第116話 完成
公衆浴場で初めて喉を
シルティは実に清々しい気分で目を覚ました。
港湾都市アルベニセが派遣した調査団は三日前に帰還している。当然、マルリルもだ。
マルリル曰く、シルティが
その結果、森の随所に残った痕跡から、
とはいえ、そもそも行政も竜の行動理由を特定できるとは考えていなかっただろう。野生動物のイレギュラーな行動の根拠を全て明らかにすることなど不可能だ。調査団の目的は
十数日間を費やした大規模な
その間、シルティはとても暇だった。
マルリルは不在。数少ない友人たちも仕事に忙しい。
狩猟もできず授業もできず暇を持て余したシルティは、晴れた日は都市の外へ赴き、アルベニセに程近い草原でレヴィンとの
レヴィンは
レヴィンと出会ってから八か月。年齢はおそらく生後十か月から十一か月ほど。身体も本当に大きくなってきた。日頃から自らを勤勉に追い込んでいる
がっつり組み合いさえすれば
レヴィンは間違いなく史上最強の琥珀豹へと成長するに違いない。
シルティは存分に姉馬鹿を発揮していた。
無論、刀を持てば、まだまだ負けるつもりはないが。
そうして、夕暮れ前まで姉妹の絆を深めたあと、アルベニセへと戻り、すぐに公衆浴場へ。
レヴィンの生成した模造〈玄耀〉で喉を裂き、声帯に生命力を集中させながら、自らの精霊の耳に届くような声の出し方を模索する。シルティは喉の構築を楽しんでいた。やはり痛いのはいい。実際はどうであれ、なにかを乗り越えている気がする。
また、霊覚器を
霊覚器、特に精霊の目というのは、とにかく便利だ。実際に獲得したからこそシルティは思い知った。視認できる距離はそう長くはないが、その間であれば、生命力の介在しない物質を全て透視できるようなもの。魔法『
性質上、森のような生命に満ち溢れた空間よりは、
だが先人曰く、これに頼りすぎるのはよくないという。
やはり生まれ持った自然な感覚器でないためか、霊覚器が
これを防ぐために、霊覚器を構築した者は閉じる感覚も養わなければならない。日常生活や睡眠中は霊覚器をしっかりと閉じ、生来の感覚器に身体を任せるのだ。
と言っても、喫緊の問題というわけではない。魔術と違って精霊術の歴史は長いので、症例自体は広く知られているのだが、この霊覚器による変調はそうそう発症するようなものではないようだ。閉じる感覚を掴めないまま三年四年と過ごせばどうかはわからないが、シルティならば今から感覚を養っても充分に間に合うだろう、とはマルリルの言である。
実にのんびりした日々だった。
が、それも、今日で終わりだ。
シルティは
「レヴィン、急いでっ!」
うきうきとした足取りは、ほとんど疾走と呼ぶべき速度である。とてもではないが都市の往来で出していいものではない。だが、シルティは自らの足を抑えることができなかった。自身が誇る動きのキレを十全に発揮し、道行く人々を凄まじい勢いですり抜けていく。
三日前、調査団がアルベニセに帰還した日。
シルティはマルリルを出迎えて
三日前から見て明々後日。つまり、今日である。
今日、シルティの新たな相棒が、この手に収まるのだ。
『髭面の孫』を訪ねる度に
「んふ、ふふふ……うひひひひ……あはっ、あははははッ!」
後日、
◆
港湾都市アルベニセ北部に店を構える鍛冶屋『髭面の孫』。
その重厚な扉を突き破るような勢いで、蛮族の少女が入店した。
「おはよッ!!」
およそ日常では聞く機会のない爆音を伴った
「ドアが壊れる」
「あ。ご、ごめんなさい……」
シルティは我に返り、すぐさま虐めてしまった扉を検めた。もし破損していたら弁償しなければならない。……とりあえず、破損箇所はないようだ。
「……大丈夫、みたい、です」
