第119話 永雪
彼らは身の危険を感じた瞬間、魔法『仕込骨抜』を自分で起動させる。
接近して獲物を両断することを基本とする狩猟者にとって、正々堂々がこれほどやり
かと言って、一般的な狩猟者は遠距離攻撃手段など持っていない。生命力の介在しない投石や投刃の
商品価値はガタ落ちなので、狩猟者としてはやはりやり難い。
人類種で黒曜百足との相性がいいと言えるのは
液体の
つまり、充分な量の
幸いにして、黒曜百足は罠が起動した地点に戻るという習性がある。出現することがわかっているのだから、待ち伏せは容易い。
なお、シルティは限定的ながらも遠隔強化に至っているので、飛鱗〈
ただ、今回はどうしても
まず、追加でもう一度『仕込骨抜』に引っ掛かり、前回同様の手段で抜け出す。これで帯状の起点領域の走り方を把握できた。
よほどの障害物がない限り、黒曜百足は直線的に進みながら罠を仕掛けると聞いている。引き返してくるならば、この二点を結ぶ直線のどちらかから現れるはずだ。
素っ転んで股間を強打した場所と追加で引っ掛かった場所、その中間地点の
ここならば、どちらの方角から黒曜百足が戻ってきても見逃すことは無いだろう。
足場に登ると、視界が開ける。
ちょうど、猩猩の森が形成する樹冠ほどの高さだ。気持ちがいい。
視線を巡らせると、太陽とは逆の位置に分厚い雲塊がひとつあった。あれが今も降り続いているこの
地表と違って上方を遮るものが少ないため、雪の勢いが増したように感じる。なんとなく懐かしい感覚だ。故郷での冬の狩りはいつも雪の中だった。
(よし)
シルティは足場に左手を付いて身を低く保ち、抜き身の太刀を右肩に担いだ。
左の手のひらに感じる足場の硬さを頼もしく思いながら、シルティは嬉しそうに微笑んだ。
(いやー、ほんと、いい魔法だなぁ……)
琥珀豹の『珀晶生成』は実に恐ろしい魔法だが、同時に、物凄く便利だ。足場として空中に設置できるというのは本当に素晴らしい。通常では有り得ない条件での強襲を、こうも容易く実現してくれる。
狙いの黒曜百足は地上性であり、しかも目がかなり悪いらしいので、この高さに潜むシルティに気付くことはまずないだろう。
さて、当の立役者レヴィンはどうしているのかと言うと。
シルティの眼下で、とても楽しそうに遊んでいた。
助走をつけて摩擦消失空間へと飛び込み、腹這いになって、つるーん。
空間の端に到着したら数歩距離を取り、再び助走をつけて、つるーん。
もう結構な回数を滑って往復しているというのに、一向に飽きる様子はない。かつてレヴィンをレヴィンと名付けたあの日、入り江の波打ち際で夢中になっていた姿を思い出す
(最近、大人っぽくなってきたと思ってたけど……)
まだまだ可愛いとこあるなぁ、と笑いながら、シルティは足場を指の爪でノックして合図を送る。コツコツコツ。回数は三回。事前にノックの回数で方向を伝えられるよう示し合わせていた。三回は『最初の罠の方』だ。
シルティの霊覚器は、この場に迷いなく近付いてくる虹色の影をしっかりと捉えていた。木々の生命力に重なる百足の姿。精霊の目が
レヴィンがノックの音に反応し、耳介をぴくんと跳ねさせる。合図はしっかり伝わったらしい。レヴィンは控えめな速度で摩擦消失空間に飛び込むと、いくつかの小さな珀晶に身体をぶつけるようにして、空間中央付近に上手く止まった。
その状態で、さも立ち上がろうと頑張っているような動きを始める。
(んふ)
必死さの滲む見事な囮っぷりだ。
意外と演技派なレヴィンである。
(さて)
呼吸を数えて待つ。
三、二、一。
予想通りのタイミングで、黒曜百足が姿を現した。
(うおー。上から見ると、ほんとにでっかい百足だなぁ……)
やや平べったいその身体の長さは、
薄暗い森の下でも艶やかさを主張する黒い
死骸を魔道具の素材としたあと、余った外骨格の端材を流用できるので、値段を安く抑えられるのだろう。
(んん。あの尻尾が罠を塗りたくってるのか。長いなー。……でも、うーん……触覚には、ちょっと見えないな?)
