第117話 風花



 新しい太刀を手に入れたシルティは、そのままの足で西門をくぐり、レヴィンと連れ立って猩猩の森へと走った。

 次なるマルリルとの言語学習は六日後の予定だ。普通ならば、蒼猩猩を二匹ばかり斬ってくるのに充分な時間である。しかし今は港湾都市アルベニセ主導の調査団が森を広く荒らし回った直後。マルリルの話によると、かなりの数の蒼猩猩が調査団の面々を襲ってきて、そして返り討ちにしたという。

 それらの死骸は武力要員たちの臨時収入になったらしいが、ともかく。

 問題は、複数の蒼猩猩の群れハーレムがリーダーを一斉に喪ったということだ。


 蒼猩猩は一匹のオスが複数のメスを囲い込み、五匹から十匹の群れを形成するという生態を持つ。メスと仔は基本的に住処すみかに引き籠って密集しており、手の届く範囲の植物を食べながらのんびりと過ごしているらしい。

 一方、群れのリーダーであるオスは自分の縄張りを極めて勤勉に見回る。その最中さいちゅうに異物を発見すると積極的に襲って巣に持ち帰り、家族で仲良く食べるのだ。


 さて、見回りに出たリーダーが戻ってこなかった場合、蒼猩猩のメスたちは群れのメンバーの若いオス(前リーダーの息子たち)から新リーダーを選出するか、あるいは外からオスがやってきて縄張りを乗っ取ることになるのだが、どちらにせよ多少の時間がかかる。

 つまり、今の猩猩の森を適当に歩いていても、蒼猩猩が襲って来ない確率が高いということだ。もっと奥地まで行かなければ。のんびりしていては、期日までに蒼猩猩を斬って帰れないかもしれない。


 左腰に吊るす真新しい太刀のつかを撫で、シルティは熱に浮かされたように微笑んだ。

 早く斬りたい。

 すぐ斬りたい。

 なんでもいいからとにかく斬りたい。


「レヴィン。今日は急ぐよ。しばらく走るから、頑張って付いて来てね?」


 シルティの声を聞いたレヴィンは好戦的に口唇をめくり上げ、長い牙を見せた。続いてやや威圧的な唸り声が響き、なめらかな背筋せすじで肩甲骨がボコリと浮き上がる。どうやら、シルティの『付いて来て』という言葉を軽い挑発と受け取ったらしい。

 そういうつもりの発言ではなかったのだが、まぁ、それならそれでいいか、とシルティは思い直した。


「んふふ。脚じゃ負けないよ」


 その戦闘技能の特性上、障害物競走では無類の強さを誇るシルティである。

 挑発的な笑みを浮かべ、シルティはレヴィンの鼻先をつっついた。


 子供相手に手加減をして負けてあげる、という教育法もあるだろう。初めての体験に気持ちの良い思い出を作り、褒め、以後の意欲を高めるために。

 しかしながら、蛮族にそのような教育法はなかった。

 もちろん、手加減はする。

 だが、負けてはあげない。

 最終的には容赦なく勝つ。

 そこで悔しさと憧憬を覚えぬ子は、戦士としての資質に欠けているという判断である。


「じゃ、、付いて来てね?」


 シルティは全力で走った。





 翌日。

 太陽が正中を過ぎた頃。

 ほとんど走るような速度で森を進んだ結果、シルティとレヴィンは猩猩の森のかなり奥地までたどり着いていた。しかし、やはりというかなんというか、狩りの結果はあまりかんばしくない。蒼猩猩が全く襲ってこないのだ。他の魔物も見当たらず、シルティの狩猟成果はゼロである。


(ぐぬぬ……)


 シルティはほぞを噛むような面持ちで周囲の気配を探っていた。

 森の中を走る障害物競走ではぶっちぎりの勝利を収めたシルティだったが、狩猟という観点で評価すると、今のところ完全にお荷物状態。右隣を歩くレヴィンは小鳥や小動物を『珀晶生成』で捕獲して食料確保に貢献しているというのに、シルティは歩くだけ。真銀ミスリルの太刀も鞘に納まったままだ。