「ならいい。気持ちはわかるから」
シグリドゥルが目尻を緩め、ふわりと笑った。同じく刃物を愛する者として、シルティの
「少し待ってて。持ってくる」
「うん!」
シグリドゥルが席を外して倉庫へ向かい、すぐに戻ってきた。
その大きな両手でしっかりと保持されるのは、黒塗りの鞘に包まれた、長大な太刀。
「どうぞ」
「あざすッ!」
シルティはキレッキレの動きで
軽い。さすがに木製の太刀である〈紫月〉よりは重いが、
「あぁ……はっ、はぁ、ぁあ……っ」
湿り切った吐息を漏らし、舐め回すような厭らしい視線で宝物を蹂躙する。
鞘は
この足金物の細かな仕様については
鞘割れを防ぐ
ただし、
わざわざ鞘に高価な
ただ、全てを
総じて、実用特化の質実剛健な
最高に格好いい。
「うひ……」
左手で鞘を握り、右手で柄を握る。
先日、
「んふ……。ふふっ。ひ、ひひっ……んふふふふっ…」
喉の奥が痙攣し、勝手に笑い声が漏れてしまうシルティ。
そんなシルティを、そしてその手にある
「ぬ、抜いていい?」
「うん」
シグリドゥルの許可を得た次の瞬間、シルティは音もなく抜刀した。
真珠の如き淡い銀煌を宿す刀身が姿を見せる。
「ああ……」
シルティは左手に握っていた鞘をカウンターにそっと置き、本腰を入れて太刀を
生まれたばかりの赤子を扱うかのような慎重な手つきで刀身を寝かせ、左手の指を伸ばして
白みを帯びた涼やかな銀に、虹の薄膜が添えられて。
美しい。本当に美しい。惚れ惚れとしてしまう。
長大であり、身幅は広く、重ねも分厚い、見るからに頑強そうな太刀である。
優美な弧を描く先反りの刀身にはいびつさの欠片もなく、
無骨など、とんでもない。洗練された刃の極致である。
大まかな形状は、今は亡き〈紫月〉、そしてその
重心の位置。少し先端寄り。
刀身の長さ。拳半個分短い。
反りの深さ。指一本分深い。
その微かな差が手に馴染む。
全てが、心の底から完璧だ。
家宝〈虹石火〉は元々、シルティの六代前の先祖であるランヴァルド・フェリスが全財産を吐き出して打たせた太刀である。凶悪極まる
扱えていたと、思っていた。
だが今、この太刀を握った瞬間、わかってしまった。
あれは、正真正銘、ランヴァルドの腕だった。
本質的な部分で、シルティの腕ではなかった。
「はあぅ……」
シルティは潤んだ目をうっとりと細めた。
これが、シルティの腕。これこそが、シルティの腕。
シグリドゥルが
そっと手首を返して刃を上に向け、左手を
刀身を立てて柄を両手で握り、ぎゅむぎゅむと手触りを確認。心地よすぎる。シルティの手のひらの大きさを前提とした
刃に目を寄せ、間近でじっくりと観察。見ているだけで目が吸い込まれそうな魔性の刃だ。いっそ本当に吸い込まれて眼球を捧げたいぐらいである。
「ぁ、はぁ……」
生命力がどぱどぱと流れ込み、白い刀身が虹色に揺らめき出す。
シルティは既に、この太刀を自らの身体の延長と見做していた。
斬りたい。
生きた
今、すぐに。
シルティはカウンターに置いていた鞘を持ち上げると噛み締めるように納刀し、左腰の剣帯に慎重に留めて吊るす。その後、シグリドゥルを力強く抱き締めて最大限の感謝を示した。
「本当にありがとう、シグちゃん。最高。一生、ずっと大事にする……」
シグリドゥルはくすりと笑いながら、年下の友人の後頭部をわしゃわしゃと撫で回す。
「シルなら大事にしてくれるってわかってる」
出会ってまだ
どちらからともなく抱擁を解く。
「それじゃ、またね! さっそく斬ってくる!」
「うん。またおいで」
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