第110話 精霊言語学習



 マルリルの自宅、居間リビングにて。

 シルティとマルリルが向かい合って椅子に座り、言語学習を行なっていた。

 レヴィンは珀晶で書見台レクターンを生成し、いつものように読書をしている。例の如く天文学の書物だ。


「いい? よく聞いて、その通りに精霊の声を出してね」

「はい」

ディ

「そざ……そざへのも、すだこー、よ、はば……」

きょ

「そまそろも、しすとぎ……?」

ディしゅ

「くざおーむ……くざおーむなだよとぞちしゅほれ?」

「ふふ。思いっきり肉声で出てるわね」

「んぬぬぬ……」


 シルティは右腕だけで頭を抱えた。


「全然わからない……」


 文法は、まだいい。人類言語に慣れ親しんだ身からすると、耳が理解を拒みそうになるほどぐちゃぐちゃしているし、同じ意味の単語だというのに状況によって発音が変わったりするのもさっぱり意味不明だが、まぁ、これから頑張って覚えていけばいいだけの話だ。

 だがそもそも、シルティは発音ができていなかった。精霊の喉がないからだ。

 精霊の耳については全く問題ない。精霊の目についても重竜グラリアとの殺し合い以降は開きっ放しだ。今では、マルリルが魔法『光耀焼結こうようしょうけつ』で創出しようとする霧白鉄ニフレジスを、創出する前にはっきりと目視できる。耳と目の構築はもう完了していると、マルリルのお墨付きを貰うことができた。

 しかしながら、精霊の喉については……なんというか、手応えがない。精霊の耳で聞き取ったマルリルの精霊言語と、それを目指して出した自分自身の声が、まったく異質に感じる。

 痛みという構築の実感があった耳や、視覚的に若干の違和感を覚えられた目と違って、精霊の喉は本当に手応えがない。喉の構築が難しいことは既にマルリルから説明されていたが、この道はなかなかに長そうだ。


 マルリルがくすくすと笑いながら慰める。


「誰でもそうよ。私も喉は時間がかかったわ」

「がんばります……」

「喉の構築は一人でもできるから、家でも試してね?」

「はい。えっと、耳を塞いだ状態で、はっきりと聞こえるような声の出し方を模索するんですよね?」

「そうよ。ただね、それは私が教わったやり方なの」


 びしり、と人差し指を伸ばすマルリル。

 この仕草は、物事を強調する際のマルリルの癖である。


「私の先生は、耳を塞いだ状態で、実際に声帯のどを震わせて肉声を出す方がいいって考えだったわ。実際に私もそれで喉を構築できたから、間違いではないと思うし、あなたにもこうやって伝えてる。でもね、耳なんか塞がずに口を閉じた状態でやる方がいいって言う人もいるの」

「んん……」

「当時は私も教わるがままにやってたけれど、今になって考えてみると……確かに、精霊言語は実際の声帯のどを震わせて出すわけじゃないから、声を出す必要はないかもって思わなくもないわね」


 マルリルが苦笑しながら持論を述べた。

 耳の穴に朱璃を注いで生命力をぶち込みながら精霊の喉を通した声を聞く。精霊の耳が構築できたあと、他者が行使する魔法をじっくりと観察する。精霊の耳および目の構築法は以上のように標準化されているようだが、喉についてはまだまだ試行錯誤の段階らしい。


「……なるほど」

「まぁ、しっくり来る方法は結局のところ人それぞれだから、いろいろ試してみて。とりあえず今日は定型文を覚えましょう? もうわかったと思うけれど、精霊言語って人類言語と比べると本当にむちゃくちゃなの。まずは文章をとにかく覚えていく方がいいわ」

「……はい!」


 シルティは気を取り直し、右手で頬をパチンと叩いた。


「私、暗記は得意な方です!」

「期待してるわ。そうだわ、目と腕が治るまで狩猟者はお休みでしょうし……お休みよね?」


 まさか腕が一本ない状態で狩りには行くまい、と思いつつ、もしかしてこのなら、という思いも消し切れないマルリルである。

 シルティはそんなマルリルの内心を察し、苦笑して答えた。


「ちゃんとお休みします。刃物もないですから」

「よかった。私も急ぎの用事はないから、予定を変えましょうか」


 マルリルは伸ばした人差し指を自らのおとがいに当てて考え込む。


「都市の近くで重竜グラリアと会ったなら、近いうちに調査団が組まれるわね」

「はい。西門の衛兵さんもそんなこと言ってました」

「うん。多分、私も呼ばれることになると思うわ」


 調査団の目的は、猩猩の森に他の重竜グラリアがうろついていないかどうかの調査だ。実際に一匹は居たのだから、もう一匹居る可能性は充分に高い。当然、交戦する可能性も充分に高い。