やたらと長い触角と
黒曜百足の身体は両端に頭部があるようにも見える、と聞いていたのだが、こうして上から俯瞰すると首を傾げざるを得ない。
素人のシルティが見ても触角と
なにより、東部に存在する巨大で極太の毒牙が著しく目立っている。よほど焦っていなければ頭と尻を見間違えることはなさそうだ。仕入れた情報は少し誇張された表現なのかもしれない。
(※ムカデの毒牙は
黒曜百足は二本の触手を個別にピクピクと動かしながら、罠にかかっているレヴィンへ頭部を向ける。
レヴィンはこれ見よがしに四肢を突っ張り、身体を持ち上げようとして、つるんと体勢を崩した。四肢と尻尾を振り回して足掻いて見せる。
迫真の演技だ。
しかし残念ながら、距離がありすぎて、黒曜百足には多分見えていない。
虫の
(さて、もうちょっと近寄ってくれたら……お)
跳び掛かって斬るには少し遠い。距離的には充分届くのだが、森の中は障害物が多いのだ。もう少し接近してくれと願っていると、黒曜百足がレヴィンに向かって前進を始めた。規則正しく動かされる歩肢は体側で
淀みのない
舌舐めずりをするような心境で、シルティは太刀の
もう少し来い。
もう一歩来い。
水平距離、二十歩。
その瞬間、シルティは軽やかに跳んだ。
生き物を殺すための跳躍とは思えない、ふわりとした優しい放物線。両手で握る太刀を左肩に担ぐと、自然、右の
元々シルティは、これを再現した魔術を足場として使えればと考えていたのだ。
だが、魔術とシルティ、お互いの特性が思いのほか上手く噛み合い、『これ遠隔の強化もいけるんじゃ?』と思ったある日から、意識が斬撃へとどんどん傾倒していき、いつしか革鎧を発注した当初の思惑は忘れかけていた。
しかし、あの日。
シルティは一度だけ、ほんの軽い跳躍だったが、飛鱗を足場として使っていた。
まぁ、興奮の
シルティは飛鱗を足場として使うことをようやく思い出し、しっかりと練習して、そして確信した。
今の自分ならば。
十全に強化した飛鱗の八枚重ねならば。
本気の踏み込みをも
野蛮に
集中によって引き延ばされた時間の中、視界の中央に黒曜百足の姿を据える。
囮を担うレヴィンに釘付けで、こちらには全く気付いていない。
必殺の状況。殺せないわけがない。
「ふッ!」
鋭い呼気と共に放たれるのは、脚力と重力と全体重を余すことなく注ぎ込んだ渾身の斬り落とし。
新たな
ああ。
落下の衝撃を膝で吸収、斬撃の勢いと混ぜ合わせて流用し、身体を回転させつつ僅かな跳躍。体軸が地面と水平になる体勢から、自らの真下に位置する外骨格へ向けて、鉛直の円を描く左薙ぎ。すぱり。
ああ。脳が痺れる。
黒曜百足の背中を踏み台にし、一歩、左前へ。黒曜百足を乗り越え、着地のついでに右袈裟で下半身を割断。ざぱり。
嗚呼。脳が
即座に離脱。大きく間合いを取った。
「っは……」
だが、黒曜百足の誇る最強の
ただそもそも、今のシルティに、斬った獲物へ気を配る余裕などなさそうである。
「はぁぁ……っはあぅ……」
湿度の高い溜息を繰り返す。
両手で
木漏れ日の中に舞い散る
黒曜百足の透明な体液に濡れた、世にも美しい
なんて素晴らしい
あまりにも鋭利で。
あまりにも美しく。
あまりにも、速い。
嗚呼。
私の
「んふっ、ふふふふ……うふっ……ぃひっ、ひ、んひひひひ……っ」
この上なくだらしない表情で、肩をひくひくと震わせ続ける。
「んッ……んンッ! ……ふぅ。よし。少し、落ち着こう。……ふふっ」
ひとしきり悦に入ってようやく(少々)落ち着いたシルティは、懐から取り出した大きなハンカチで刀身を丁寧に
白みがかった銀の刃。
雪の舞い散る環境だからだろうか。
今のシルティには、猛吹雪の向こうに透けて滲む太陽のような輝きに思えた。
「んふふ……。本当に最高だったよ。身体が全部、雷になったみたいだった……」
実際のところ、これは竜殺しという実績が生み出したシルティ自身の飛躍でもあったのだが……シルティの主観では、全て、
振るえばその
味わい続けたらなにか致命的なところに行き付いてしまいそうな、甘美な怖気を
だが、もう、逃げられない。
また斬りたい。
もっと斬りたい。
知ってしまったら手放せない。
この太刀には、依存性がある。
「
シルティは一つ頷き、抜身の太刀を抱き締めた。
「〈
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