 姉として立つ瀬がない、というのも辛いが。

 せっかく手に入れた太刀を抜けない、というのが辛すぎる。

 全身を雁字搦めに縛られて目前に美味しい料理を置かれたような、根源的な飢餓感。

 このままでは渇望で気が狂ってしまいそうだ。

 下生えを半長靴で静かに掻き分けながら、視覚、聴覚、嗅覚、霊覚、シルティはあらゆる感覚を振り絞った。

 なにか。ないか。斬ってもいいお肉は、ないのか。




 その後しばらく獣道を慎重に進んでいたシルティだったが、ふと、視界の上方になにか白いものがちらついた。

 即座に腰を落とし、右手を左腰へ、視線を上に。太刀を抜きかけて、気付く。


「おっ? おおっ。雪だ!」


 密生した木々の樹冠をすり抜けて、細かい氷片が舞い落ちてきていた。

 シルティの故郷はノスブラ大陸の北東にあり、険しい山のふもとということもあって降雪は日常の景色だったが、サウレド大陸は比較的温暖な気候である。この地に辿り着いてからは初めての雪だった。もう既に晩冬なので、もしかしたらこれがこの冬最初で最後の雪かもしれない。

 レヴィンもまた立ち止まって視線を向け、初めての現象を興味深そうに眺めている。


「レヴィンは初めて見るよね。これは雪っていうの。雨が凍ったもので、凄く寒い日に雨が降ると雪になるんだよ。……普通は、雨みたいに雲から落ちてくるんだけど……今は晴れてるね。珍しいな」


 樹冠の切れ目には澄み切った青空が広がっていた。

 晴天時の降雪は風花かざはなと呼ばれる。ここから見える範囲に雲は欠片ひとつないが、樹冠に隠れた位置に雪を降らせている雲があるのだろう。それが風で流れてきているのだ。森の中は静かなものだが、空の方では風が強いのか。

 シルティは右胸の飛鱗〈瑞麒みずき〉を操作し、舞い落ちてきた雪華のいくつかを柔らかく受け止めた。素肌で捕まえればすぐに溶けてしまいそうな儚い雪だが、気温に近い温度まで冷えている〈瑞麒〉ならば多少の猶予がある。

 雪を乗せた〈瑞麒〉をレヴィンの眼前に浮かべながら、シルティが講釈を垂れ流す。


「レヴィン見て。雪の粒って、たまにすっごく綺麗な形してるのがあるんだよ。それが六枚の花びらみたいだから、六花りっかとか銀花ぎんかとか呼ぶこともあるんだ」


 レヴィンがふんふんと鼻を鳴らしながら顔を近づけ、〈瑞麒〉の上を観察しようとする。が、吹き付けられた鼻息の温度で溶けてしまった。レヴィンが耳介をぺたりと寝かせながら喉を小さく鳴らす。儚すぎる雪を前に、なんともいえない表情だ。

 シルティはくすくすと笑いながら一度〈瑞麒〉の表面を拭いて水気を取り、改めて雪片を捕まえた。失敗を踏まえたレヴィンは〈瑞麒〉から少し距離を置きながら雪片を観察する。そして、すぐに夢中になった。対称的に成長できた雪の結晶は、自然界では類を見ないほどに精密な幾何学構造だ。レヴィンの好みにどんぴしゃりの造形だったらしい。

 レヴィンは早速とばかりに『珀晶生成』で雪を模造した。空中に黄金色の結晶が立て続けに咲き、景色を彩る。原寸大ではなく、シルティの手のひらほどに拡大されていて、結晶の構造がとてもわかりやすい。大部分は崩れた結晶だが、いくつか対称的に育ったものがあった。六角形の角板を核として樹枝状の腕が伸び、さらに腕の先にも板ができている、綺麗な雪片だ。なんとなく、風によく流されそうな形状である。