 狩猟者マルリルは、アルベニセを見回してみても上位に位置する実力を誇っている。十中八九、武力要員として調査団への同行を要請されるだろう。

 この要請に強制力などはないのだが、マルリルは参加するつもりだった。


「行政の準備が終わるのに……大体、五日か六日くらいかかるわね。だからとりあえず、それまではみっちり精霊言語の勉強をしましょう。いいかしら?」

「是非お願いします!」





 空が僅かに赤みを見せた頃。


「今日はこの辺で終わりにしましょうか」

「はい……」


 結局、シルティはろくに手応えを感じられぬまま、初回の精霊言語学習を終えた。もちろん、水精霊ウンディーネの言語の定型文をいくつも覚えることはできたが、肝心の精霊の喉に関してはからっきしだ。耳では覚えられているのに、声での再現ができない。

 朝から夕暮れ前まで、ほぼ丸一日をかけて、何一つ手応えが無かった。

 先が思いやられる、と落ち込むシルティとは対照的に、マルリルはのほほんと笑みを浮かべている。


「そんなに落ち込まなくても。というより、今までが順調すぎたのよ?」

「はい。……もっとこう、痛い感じの喉の構築法はないですかね?」

「なんであなたはそんなに痛いのが好きなの」

「痛みを乗り越えて成長できてる感じがするからです」

「うーん……うーん…………そう……。まあ……そういうひともいるわね……」


 シルティはそこでハッと気づいた。


「耳を作った時みたいに、喉を斬って朱璃を流し込んでみたりとか!」

「目と耳ならともかく、喉は絶対に意味ないわね……。というより、喉を切ったら死んじゃうわよ」

嚼人私たちならちょっとぐらいなら大丈夫ですよ!」

「やめなさい」


 シルティの蛮族的発想にも大分慣れてきたマルリルである。


「それじゃあ、また明日ね」

「家でも喉の構築を試してみます」

「何度も言うけれど、焦る必要はないわよ」

「はい。……レヴィン、帰るよー。本の続きはまた明日ね?」


 シルティが声をかけると、レヴィンは読みかけの本に栞を挟んで丁寧に閉じ、尻尾を器用に使って持ち上げてマルリルに返却した。この栞は、学習意欲旺盛なレヴィンのためにマルリルが贈ってくれたものである。

 マルリルが本を受け取ると、レヴィンは喉を低く震わせながらマルリルの腰に首筋や脇腹を擦り付けた。マルリルは嬉しそうに微笑みながらレヴィンの額を撫でる。レヴィンは短く唸り声をあげ、その手のひらを頭の動きで振り払い、逆にべろんと舐めて返した。

 感謝と親愛を込めたじゃれつきだ。

 天文学の書物を大量に所有するマルリルとの出会いは、レヴィンの知的好奇心を大いに満たすこととなった。出会った当初は姉を圧倒した猛者マルリルを警戒していたレヴィンだったが、今では警戒心も解け、ほぼ身内に近い扱いとなっている。


「本、いつもありがとうございます」

「いいのよ。レヴィンはですもの。本も、丁寧に扱ってくれるしね」


 同好の士との言葉通り、マルリルは星が好きである。

 というより、大抵の森人エルフは星が好きである。

 森人エルフがその身に宿す魔法『光耀焼結こうようしょうけつ』は、周囲から光耀こうようを掻き集めて世界に焼き付け、霧白鉄ニフレジスあるいは輝黒鉄ガルヴォルンを創出するというもの。森人エルフたちが光耀と呼ぶは、森人エルフにしか認識できないという正体不明の存在だが、森人エルフたちはそれが太陽や星々、つまり恒星こうせいから地上に降り注ぐものと考えている。ゆえに、森人エルフたちは星が好きなのだ。

 まぁ、凄まじく長寿だというのも、空を眺める理由の一つかもしれないが。

 長い人生の中、彼らは住処を転々と変えるので、野宿する機会が多いのである。


「そのうちレヴィンに望遠鏡とか贈ろうかなって思ってるんですけど、先生、良いお店知りませんか?」


 重竜グラリアの死骸には槐樹かいじゅのエアルリンが値段を付けてくれた。本当に、値段だった。折角治した右眼球が飛び出そうになるほどの金額だった。だというのに、支払は全額即金で済まされた。

 エアルリンの総資産が一体どれほどの規模に及ぶのか、シルティには見当もつかない。


 ともかく、そういうわけでシルティの資金はかつてなく潤沢である。

 マルリルに授業料をたっぷりと支払い、さらに新しい太刀を発注して、必要雑貨の購入を済ませても、資金にはかなりの余裕が残るだろう。望遠鏡の一つや二つ、懐は全く痛まない。


