第119話 永雪



 黒曜百足こくようムカデ斬り合うのは、岑人フロレス以外の人類種には難しい。


 彼らは身の危険を感じた瞬間、魔法『仕込骨抜』を自分で起動させる。曳航肢えいこうしの生えた尻を地面に叩きつけることで、罠の設置から起動までを一挙動に終わらせることが可能なのだ。

 接近して獲物を両断することを基本とする狩猟者にとって、正々堂々がこれほどやりにくい相手もそうはいないだろう。近寄れば立てず動けず、得物を振るえばすっぽ抜けるではどうにもならない。近接戦闘では分が悪すぎる。


 かと言って、一般的な狩猟者は遠距離攻撃手段など持っていない。生命力の介在しない投石や投刃のたぐいで黒曜百足の外骨格を貫くのは、たとえ鉱人ドワーフの膂力で投げたとしてもまず無理だ。生命力霧散作用を持つ霧白鉄ニフレジスを好きなだけ投げられる森人エルフならば仕留めることは可能だが、よほどコントロールに優れていなければ死骸はボロボロになってしまうだろう。

 商品価値はガタ落ちなので、狩猟者としてはやはりやり難い。


 人類種で黒曜百足との相性がいいと言えるのは岑人フロレスくらいのものだ。

 液体の触手うでを持つ彼らの手のひらは、他の人類種とは比べようもなく変幻自在であり、あらゆる凹凸を隙間なくぴったりと包み込める。摩擦が消失していたとしても、岑人フロレス把持はじした得物が遠心力ですっぽ抜けることはない。

 つまり、充分な量の天峰銅オリハルコンを身に纏っていれば、岑人フロレスは摩擦消失空間の外から触手うでを伸ばして黒曜百足を直接斬ることできた。


 岑人フロレス以外の人類種が黒曜百足こくようムカデを狩ろうとするならば、有効な手段は奇襲である。相手がこちらに気付く前に、摩擦消失空間を展開される前に、肉薄してぶった斬って仕留めるのだ。

 幸いにして、黒曜百足は罠が起動した地点に戻るという習性がある。出現することがわかっているのだから、待ち伏せは容易い。



 なお、シルティは限定的ながらも遠隔強化に至っているので、飛鱗〈瑞麒みずき〉や〈嘉麟かりん〉を操作すれば摩擦消失空間に踏み込むことなく、真正面から黒曜百足を斬り刻むことができる。

 ただ、今回はどうしても真銀ミスリルの太刀で斬りたかったので、定跡通り奇襲を採用することにした。



 まず、追加でもう一度『仕込骨抜』に引っ掛かり、前回同様の手段で抜け出す。これで帯状の起点領域の走り方を把握できた。

 よほどの障害物がない限り、黒曜百足は直線的に進みながら罠を仕掛けると聞いている。引き返してくるならば、この二点を結ぶ直線のどちらかから現れるはずだ。

 素っ転んで股間を強打した場所と追加で引っ掛かった場所、その中間地点の直上ちょくじょうに珀晶の足場を生成してもらい、シルティがその上で身を潜めることにした。

 ここならば、どちらの方角から黒曜百足が戻ってきても見逃すことは無いだろう。


 足場に登ると、視界が開ける。

 ちょうど、猩猩の森が形成する樹冠ほどの高さだ。気持ちがいい。

 視線を巡らせると、太陽とは逆の位置に分厚い雲塊がひとつあった。あれが今も降り続いているこの風花かざはなの出処だろう。

 地表と違って上方を遮るものが少ないため、雪の勢いが増したように感じる。なんとなく懐かしい感覚だ。故郷での冬の狩りはいつも雪の中だった。


(よし)


 シルティは足場に左手を付いて身を低く保ち、抜き身の太刀を右肩に担いだ。

 鬣鱗猪りょうりんイノシシの革鎧が備える十二枚の飛鱗のうち、半数を超える八枚を射出しており、全てをぴたりと重ねた状態で頭上に滞空させる。

 左の手のひらに感じる足場の硬さを頼もしく思いながら、シルティは嬉しそうに微笑んだ。


(いやー、ほんと、いい魔法だなぁ……)


