第111話 髭面の孫
精霊言語学習の初日を終えたシルティたちは、そのままの足で魔道具専門店『
間もなく空が真っ赤に染まるであろう時間帯だが、明日も明後日も授業があるので、できれば今日中に済ませておきたい。
「
そろそろ語り慣れてきた竜殺しの顛末を聞き、ヴィンダヴルは盛大に笑い出した。
「く、
腹を抱えてひぃひぃと苦しそうに喘ぎながら、ヴィンダヴルはシルティの背中をズドンと叩く。
「ごぁハッ」
シルティは三歩分ほどの距離をぶっ飛び、
「ぶぐぉえ」
そのまま床へと投げ出され、不細工な声を上げた。
なんという殴打のキレ。至近距離にいたとはいえ、腕と目が片方ずつ無いとはいえ、全く反応できなかった。威力も凄まじい。視界がうっすらと明滅する。大笑いの最中だったためか、ヴィンダヴルは力加減が全くできていなかったようだ。
今の平手打ちは、誰がどう見ても完全に攻撃の範疇に含まれるだろう。
姉がぶっ飛ばされる光景を前に、レヴィンはぶわりと尾を膨らませてヴィンダヴルを睨んだ。凄まじい筋肉を備えるヴィンダヴルはレヴィンにとって好ましい相手だが、手負いの姉を攻撃したとなれば黙ってはいられない。
「うおっ、す、すまん!」
我に返ったヴィンダヴルは慌ててシルティを駆け寄ろうとしたが、レヴィンがそれを妨害した。魔法『珀晶生成』で分厚い壁を作り出し、ヴィンダヴルの接近を許さない。地響きのような低い唸り声を上げ、ヴィンダヴルを威圧する。
「ふ、ふふ。いえ。全然大丈夫です。惚れ惚れする一撃でした。……レヴィン、大丈夫だよ」
シルティは上体を起こし、にまにまと笑いながらヴィンダヴルを見た。
レヴィンが珀晶障壁を消し去り、床に座り込んだシルティの元へ駆け寄る。それに少し遅れ、沈痛な面持ちのヴィンダヴルがやってきて、シルティに手を差し伸べた。
その手を取って立ち上がりながら、シルティは確信する。
力強い。びくともしない。いやはや本当に素晴らしい筋力だ。強いだろうとは感じていたが、このおじいちゃん、やはり今でもとんでもなく強い。
マルリルとはまた違う方向性の強さだ。筋力も素晴らしいが、なによりこの暴力は、シルティに反応すら許さない磨き上げられた瞬発力が根底にある。
そう、この強さは。
(私に似てる)
シルティはにまにま笑いを深くした。
今でもこんなに強いのなら、ちょっとくらい、斬り合ってもいいんじゃないだろうか。
「本当にすまん。加減を間違えちまった」
「んふ。んふふふふふ。ヴィンダヴルさん」
「お、おう。なんだ」
「私の腕と目が治ったら、一回、模擬戦してくれませんか?」
「あん?」
以前、雑談の中で本人の口から語られたことだが、現役時代のヴィンダヴルは身幅の広い
「……俺ぁもう
「一回だけ! 一回だけなんで! お願いします! 今みたいに、手加減なしで! 殺す気で!」
「お、ああ、まあ、軽くならな」
「やったっ! 約束ですよ!!」
シルティは喜びを抑え切れず、
◆
しばらく経ち。
「すみません、ちょっと
「ああ、俺も悪かった。あんまり爽快だったもんで、つい、ブッ叩いちまった」
落ち着きを取り戻した両名は、互いに頭を下げ合った。
「そんで、今日は何の用だったんだ?」
「はい。
「ああ、補修材か?」
「お願いできます?」
「おう。こっちで
「はい。お願いします」
飛鱗の補修材は、鬣鱗猪の脂から作った
シルティは料金の四割を前払いし、ヴィンダヴルから
「要件はそんだけか?」
「すみませんあと一つ。ヴィンダヴルさん、前に鍛冶屋さんを紹介しようかって言ってくれたじゃないですか」