「望遠鏡ね。それなら、私の知り合いの鉱人ドワーフが……」


 マルリルが知り合いの店を勧めようとしたその時、レヴィンが短く鋭く声を上げ、二人の会話を遮った。


「ん?」


 シルティとマルリルがレヴィンを見る。レヴィンは頭部を横に振りながら、小さく唸り声を上げた。シルティにはわかる。そんなもの要らない、と言っている。


「望遠鏡、要らないの? もっと星が良く見えるよ?」


 するとレヴィンは、返事をする代わりに誇らしげに胸を張り、天井を見つめて動きを止めた。

 そのまま、速やかに魔法『珀晶生成』を行使する。

 天井付近に、ほんの胡麻粒ほどの珀晶の粒が生まれた。


「お?」


 さらに続けて魔法を行使。

 次に生成されたのは、完全に平行かつ同軸線上に並べられた、大小二枚の円板だった。極めて透明で、両側面を球面とした滑らかな円板。凸レンズだ。

 さらにさらに魔法を行使。

 可能な限り透明度を落とした円錐台状の筒を生成、先に生成した二枚の凸レンズをぴたりと覆う。


「ぅおっ!」

「おぉっ!」


 シルティとマルリルは両者とも目を大きく見開き、驚嘆の声を上げた。

 複数の珀晶を組み合わせて作り出された、円筒状の物体。

 空中に完全に固定されている上、視野の移動や焦点の調整も全くできないが……見た目は紛れもなく、望遠鏡である。

 マルリルがすぐに望遠鏡へ近寄り、ためめつすがめつ観察し始めた。鏡筒部の長さはマルリルの手のひらの長さほど、直径は指二本分の幅ほどの、小ぢんまりとした望遠鏡だ。霊覚器構築中に読み込んだマルリルの蔵書には望遠鏡の構造と原理を解説するものもあったので、レヴィンはそれをしっかりと読解し、自分なりに再現したのだろう。

 レヴィンが誇らしげな様子でシルティに歩み寄り、袖口そでぐちを咥えて引っ張った。びいんと伸び切った尻尾の先で珀晶望遠鏡を指している。覗いてみろと言っているようだ。


「ふふ。わかったわかった」


 珀晶の望遠鏡はちょうどシルティの頭の高さに合わせて生成されていた。

 さて、性能はどうだろうか。

 二枚の凸レンズを組み合わせた、比較的単純な構造の望遠鏡だが、適当に作って上手く働くようなものではない。不動という珀晶の特性上、凸レンズの倍率や焦点距離、視野を作成時点で完璧に把握していなければ、ピントのぼけた像しか映せないだろう。

 少し屈み、覗き込む。


「うおー……」


 望遠鏡の光軸は、レヴィンが最初に生成した胡麻粒ほどの珀晶にぴたりと合わせられていた。

 鏡筒が完全な不透明ではないため遮光が甘く、視野全体が霞みがかったように薄ぼけている。さらに、レンズとしている珀晶自体が黄金色なので、視界が丸ごと真っ黄色だ。だが、焦点自体はしっかりと合っているし、像に歪みは無い。望遠鏡を通すと、肉眼視と比較して二十倍ほどの大きさとなった。二枚の凸レンズの形状や配置は完璧に近い。

 レヴィンの空間把握能力、恐るべしと言ったところである。


「レヴィン、まじ、すっごい……」


 黄色い視界についてはどうにもならないが、遮光については改善できそうだ。単純に分厚くするだけでも透明度は下がるし、レヴィンが透明度の調整にもっと習熟してくれば、さらに遮光性の高い珀晶を生み出すことも可能となるだろう。外から手を加えることを厭わなければ、鏡筒部分に黒い布を被せるだけでもかなり改善できる。

 なるほど。レヴィンならば、わざわざ望遠鏡を買う必要はない……かもしれない。


「ね、ねえ、私にも見せてくれる?」

「あ、はい。どうぞ」


 シルティがマルリルに場を譲ると、マルリルはうきうきとした様子で望遠鏡を覗き込んだ。


「うっひょお……!」


 そして、歓声を上げる。


「いいわねこれ! まぁ、ちょっと黄色いけど! いくらでも望遠鏡作れるなんて夢みたいだわ! 羨ましい!」


 いつになく子供っぽい、無邪気ではしゃいだ声だ。

 マルリル先生にもこういう一面とこがあったんだなあ、とシルティは意外に思いつつ、レヴィンの顎下を揉み撫でて褒め称えた。

 さすがのレヴィンも、今日初めて望遠鏡を作り、ぶっつけ本番で完璧に成功したわけではないだろう。何度も何度も練習を繰り返し、満を持してお披露目したのが今日だった、という流れのはず。

 ほとんど常に一緒にいるはずなのに、シルティの知らないところでどんどん魔法の腕を磨いているようだ。


「いつの間にこんなことできるようになったの?」


 シルティの問いかけに、レヴィンはこの上ない得意ドヤ顔を披露し、無言のまま地面に仰向けに寝転がった。

 とりあえず腹を撫でろ。早く。

 態度で意図を示した横柄な妹に、姉は笑いながら従った。


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