来になったとかいう雷ってやつを一回くらい受けてみたいな』とぼんやり考えていた。
姉の影響を存分に受けて育ったレヴィンは、もはや充分に蛮族と呼べる思考回路を搭載している。
だが、精霊術の授業中は利発で大人しい読書家の姿ばかり見せていた。
レヴィンが抱く強さへの渇望の激しさに、マルリルは全く気付けていない。
「さて。まだお昼前だけれど、今日はこれで終わりにしましょうか。
「はい。……ただ、ちょっとお財布が寂しい感じなので、まず狩りに行こうかなと思ってます」
「あら」
「それに、〈永雪〉もそろそろお肉を
愛刀〈永雪〉の柄頭を人差し指で撫でながら、シルティが優しく微笑む。
「……そうなのね」
マルリルの方も微笑みを顔に張り付け、しかし、内心では少し恐怖を覚えていた。
(この
シルティは当然のように言い出したが、刃物が肉を斬りたがるとは、いったいどういう現象なのか。
愛用の得物に名を付けるというのは蛮族固有の文化ではない。
素振りしただけで自己延長感覚を確立できるシルティが異常なのであって、普通は一つの武具を長く長く大事に使い、ようやく生命力による武具強化を成し遂げるものなのだ。長く使い続けた道具に愛着が湧くのは当然であり、愛着が湧けば特別視したくなるのが自然というもの。ここアルベニセにも、自分の武具に名前を付けている者はごまんと居るだろう。
だがシルティは、どうやらお気に入りの刃物に名前を付けるだけでなく、明確に
つまり、刃物を
これはどう考えても異常だった。武具強化は
だというのに、シルティの握る武具にはどういうわけか強化が乗っている。
それも、マルリルが知る中でも突出した強化具合だ。
自分の身体であり、同時に他者でもある、という矛盾を一切の疑念なく確信していなければ現状の説明がつかないのだが……この娘には、世界がどんな風に見えているのだろうか。
あるいはこの自己と他者の深い混在が、木刀でアーミングソードを一方的に齧ったり、十七歳という若さで形相切断を完全に体得したり、奇跡的にとはいえ万里一刀を成し遂げた秘密なのかもしれない。
マルリルは戦闘行為が好きなわけではないが、狩猟者として腕を磨きたいという気持ちはある。万里一刀はともかく、形相切断に至るのは長年の課題の一つだ。
だが。
(私には絶対に真似できないわね……)
マルリルは遠い目をした。
「というわけで、私は明日から蒼猩猩を狩ってきます。防寒具とかも作らなきゃいけませんし……四匹くらい斬ればお金は足りる、かな。
「焦る必要はないわよ。しっかり準備する方が大事だからね?」
「はいっ。……。さて。んンッ」
話が一段落したと判断したシルティは、わざとらしい咳払いを挟み、媚を売るようにへらっと笑った
「それはそうと、先生?」
「……なにかしら?」
「霊覚器の構築が終わったら、模擬戦してくれるって約束でしたよねっ」
「そ……う、だったわね」
「まだ早い時間ですし、これからお願いできませんか?」
「うー……ん。まぁ、うん。約束だものね」
「ありがとうございます! すぐ行きましょう!」
その後、都市の外へ出向いて模擬戦を行ない、シルティはマルリルに完敗した。
純粋な速さでは勝っていた。反応速度でも勝っていたと思う。
だが、五戦やって全敗である。
シルティがどれだけ斬り込んでも、受けられ、向きを操られ、体勢を崩されて、最後には敢え無く殺される。
ヴィンダヴルには、得意分野で完全に上を行かれ、負けた。
マルリルには、得意分野を存分に押し付けたのに、負けた。
いやはや、殺しの技のなんと険しく楽しいことか。
地面にへたりこみながら、シルティは恍惚と笑った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます