第118話 黒曜百足



 黒曜百足こくようムカデ

 猩猩の森ではかなり奥まった領域に生息する地上性の魔物で、外見はいわゆる百足ムカデに酷似している。多数の体節から成る細長い身体と、体節それぞれから側方へ飛び出す付属肢ふぞくしが特徴的だ。体長は最大で嚼人グラトン成人男性身長の五割増しほど。体重を細かく分散する彼らの歩行は、巨体でありながら静かで、素早く機敏、しかも足跡あしあとを残さない。


 身体の前後末端にはそれぞれ一対いっついずつ、極端に長い触角のようなものが伸びており、一瞥して両側に頭部があるようにも見えるという。もちろん実際の頭部は片方だけだ。お尻から伸びる方の二本は曳航肢えいこうしと呼ばれるもので、あしの一形態ではあるが、歩行には使われない。

 一見して数え切れないほどの歩肢も、堅固な外骨格も、触角や曳航肢えいこうしや毒牙(顎肢がくし)も、全ての部位が漏れなく艶のある美しい黒色を呈しているらしく、これがそのまま名前の由来となっていた。


 非常に獰猛な性格で、主食は自身と同じく地上性の動物たち。紅狼くれないオオカミぐらいの大きさであれば難なく食べてしまう。また、百足としては珍しく完全な昼行性であり、気温が上がり始めると森を徘徊し、日が落ちると木の根元などで小さく丸まって、樹液を吸いながら休息を取る。虫のたぐいは変温動物のため、冬場はどうしても活動が鈍るものだが、この黒曜百足は筋肉量が多いためなのか低温下でも活発に動けるようだ。

 また、徘徊の際の進路が特徴的で、どうしても迂回せねばならない場合を除いて極めて直線的を進むという。といっても、長大かつ多肢を備えた身体は登攀とはん能力に優れるため、大抵のものは彼らの障害物にはなり得ない。進路は事実上ほぼ完全な直線だ。

 獲物を探し回るというより、ただ愚直に、真っ直ぐ進むだけ。

 だというのに、彼らが飢えることはない。

 なぜか。

 彼らの飽食の理由は、その身に宿す魔法にあった。


 魔法『仕込骨抜しこみほねぬき』。

 歩行する黒曜百足は、尻から伸びる二本の長い曳航肢えいこうしで常に地面をなぞり、凶悪なを仕掛けている。シルティとレヴィンが無様に滑って転んだのは、この超常の罠にばっちり引っ掛かってしまったからだ。

 曳航肢えいこうしでなぞられた二本の線に挟まれる帯状の領域。これが、黒曜百足の仕掛ける罠の起点だった。この領域内にある程度の重圧が掛かった瞬間、その加重点を中心とした一定範囲内では突如としてあらゆるものが超常的なまでにようになるのだ。不意に踏み込めば、いや、そこにあるとわかって踏み込んだとしても、シルティたちのようにつるんと滑って無様に転ぶだろう。

 無論、ただ転ぶだけでは終わらない。加重点を中心とした一定範囲内ではあらゆるものが滑るのだ。

 誇張ではなく、


 地面を踏み締める靴の裏はもちろん、得物の柄を握る手のひらも、衣類に触れる素肌も、この空間に含まれる物体は全てがつるんつるんになる。立ち上がることも困難で、なんとか立てたとしても機敏な移動は不可能となり、当然ながら武器もまともには扱えない。〈冬眠胃袋〉のハーネスや鬣鱗猪の革鎧のように身体をしっかりと包み込む形状でなければ、身に付けた衣類もずり落ちてしまう。発声が上手くいかないことから、どうやら空気すらもその例外ではないようだ。

 また、黒曜百足は離れていても罠の作動を感知できるらしく、獲物が掛かるとすぐに引き返してくる。摩擦の消失効果も黒曜百足自身は対象外のようで、行動不能に陥るのは獲物だけだ。産まれたての小鹿のようになった獲物をひと咬みすることは容易い。鷲蜂わしバチの毒ほどではないにせよ、彼らの毒牙も強い麻痺毒を注入することができる。

 ほぼ完全な直線上を進むという生態も、不規則に蛇行するよりも獲物を罠に掛けられる範囲が広くなるという理由からだろう。


(これが『仕込骨抜』か。すっごいなぁ。見抜ける気がしない)


 地面にへばりつきながら目を凝らし、シルティは素直に感心した。

 精霊の目は密度の高い生命力を認識できるが、あらゆる魔法の全てをつまびらかに暴くというわけではない。例えば『生命眺望せいめいちょうぼう』などは、見ようとしてもほぼ無意味である。

 紅狼くれないオオカミの魔法『生命眺望』は、生命力そのものを視認できるという精霊の目によく似た働きを持つ魔法だ。しかし、人類種が後天的に構築した霊視覚などとは比較にならない高い感度と長い視程を誇る。行使に際して両目が真っ赤に輝くのが特徴的だが、なんのために光るのかはわかっていない。魔法をまだ使えない幼い個体が親族たちを見失わないためではないか、などと考えられている。


 シルティは精霊の目を獲得したあと、『頬擦亭』を定宿じょうやどとする紅狼ルドルフに魔法を使うところを見せて貰った。魔法の行使中、ルドルフの両目は真っ赤に輝き、同時に眼球への生命力の集中も認識できたのだが……彼が視認する空間そのものには、生命力が介在していなかったのだ。