 琥珀豹の『珀晶生成』は実に恐ろしい魔法だが、同時に、物凄く便利だ。足場として空中に設置できるというのは本当に素晴らしい。通常では有り得ない条件での強襲を、こうも容易く実現してくれる。

 狙いの黒曜百足は地上性であり、しかも目がかなり悪いらしいので、この高さに潜むシルティに気付くことはまずないだろう。


 さて、当の立役者レヴィンはどうしているのかと言うと。

 シルティの眼下で、とても楽しそうに遊んでいた。

 助走をつけて摩擦消失空間へと飛び込み、腹這いになって、つるーん。

 空間の端に到着したら数歩距離を取り、再び助走をつけて、つるーん。

 もう結構な回数を滑って往復しているというのに、一向に飽きる様子はない。かつてレヴィンをレヴィンと名付けたあの日、入り江の波打ち際で夢中になっていた姿を思い出す大燥おおはしゃぎっぷりだ。


(最近、大人っぽくなってきたと思ってたけど……)


 まだまだ可愛いとこあるなぁ、と笑いながら、シルティは足場を指の爪でノックして合図を送る。コツコツコツ。回数は三回。事前にノックの回数で方向を伝えられるよう示し合わせていた。三回は『最初の罠の方』だ。

 シルティの霊覚器は、この場に迷いなく近付いてくる虹色の影をしっかりと捉えていた。木々の生命力に重なる百足の姿。精霊の目がもたらす景色は相変わらず遠近感に乏しいが、物質眼球の視界と照らし合わせればある程度間合いを把握できる。

 要撃ようげきの瞬間は間もなくだ。

 レヴィンがノックの音に反応し、耳介をぴくんと跳ねさせる。合図はしっかり伝わったらしい。レヴィンは控えめな速度で摩擦消失空間に飛び込むと、いくつかの小さな珀晶に身体をぶつけるようにして、空間中央付近に上手く止まった。

 その状態で、さも立ち上がろうと頑張っているような動きを始める。


(んふ)


 必死さの滲む見事な囮っぷりだ。

 意外と演技派なレヴィンである。


(さて)


 呼吸を数えて待つ。

 三、二、一。

 予想通りのタイミングで、黒曜百足が姿を現した。


(うおー。上から見ると、ほんとにでっかい百足だなぁ……)


 やや平べったいその身体の長さは、嚼人グラトン成人男性の二割か三割増しほど。成虫では五割増しに達するというから、これは少し小さめの個体かもしれない。といっても、シルティの身長を基準とするならこれこそが五割増しだ。充分にでかい。

 薄暗い森の下でも艶やかさを主張する黒い背版はいばん。率直に表現して彼らはあまり人類種に好まれる外見ではないのだが、しかしこの外骨格には美的価値が認められており、フォーマルな場で身に付ける装身具アクセサリーとしても需要があるらしい。黒色を呈する透明度の低い宝石――黒曜石や黒玉ジェットなど――の比較的安価な代用品だとか。

 死骸を魔道具の素材としたあと、余った外骨格の端材を流用できるので、値段を安く抑えられるのだろう。


(んん。あの尻尾が罠を塗りたくってるのか。長いなー。……でも、うーん……触覚には、ちょっと見えないな?)


 やたらと長い触角と曳航肢えいこうし

 黒曜百足の身体は両端に頭部があるようにも見える、と聞いていたのだが、こうして上から俯瞰すると首を傾げざるを得ない。

 素人のシルティが見ても触角と曳航肢えいこうしの差は一目瞭然だ。長さこそほぼ同じだが、角度も、動かし方も、全く違う。触覚の方はかなり柔軟そうに見えるが、逆に曳航肢は非常に硬質そうに見えた。

 なにより、東部に存在する巨大で極太の毒牙が著しく目立っている。よほど焦っていなければ頭と尻を見間違えることはなさそうだ。仕入れた情報は少し誇張された表現なのかもしれない。

(※ムカデの毒牙は顎肢がくしと呼ばれるもので、基部に毒腺を持つあしの一種です。なので、毒牙ではなく毒爪と言う方が正しいかもしれません)



