第118話 黒曜百足
猩猩の森ではかなり奥まった領域に生息する地上性の魔物で、外見はいわゆる
身体の前後末端にはそれぞれ
一見して数え切れないほどの歩肢も、堅固な外骨格も、触角や
非常に獰猛な性格で、主食は自身と同じく地上性の動物たち。
また、徘徊の際の進路が特徴的で、どうしても迂回せねばならない場合を除いて極めて直線的を進むという。といっても、長大かつ多肢を備えた身体は
獲物を探し回るというより、ただ愚直に、真っ直ぐ進むだけ。
だというのに、彼らが飢えることはない。
なぜか。
彼らの飽食の理由は、その身に宿す魔法にあった。
魔法『
歩行する黒曜百足は、尻から伸びる二本の長い
無論、ただ転ぶだけでは終わらない。加重点を中心とした一定範囲内ではあらゆるものが滑るのだ。
誇張ではなく、
地面を踏み締める靴の裏はもちろん、得物の柄を握る手のひらも、衣類に触れる素肌も、この空間に含まれる物体は全てがつるんつるんになる。立ち上がることも困難で、なんとか立てたとしても機敏な移動は不可能となり、当然ながら武器もまともには扱えない。〈冬眠胃袋〉のハーネスや鬣鱗猪の革鎧のように身体をしっかりと包み込む形状でなければ、身に付けた衣類もずり落ちてしまう。発声が上手くいかないことから、どうやら空気すらもその例外ではないようだ。
また、黒曜百足は離れていても罠の作動を感知できるらしく、獲物が掛かるとすぐに引き返してくる。摩擦の消失効果も黒曜百足自身は対象外のようで、行動不能に陥るのは獲物だけだ。産まれたての小鹿のようになった獲物をひと咬みすることは容易い。
ほぼ完全な直線上を進むという生態も、不規則に蛇行するよりも獲物を罠に掛けられる範囲が広くなるという理由からだろう。
(これが『仕込骨抜』か。すっごいなぁ。見抜ける気がしない)
地面にへばりつきながら目を凝らし、シルティは素直に感心した。
精霊の目は密度の高い生命力を認識できるが、あらゆる魔法の全てをつまびらかに暴くというわけではない。例えば『
シルティは精霊の目を獲得したあと、『頬擦亭』を
要するに、遠方から紅狼に注視されていたとして、シルティが『生命眺望』で視認されていることを霊覚器で察知することは不可能、当然それを形相切断で斬ることも不可能、ということである。
この『仕込骨抜』もあれに近い。こうして摩擦を消失させている今ならば、シルティにも周辺がうっすらと虹色を呈しているように見えるが、罠が作動するまでは完全に静謐を貫いていた。黒曜百足は足跡をほとんど残さないため、物質眼球で見破ることも難しいだろう。
つまり今のシルティには、『仕込骨抜』を事前に見抜く有効な手段がない。
極めて露見し難く、作動すれば獲物を長時間に亘って拘束し続ける。
総じて、
シルティが単独でこの罠にかかってしまったら、抜け出すのには相当な時間がかかるだろう。正直、黒曜百足が戻って来るより早く抜け出せる気はしなかった。無様に転がったまま、胸部の〈
まぁ、レヴィンが共にいてくれるなら、この罠から抜け出すのは容易いのだが。
「ふたつ」
シルティの端的な要請に従い、レヴィンは珀晶を二つ生成した。ちょうどシルティの手元の位置、瓢箪のような形状。シルティはにんまりと笑みを浮かべた。シルティが望んだ形状にどんぴしゃりだ。妹との以心伝心っぷりに心が和むシルティである。
親指と人差し指でしっかりとした輪を作り、両手でそれぞれ、瓢箪形珀晶のウエスト部分を
無論、この珀晶と指の間もつるんつるんだが、こうして
シルティは空中に固定された珀晶を支点として身体を強く引っ張り、勢いをつけ、タイミングよく手を離した。
(お。おお。これちょっと楽しいかも)
シルティの身体は若干の回転を伴いつつ無抵抗に地面を滑り、理想的な等速直線運動を経たあと、唐突にビタリと止まった。
(おっ、と。ここまでか)
無事に効果の範囲外に出られたらしい。
魔法『仕込骨抜』の摩擦消失空間は、地下を除いた半球状に展開され、また
「あ、あーあー、おー。よし。声も元通りだ。ありがと、レヴィン」
シルティは立ち上がりつつ抜刀し、速やかに周囲を見回した。
調べた情報によれば、罠から抜け出したあとにその場でしばらく待っていると、黒曜百足がのこのこと現れるという。おそらく、罠の作動を感知することはできるが、作動後に罠から獲物が抜け出したことを察知することはできないのだろう。
(よし。斬ろう)
新しい太刀の初陣として蒼猩猩を探していたシルティだが、別に獲物にこだわりがあるわけではない。正直、生きたお肉を斬れるならばなんでもよかった。
ただ、黒曜百足を斬ってアルベニセに持ち帰ったとして、その買い手を上手く見つけられるかどうかは定かではない。少なくとも、直前に確認した『琥珀の台所』の掲示板には黒曜百足の名はなかったはず。
(ま、なんとかなるでしょ!)
とはいえ、あらゆる摩擦を消失ないし低減できる魔法『仕込骨抜』にはさまざまな利用価値があると聞く。軸受や
「レヴィン、抜け出せる?」
シルティが声を掛けると、レヴィンは首を伸ばして自らの背後を目視し、珀晶を生成した。シルティが使わせてもらったのと同様の瓢箪形。骨格上、人類種に比べて
瓢箪珀晶を手掛かりならぬ
レヴィンはすっくと立ち上がり、そして、先ほどまで自分が捉えられていた空間をじっと見た。
見開かれた目は爛々と輝き、
どう見ても、うずうずしていた。
どうやら、地面を滑るのが思いのほか楽しかったらしい。
「ふふ。レヴィン。私、その辺に隠れてるからさ。黒曜百足が来るまで
ヴォゥン。
レヴィンが嬉しそうに肯定の唸り声をあげた。
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