 要するに、遠方から紅狼に注視されていたとして、シルティが『生命眺望』で視認されていることを霊覚器で察知することは不可能、当然それを形相切断で斬ることも不可能、ということである。


 この『仕込骨抜』もあれに近い。こうして摩擦を消失させている今ならば、シルティにも周辺がうっすらと虹色を呈しているように見えるが、罠が作動するまでは完全に静謐を貫いていた。黒曜百足は足跡をほとんど残さないため、物質眼球で見破ることも難しいだろう。

 つまり今のシルティには、『仕込骨抜』を事前に見抜く有効な手段がない。


 極めて露見し難く、作動すれば獲物を長時間に亘って拘束し続ける。

 総じて、に近い非常に悪辣な魔法だ。

 シルティが単独でこの罠にかかってしまったら、抜け出すのには相当な時間がかかるだろう。正直、黒曜百足が戻って来るより早く抜け出せる気はしなかった。無様に転がったまま、胸部の〈瑞麒みずき〉や〈嘉麟かりん〉を操作して迎撃するしかないかもしれない。


 まぁ、レヴィンが共にいてくれるなら、この罠から抜け出すのは容易いのだが。


「ふたつ」


 シルティの端的な要請に従い、レヴィンは珀晶を二つ生成した。ちょうどシルティの手元の位置、瓢箪のような形状。シルティはにんまりと笑みを浮かべた。シルティが望んだ形状にどんぴしゃりだ。妹との以心伝心っぷりに心が和むシルティである。

 親指と人差し指でしっかりとした輪を作り、両手でそれぞれ、瓢箪形珀晶のウエスト部分をくくる。

 無論、この珀晶と指の間もつるんつるんだが、こうしてくくってしまえば確固たる手掛かりだ。鎖の輪というのは、どれだけ滑りやすい素材で出来ていたとしても、輪が切れない限りは外れない。

 シルティは空中に固定された珀晶を支点として身体を強く引っ張り、勢いをつけ、タイミングよく手を離した。


(お。おお。これちょっと楽しいかも)


 シルティの身体は若干の回転を伴いつつ無抵抗に地面を滑り、理想的な等速直線運動を経たあと、唐突にビタリと止まった。


(おっ、と。ここまでか)


 無事に効果の範囲外に出られたらしい。

 魔法『仕込骨抜』の摩擦消失空間は、地下を除いた半球状に展開され、またとしを経た個体ほど半径が長くなるという。この罠を仕掛けた個体の場合はおおよそ十歩ほどのようだ。百足狩りの数をこなせば、範囲の広さから個体の年齢を推測することもできるようになるかもしれないが、今のシルティには無理である。


「あ、あーあー、おー。よし。声も元通りだ。ありがと、レヴィン」


 シルティは立ち上がりつつ抜刀し、速やかに周囲を見回した。

 調べた情報によれば、罠から抜け出したあとにその場でしばらく待っていると、黒曜百足がのこのこと現れるという。おそらく、罠の作動を感知することはできるが、作動後に罠から獲物が抜け出したことを察知することはできないのだろう。


(よし。斬ろう)


 新しい太刀の初陣として蒼猩猩を探していたシルティだが、別に獲物にこだわりがあるわけではない。正直、生きたお肉を斬れるならばなんでもよかった。

 ただ、黒曜百足を斬ってアルベニセに持ち帰ったとして、その買い手を上手く見つけられるかどうかは定かではない。少なくとも、直前に確認した『琥珀の台所』の掲示板には黒曜百足の名はなかったはず。


(ま、なんとかなるでしょ!)


 とはいえ、あらゆる摩擦を消失ないし低減できる魔法『仕込骨抜』にはさまざまな利用価値があると聞く。軸受や摺動面しゅうどうめんの動作効率化は当然として、鎧の装甲とすることで加わる衝撃を著しく上滑りさせるというものもあるらしい。全く売れないということはないだろう。多分。


「レヴィン、抜け出せる?」


 シルティが声を掛けると、レヴィンは首を伸ばして自らの背後を目視し、珀晶を生成した。シルティが使わせてもらったのと同様の瓢箪形。骨格上、人類種に比べて前肢うでの器用さに劣るレヴィンは、物を掴んだり動かしたりする際には長い尾を用いていた。

 瓢箪珀晶を手掛かりならぬ掛かりとし、ウエスト部分に尾をぐるりと巻き付けて強く引っ張る。生命力で十全に強化した自慢の尻尾は見た目よりもずっと力強い。後ろ向きのまま滑らかに滑走し、無事に安定感のある地面に辿り着く。

 レヴィンはすっくと立ち上がり、そして、先ほどまで自分が捉えられていた空間をじっと見た。

 見開かれた目は爛々と輝き、洞毛ヒゲはピクピクと忙しなく微動して、尻尾はぴんと立っている。


 どう見ても、うずうずしていた。

 どうやら、地面を滑るのが思いのほか楽しかったらしい。


「ふふ。レヴィン。私、その辺に隠れてるからさ。黒曜百足が来るまであそ、……囮になっててくれる?」


 ヴォゥン。

 レヴィンが嬉しそうに肯定の唸り声をあげた。


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