 黒曜百足は二本の触手を個別にピクピクと動かしながら、罠にかかっているレヴィンへ頭部を向ける。

 レヴィンはこれ見よがしに四肢を突っ張り、身体を持ち上げようとして、つるんと体勢を崩した。四肢と尻尾を振り回して足掻いて見せる。

 迫真の演技だ。

 しかし残念ながら、距離がありすぎて、黒曜百足には多分見えていない。

 虫のたぐいは得てして静止視力が弱いものだが、複眼を持たない百足の類は特に弱い傾向がある。黒曜百足の目は三対六つの単眼のみ。やはり静止視力は弱いはずだ。魔法『仕込骨抜』ならば視力に頼らず食事にありつけるので、生活には困らないのだろう。


(さて、もうちょっと近寄ってくれたら……お)


 跳び掛かって斬るには少し遠い。距離的には充分届くのだが、森の中は障害物が多いのだ。もう少し接近してくれと願っていると、黒曜百足がレヴィンに向かって前進を始めた。規則正しく動かされる歩肢は体側でみつを作り、前から後ろへと流れていく。

 淀みのない疎密波そみつはは恐ろしくなめらかだが、率直に言って、速度は遅かった。肉食生物が獲物に向かう動きにしてはかなりのんびりしている。『仕込骨抜』で捕らえた獲物が逃げることなど考えていないのかもしれない。


 舌舐めずりをするような心境で、シルティは太刀のつかを両手で握り直した。

 もう少し来い。

 もう一歩来い。

 水平距離、二十歩。


 その瞬間、シルティは軽やかに跳んだ。

 生き物を殺すための跳躍とは思えない、ふわりとした優しい放物線。両手で握る太刀を左肩に担ぐと、自然、右の肘窩ちゅうかが笑みを浮かべる口元を覆い隠した。腰をひねって腹筋を引き絞り、莫大な暴力を迅速に蓄積。爛々と輝く両目で獲物を見つめるシルティの背後では、八枚の飛鱗が重なった状態で静止している。


 鬣鱗猪りょうりんイノシシがその身に宿す魔法『操鱗聞香そうりんもんこう』。

 元々シルティは、これを再現した魔術を足場として使えればと考えていたのだ。

 だが、魔術とシルティ、お互いの特性が思いのほか上手く噛み合い、『これ遠隔の強化もいけるんじゃ?』と思ったある日から、意識が斬撃へとどんどん傾倒していき、いつしか革鎧を発注した当初の思惑は忘れかけていた。

 しかし、あの日。

 重竜グラリアと楽しく踊った、あの日、あの時。

 シルティは一度だけ、ほんの軽い跳躍だったが、飛鱗を足場として使っていた。

 まぁ、興奮の最中さなかまろび出た本能というか、ほとんど無意識の行動だったため、後日じっくりと思い出を噛み締めるまで忘れていたのだが……それはともかく。

 シルティは飛鱗を足場として使うことをようやく思い出し、しっかりと練習して、そして確信した。

 今の自分ならば。

 十全に強化した飛鱗の八枚重ねならば。

 本気の踏み込みをもしかと支えると。



 野蛮にあでやかに笑いながら、シルティがくうを蹴る。陶器と陶器を擦り合わせるような軋轢音を立てながらも、飛鱗はシルティの脚力をしっかりと受け止めてくれた。重力の愚鈍さを嘲笑うような速度で、鋭角に墜落。

 集中によって引き延ばされた時間の中、視界の中央に黒曜百足の姿を据える。

 囮を担うレヴィンに釘付けで、こちらには全く気付いていない。

 必殺の状況。殺せないわけがない。


「ふッ!」


 鋭い呼気と共に放たれるのは、脚力と重力と全体重を余すことなく注ぎ込んだ渾身の斬り落とし。

 新たな太刀うでが放つ寒々しい銀煌の刃は黒曜百足の頸部を音もなく断ち、のみならず、そのまま地面を

 ああ。

 落下の衝撃を膝で吸収、斬撃の勢いと混ぜ合わせて流用し、身体を回転させつつ僅かな跳躍。体軸が地面と水平になる体勢から、自らの真下に位置する外骨格へ向けて、鉛直の円を描く左薙ぎ。すぱり。