「おお、言った言った。とうとう剣を打たせる気になったかよ?」
ヴィンダヴルはやけに嬉しそうな表情を浮かべたあと、そこでようやく気付いたようにシルティの左腰を見た。
「……そういや嬢ちゃん、あの
「
誇らしげに語るシルティに、ヴィンダヴルは眉を顰める。
「竜の『咆光』をぶった斬っ……。
「はいっ!」
「ぼえぇ! その
「ふへへ! ありがとうございます!」
港湾都市アルベニセで出会った人物の中でもトップクラスの猛者からの称賛を、シルティは大輪の笑顔で噛み締めた。
ヴィンダヴルの方もまた将来有望な馬鹿野郎の所業に大笑いしつつ、今度はしっかりと手加減をして、シルティの背中をバスバスと叩く。
「よしゃ。ちょっと待っとけよ」
ヴィンダヴルはカウンターの下から二枚の紙片を取り出し、そこにペンを走らせた。片方には綺麗な文字の羅列がさらさらと並べられ、もう片方には精密な図形がすらすらと描かれていく。紹介状と、アルベニセの地図だ。
「こいつを持って、ここに行け。紹介してえのは俺の孫娘でな、シグリドゥルっつーんだが、でけぇ仕事終えて暇だっつってたからよ。特注は大歓迎のはずだ」
「ありがとうございます! お孫さんですか。時間は……明日の夕方とかでも大丈夫でしょうか?」
「ああ。まぁ、夕方ならまだ炉の前にいんだろ。まだ百にもなってねえ若造だが、腕は保証すんぜ。……身内贔屓してるわけじゃねえぞ?」
「んふふ。わかってますよ」
「……まあ、なんだ。嬢ちゃんとは相性いいと思うぜ。なんつーか、あいつは嬢ちゃんの
「同類、ですか?」
◆
翌日。
初日と同様の精霊言語学習を終え、やはり同様に手応えを得られなかったシルティは、意気消沈しながらマルリルの家を後にした。
憎らしいほど晴れ渡る夕暮れの中、ヴィンダヴルに与えられた地図を頼りに、港湾都市アルベニセの北部へ向かう。
(うわ……)
シルティの眼前にある、煤けた色合いの重厚な扉。
その表面には、『
(こっちもすごい名前だなぁ……)
ヴィンダヴルの魔道具専門店『
そんな、看板そのものよりも看板と呼ぶに相応しい鍛冶場では、一人の
炉の中には細長く延ばされた金属――おそらくは
汗まみれの真剣な表情。しかしその目は、まるで愛しい相手に向けているかのように
(うおぅ。格好いい)
陽光を広く遮る大きな屋根の下、作られた影の中で、炉の熱をじいっと見つめる真摯な姿。思わず見惚れてしまう。
状況的に見て、彼女がヴィンダヴルの孫娘だという鍛冶師だろう。
ヴィンダヴルから事前に聞いた話によると、名前はシグリドゥル、年齢は六十五歳のはずだ。
職人が洗練された技術を自信を持って振るう姿はいつだって好ましい。彼女の集中を切ってしまうのは気が咎める。こちらに気付くまで距離を取って待っていよう。そう判断したシルティは、立てた指を唇に当て、レヴィンに隠密を指示した。
レヴィンは無言のまま頷き、シグリドゥルの背後にそろりそろりと回り込んで姿勢よく
その山吹色の瞳は爛々と輝いており、興味津々といった様子だ。
(相変わらず、火が好きだなぁ……)
およそ二百日ほど前、シルティが製塩のために火を
シグリドゥルは慎重に
金鎚を右手に握る。良質な真珠を思わせる白銀色の頭部を持つ、美しい金槌だ。左手には同色の骨太な
そして、姿勢よく座っていたレヴィンに、ようやく気付いた。
「きゃあっ!?」
シグリドゥルは可愛らしい悲鳴を上げて跳び上がり、火箸を取り落とした。
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