第123話 爺の教え・緒言



 しばらく経ち、ようやく呼吸を整えたヴィンダヴルが、持参した水筒に口を付けながら長巻を右肩に担ぐ。


「嬢ちゃんよ。その年齢としにしちゃあ、まあまあ速えな」

「んふっ。ありがとうございます!」

「だがよ」


 右足でシルティのならし、ぎゅうぎゅうと踏み固めながら、振り返った。


「こんな作ってるようじゃ、まだまだな」

「……足跡、ですか?」


 シルティが首を傾げる。彼女にとって、強く踏み込めば足場が崩壊するのは当然だった。


「俺ぁ嬢ちゃんのこたぁ気に入ってんだよ。嬢ちゃん、馬鹿だからな」


 ヴィンダヴルの親愛を込めた『馬鹿』は純粋な褒め言葉である。


戦いやり方も似てるみてえだし、特別に教えてやら。いいか、よく聞けよ」

「! はいっ!」


 シルティの目が輝く。

 どうやらヴィンダヴルは、模擬戦に応じてくれただけでなく、なにか心得を授けてくれるらしい。


「嬢ちゃんの踏み込みは無駄だらけだ」

「無駄、ですか」

「そうだろがよ。薄っぺれえ板っきれの上と、固え地面の上、どっちが高く跳べんだ? もれえよりかてえ方がグンッといけんだろ。これ見よがしに踏み砕いても足は速くなんねえんだぜ」

「は……それは、はい、わかります」


 適度な硬さの枝や強く張った綱などを足場とする場合、そのしなりや張力をうまく利用すれば通常よりも遥かに高く跳躍することができるが、弾性反動を利用しない単純かつ瞬発的な加速ならば足場は強固な方が好ましいのは明らかだろう。


「あの、でも……強く踏んだら、勝手に砕けちゃいませんか?」

「だから砕かねえように踏むんだろがよ」

「砕かねえように……でもそれじゃ強く踏めませ……ん? あっ?」


 ヴィンダヴルの言葉の意味を咀嚼しようとしていたシルティだが、そこで気付いた。

 模擬戦の舞台となったこの場に残る足跡。速度とキレを身上とする者同士が斬り合ったにしては足跡の数が少ない。というか、残っている全ての足跡がシルティのものだった。


「あれ……。なんで?」


 シルティよりも重い身体でシルティを上回るキレを見せたというのに、ヴィンダヴルの足跡はひとつも残っていない。

 思い返せば、シルティは全力で踏み込むたびに地面を粉砕していたが、ヴィンダヴルはとても静かに加速していた。特に顕著だったのが背後の取り合いだ。シルティがやかましくヴィンダヴルの背後を取ったのに比べ、ヴィンダヴルの動きの静かなことと言ったら。

 突き破られた空気が渦を巻く音こそ響いていたが、踏み込みの音はなかった。

 あの静かさは、物のことわりをはっきりと逸脱しているような気がする。


「いいか、嬢ちゃん。固めやがれ」

「ぇ、固め……はぃ……なにを……?」

「地面をだ。……わかんねえってツラだな。見とけよ。大袈裟にやってやら」


 ヴィンダヴルは手に持った水筒をぽいと地面に投げ落とし、ゆらりと脱力して直立する。

 先ほどと同様、長巻を両手で保持する中段の構え。

 シルティの耳に、ざり、ざり、とかすかな軋轢音が届いた。ヴィンダヴルが両足の裏で地面を踏みにじっている。


(……んっ?)