 ああ。脳が痺れる。

 黒曜百足の背中を踏み台にし、一歩、左前へ。黒曜百足を乗り越え、着地のついでに右袈裟で下半身を割断。ざぱり。

 嗚呼。脳がとろけて馬鹿になる。

 即座に離脱。大きく間合いを取った。


「っは……」


 鷲蜂わしバチと同様、黒曜百足の生命力も凄まじいものがあるようだ。まばたき一つの間に三度輪斬りにされても即死はしなかった。四分割された身体のそれぞれがビチビチと屈伸を繰り返し、うぞうぞと元気に動く歩肢は地面を不完全に掻いている。とその時、歩肢のうちのほぼ全てが根本からポロリと外れて地面に落ちた。神経節を分断されたことにより何らかの反射が起きたのか、全身に渡って自切じせつが起きたようだ。

 だが、黒曜百足の誇る最強の武器あし――顎肢毒牙に関しては自切される機能が存在していない。今もなお健在である。正中線を三度も分断したのだから、黒曜百足が魔法を使うことはないだろうが、あの毒牙がある限り完全に無力化したとは言い難い。不用意に近づいて咬まれれば無事では済まないだろう。


 ただそもそも、今のシルティに、斬った獲物へ気を配る余裕などなさそうである。


「はぁぁ……っはあぅ……」


 湿度の高い溜息を繰り返す。

 両手でつかを握り、刀身を立て、みねを舐められるほどの距離でじっとりと眺める。


 木漏れ日の中に舞い散る風花かざはなが、この太刀の初陣を祝っているかのようだった。

 黒曜百足の透明な体液に濡れた、世にも美しい真銀ミスリル艶姿あですがた

 なんて素晴らしい刃物うでなのだろう。

 あまりにも鋭利で。

 あまりにも美しく。

 あまりにも、速い。


 嗚呼。

 私の太刀からだって、ほんとにすごいな。


「んふっ、ふふふふ……うふっ……ぃひっ、ひ、んひひひひ……っ」


 この上なくだらしない表情で、肩をひくひくと震わせ続ける。


「んッ……んンッ! ……ふぅ。よし。少し、落ち着こう。……ふふっ」


 ひとしきり悦に入ってようやく(少々)落ち着いたシルティは、懐から取り出した大きなハンカチで刀身を丁寧にぬぐった。

 白みがかった銀の刃。

 雪の舞い散る環境だからだろうか。

 今のシルティには、猛吹雪の向こうに透けて滲む太陽のような輝きに思えた。


「んふふ……。本当に最高だったよ。身体が全部、雷になったみたいだった……」


 がパッと光ったらもう大地肢体に届いている、落雷のような思考速度。その思考を追い抜くように動く、キレッキレの肢体。

 実際のところ、これは竜殺しという実績が生み出したシルティ自身の飛躍でもあったのだが……シルティの主観では、全て、真銀ミスリルの太刀のおかげとなっていた。

 振るえばその切先きっさき塵芥ちりあくたほどの齟齬も生まれない。正真正銘、想像通りの太刀筋を斬りたいように辿ってくれる、愛らしくも恐ろしい刃。いとしすぎて自分の指先よりも精密に動かせるくらいだ。月光をし取った鉱人ドワーフたちの究極に完全な肉体の操作感覚に、半歩だけ踏み込めたような、そんな陶酔感があった。

 味わい続けたらなにか致命的なところに行き付いてしまいそうな、甘美な怖気をもたらす冷たい刃。


 だが、もう、逃げられない。

 また斬りたい。

 もっと斬りたい。

 知ってしまったら手放せない。

 この太刀には、依存性がある。


真銀ミスリル……銀……。真珠……。あ、銀花とか……雪……。でも雪って溶けちゃうしな……。ん-……末永く付き合っていきたいし……。うん」


 シルティは一つ頷き、抜身の太刀を抱き締めた。


「〈永雪ながゆき〉。きみの名前は〈永雪〉だ。よろしくね! ……うふ」


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