 シルティは〈瑞麒〉をしゅるると回転させて雪を振り落とし、右胸に戻した。随分とお気に入りのようだから、あとはもうレヴィン自身で雪片を捕まえて観察を継続するだろう。


「まぁ、なんでこういう形になるのかは私も知らないんだけど……。マルリル先生とかエアルリンさんだったら知ってるかな?」


 アルベニセに帰ったら聞いてみようかな、などと考えていたら。

 地面に付いた右足が、前方に滑った。

 それはもう見事に、つるんと。


「んあっ!?」


 咄嗟に踏ん張りを利かせた左足が、これまた見事につるりんと後方へと滑り、


「ぁぅぉ!?」


 両脚が前後に一直線を描く開脚を披露した挙句、


「ぐぇあっ!」


 シルティは左膝と恥骨を固い地面でズゴンと強打し、それはそれはみっともなく転んだ。

 そのままべちゃりと横倒しになり、股間を押さえながら静かに悶絶する。


(ぐぉ……いったいぃ……お、おまたが……)


 シルティのほぼ全体重を変換した衝撃が、シルティ自身の骨盤を貫いていた。

 睾丸がある関係上、股間というのは男性の急所として名高いが、実のところ女性にとっても急所である。なぜなら、股間は衝撃を吸収する緩衝剤筋肉がとても薄いからだ。

 苦痛を糧とする蛮族の娘とはいえ、無様に足を滑らせて前後にぱっかりと開脚し、股間を強打した激痛と恥ずかしさを強さに結び付けるのは、さすがに少し難しいらしい。

 羞恥で顔をほんのり染めながら、シルティは頭上を窺う。横並びで歩いていたので、その方向には可愛い妹がいるはずだ。

 妹に情けない姿を見せてしまった、とシルティは頬を染めていたが。


(な、え)


 なんと、レヴィンも転んでいた。

 シルティと違って特に負傷はしていないようだが、四肢を前後に伸ばした体勢で地面にぺったりと腹這いになり、目を大きく見開いている。自分が転んだことに心底驚いているような表情だ。


(こ、れは)


 頭上から落ちてくる雪に気を取られ、なにか滑りやすいものでも見落として踏みつけてしまったのかと思っていたが、これはおかしい。練達した戦士と抜群の安定性を誇る四足歩行動物が、まったく同時に同所で転ぶはずがない。

 シルティはすぐさま地面に左手を突き、身体を起こそうとした。だが、その手がつるりと滑り、再び体勢を大きく崩す。ずしゃりと音を立て、右肩が地面を打った。


(うおっ。……おぉ)


 つるんつるんである。

 指を地面に食い込ませようと力を込めるが、それすら上滑りしてしまって上手くいかない。力の方向を丁寧に調整し、地面へ垂直に力を込める。ようやく、少し食い込んだ。

 土で構成された自然の地面で、こんなことはありえない。

 つまり、なんらかの超常の発露だ。

 シルティの知識に、現状に該当するものがひとつある。


 敵の正体を看破したシルティは、レヴィンにその情報を伝えようと声を出した。


「ぇウぃン……ン、んん? あー、あー……んぁ?」


 が、なにやら喉の震え方がおかしい。


「……こへもへんにのか……。ん、んっ」


 声帯を通る空気がやたらとしている。痛みなどはないが、上手く声が出せない。


「……れ、うぃ、ん。これ、相手、わかる?」


 発音を精一杯に区切りながら問いかける。レヴィンは腹這いのままこくりと頷き、肯定の意を示した。レヴィンはとても勉強熱心である。その知識の触手が伸ばされる先は天文学だけではない。シルティと共に、アルベニセの付近に生息する魔物の知識はしっかりと修めている。シルティが教えるまでもなく答えに行き着いてくれたようだ。

 行使された魔法『珀晶生成』がレヴィンの回答をかたどる。

 細長い身体と無数の足を持つ、細部の造形に拘った虫の模型。

 やたらと写実的リアルな、黄金色の百足ムカデである。


「ふふ。せい、かい


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