 その光景に、シルティの目が、霊覚器が、違和感を覚えた。

 シルティは既に精霊の目と耳の閉じ方を体得しており、普段は基本的にのような感度の低い状態を維持している。ヴィンダヴルの動きが生み出した違和感は、その薄目の霊覚器でも捉えられるほどの強烈なものだった。

 精霊の目は生命力を捉える。生命力に満ち足りた生物の身体の概形を目視できる。自己延長感覚が確立され、武具強化の対象となった物品には生命力が導通するので、当然これも視認できる。

 シルティの目には、鎧兜を身に纏い、長巻を構え、、そんな虹色のお爺ちゃんが映っていた。

 物質の眼球では、そんなのようなものは見えない。

 なんだろう、あの円盤は。何らかの魔道具の、魔術の結果だろうか。シルティは眉を顰め、精霊の目を凝らす。かつて身に纏っていた革鎧の素材、跳貂熊とびクズリがその身に宿す魔法『空跳そらはね』も、霊覚器で見ればこのように見えるのかもしれない。


 直後、ヴィンダヴルの姿がかすみのように掻き消え、十歩ほど先に出現した。

 踏み込みの音がほとんどない。着地の音もほとんどない。突き破られた空気が渦を巻く音だけが轟く。


「んおあ……」


 シルティの喉が無意識に妙な音を発した。

 着地の音が小さいのは理解できる。同じようなことはシルティにも不可能ではない。筋骨を精密に操作すれば、急停止に際して暴れ狂う慣性を体幹筋に余すところなくし、数瞬の間だけ体内を流転させることで動きを止めたり、別の動作にすることもできる。

 だが、踏み込みの静謐せいひつさはあり得ない。シルティが同じ速度を出せば地面は脆くも崩壊し、土塊つちくれが盛大に飛散するだろう。なぜだ。シルティには意味が分からなかった。

 再び、ヴィンダヴルが動いた。霞と消え、ぴたりと元の位置に現れる。今度は先ほどよりも足元の円盤が薄くて希薄だったが、なおのこと速い。軽い動作に見えるのに、シルティの全力の踏み込みを置き去りにするような速度だ。


「まあ、こんなもんだ。足場、壊れてねえだろ」

「……はい」

キモは足の裏だ。まぁ、スパッと動くにゃになんのも大事だがよ」

「えっ、って……」


 シルティが驚愕の声を上げ、ヴィンダヴルの説明を遮った。


「もしかして、体重を軽くするってことですか?」

「あん? ……まさか、できねえのかよ」

「う……」


 生命力の作用による体重の操作は、身体能力の増強や武具強化とは一線を画す高度な技法として知られている。ヴィンダヴルはシルティが体重を操作できると思っていたようだが、残念ながらまだ無理だ。集中して時間をたっぷり費やせば多少は増減させられるが、斬り合いの最中さなかに使うにはあまりに鈍間のろますぎる。

 武具強化や体重操作のような生命力の作用に由来する技法というのは、膨大な生命力を誇る嚼人グラトンこそが得意とする傾向があった。しかし、ヴィンダヴルは当然のように体重操作を習得しているらしい。さすがである。

 模擬戦で〈永雪〉の右逆袈裟を受けられた時の馬鹿げた重さは、体重を実際に増加させていたからか。道理で金属の塊みたいな重さだったなあ、とシルティは納得した。


「すみません。斬り合いながらは、まだ無理っす……」

「ぼえぇ。逆に信じらんねえぜ。体重操作なしでそんだけ速えっつーのかよ。嬢ちゃんすげえな」


 ヴィンダヴルが愉快そうに笑い出す。

 どうやら彼の言うところの『馬鹿』に該当する内容だったらしい。大変ご機嫌だ。


「けどよぉ、俺らみてえな速さ頼りはできた方が絶対ぜってえにいいぜ。精進しやがれ」

「え……。そ、そうですか?」


 正直に言えば、シルティは体重を操作できずともさほど困らないと思っていた。狩猟者が体重操作という技法を身に着ける主な目的は、攻撃力と防御力を増強することであるためだ。

 シルティの場合、刃物に対する突出した親和性の高さから攻撃力はむしろ過剰気味であり、敵の攻撃に関しては動きのキレを活かして回避することが多く、真正面から受け止めるということはほとんどしない。

 体重操作に意味がないとは全く思わないが、自分の戦法スタイルとはあまり合致しないな、とシルティは判断していたのだ。もちろん将来的には習得するつもりだが、とりあえず遍歴の旅の最中さいちゅうは後回し、と考えていた。


 疑念の滲んだシルティの声に、ヴィンダヴルはむしろ不思議そうに頷く。


「あん? たりめえだろがよ。なに言ってやがんだ?」

「……そう、ですか」

「身軽になってっかどうかで丸切りちげえぞ。特に、動き出しと止まっときはな」

「動き出しと、止まるとき……」

「まあ、軽くなりすぎっと空気に負けっから、加減は要るがよ」

「……動き出しと、止まるとき……。んん……?」


 シルティは首を傾げながら脳内で経験的な物理学を展開する。

 七つ数えるほどの時間が経ち、そして今更ながら、シルティに電流が走った。


「んあッ! うわっ、あ、そうですよね! いや、そうに決まってますね!?」

「おう? おう。なんだよ。本気で気付いてなかったのかよ」

「気付いてませんでした! 我ながらほんっと馬鹿です!」


 振るうならば軽い刃物の方が簡単だ。

 軽い方が動き出し易い。軽い方が止まり易い。

 言われてみれば当然のこと。

 しかしとても残念なことに、シルティは全く気付いていなかった。


 シルティは生まれてこのかたずっと小柄こがらだった。

 物心ついた頃には、自分は小柄な母ノイアの血を色濃く受け継いだのだと理解していた。

 父ヤレックのような巨躯に憧れながらも、自分があの肉体を得ることは難しいのだと理解していた。

 そして、戦いの師であるヤレックもまた、愛娘が決して大柄おおがらにはなれないことを察していた。

 ゆえに師弟は、筋力や体格に頼らない殺しのすべを念頭に置き、幼少の頃から鍛錬に明け暮れたのだ。


 目指すべき方向をしかと定めた血腥ちなまぐさい育成は、シルティの肢体を速度とキレに著しく特化させた。もはやシルティにとって、瞬時に動いて瞬時に止まるのはほとんど呼吸と同じようなものである。

 裏を返せばシルティには、瞬発的に動き出せなかった、思い通りに止まれなかった、そういった経験が圧倒的に不足していた。

 彼女にとって瞬間的な加減速とは、『できないわけがない行為』なのだ。

 だからだろう。今の体重では動き出し難い、止まり難い、という発想が生まれる余地がなかった。

 こうしてはっきり言われるまで、こんな単純なことに気付くことができなかった。


「ああ……なんで気付かなかったんだろ。んふっ。んふふふふふふっ」


 天の啓示を受けたような晴れやかな気分だ。漏れ出す笑いが止まらない。


 一般的に、体重操作の訓練ではまず身体を重くすることを学ぶ。身体が軽い感覚より身体が重い感覚の方が容易に再現できるからだ。例えば、全身を包み込む重い鎧を纏って日常生活を送ればいい。重鎧を纏った身体自然な状態であると心の底から妄信できれば、鎧を脱いだ状態でも体重を増すことができるようになる。

 そして、体重が増加した状態を自然と思えるならば、そこから元の体重に戻すことは、身体を軽量化するのと同じことだ。その感覚を延長できれれば、元の体重よりも少々軽くすることはそう難しいことではない。

 体重操作の本質はたったこれだけである。

 シルティもここまでは故郷で修めていたので、体重の多少の増減は可能だった。


 問題となるのは、体重を増減できる幅、そして増減させる際の変化速度。

 これを向上させるには、ひたすら、ひたすら、ひたっすらに体重の増減を繰り返し、身体に感覚を叩き込むしかない。地道で繊細極まる鍛錬だ。戦闘に使える域に到達するまでに、五年、十年。才能如何いかんによっては生涯を賭しても至れないということもあるらしい。


 今日からでも。いや、今からでも。体重を気にして生きていこう。

 シルティは固く決意し、そして、深々と頭を下げる。


「ありがとうございます、ヴィンダヴルさん。必ず、習得します」

「いや、俺が嬢ちゃんに教えてえのは体重操作じゃねんだがよ」

「えっ? ……あ。そうでした……」


 体重操作に驚いたシルティが思わず説明を遮ってしまったが、そう言えば、足場を崩壊させない踏み込みの話だった。


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