第109話 傷痕
港湾都市アルベニセの西門で
左腕と左目と、何より溺愛していた〈紫月〉や〈玄耀〉を失って姿を現したシルティ。女衛兵ルビア・エンゲレンは仰天して怒ったように心配してくれたが、シルティが
シルティとレヴィンの〈冬眠胃袋〉の中身を念入りに検め、目をしばたたかせる。当然だが、ルビアは
「……これが、
「『
「……シルティ、ちょっとこっち来い」
「ん? なに?」
ルビアの手招きに従いシルティが近寄ると、ルビアはシルティの顔を労わるように撫でた。
今は左腕の再生に集中しているため、シルティの顔面は必要最低限しか再生されていない。もちろん頬骨の骨折は治してあるし、
「左目、ないのか?」
「うん。両目ともぶっ飛ばされちゃって、最優先で右目を治したの。次は左腕だから、左目は後回しかな」
「……ちょっと、見るぞ。いいか?」
「うん」
ルビアはシルティの顔を両手で挟むように固定し、人差し指でシルティの左目の瞼を持ち上げた。ぽっかりと開いた眼窩を嫌そうに見る。
衛兵として怪我を見るのには慣れているルビアだったが、友人の、それも自分より年下の少女のものとなれば、やはり平然とはしていられない。ただでさえシルティは小柄で実年齢より幼く見えるのだ。ルビアの主観では痛ましさが半端ではない。
「……まぁ、これなら、治るか。……よく帰ってきたな」
「んふふ。すんごく楽しかったよ。やっぱり竜は凄かった」
「お前なぁ……。そんな
「うん。〈紫月〉も〈玄耀〉も死んじゃったし、新しい刃物を買うまではお休みするよ」
「刃物揃えろじゃなくて身体治せって意味だぞ」
その後、ルビアはシルティから竜殺しの詳細を聞き出して素早く紙面にまとめ上げ、上司のドミニクス・クラッセンを呼び寄せて報告し、慌ただしく税を徴収してシルティを解放した。
◆
西門を
明日から三日間、マルリルの元で精霊言語の学習の予定だ。
「重いと思うけど、もうちょっと頑張ってね」
シルティが鼻面を撫でるとレヴィンはフスンと鼻を鳴らした。
シルティは前を歩むレヴィンの後ろ姿を見る。一応、足取りは確かなので心配はないと思うが、シルティの感覚からすればレヴィンはまだまだ幼い仔。無理をしすぎないように目を光らせながら『
日が完全に落ちた頃、シルティたちは『
この研究所はエアルリンの自宅でもあるので、なにか特別な理由がない限り今の時間帯ならば会えるはず。ドアノッカーを抓み、控えめに音を鳴らした。
ゆっくりと十を数えるほどの時間が経過。
重厚な扉が滑らかに開かれ、黒い礼服に身を包んだ
「申し訳ありません、お待たせしました……おや、フェリス様」
「こんばんは。遅くにすみません」
「いえ、お気になさらず」
ヒースはちらりとシルティの左腕と左目を見たが、それには全く触れず、やや大袈裟な動きで空を見上げる。気の早い星たちが存在を主張しはじめる時間帯だ。
「実は、主人はこのくらいの時間が一番元気なんですよ。夜行性といいますか」
「ふふ。
人類種の中で明確に夜行性の動物と呼べるのは
都市のように様々な人類種が入り混じる環境では、
ちなみに
「さて、本日は?」
要件を尋ねるヒースに対し、シルティはレヴィンの〈冬眠胃袋〉の口を開いて中を見せた。
「エアルリンさんに持ち込み販売です。
「なるほど、持ち
◆
翌日。
シルティは
損傷した
しかし、
シルティはその際、いの一番に鎧下を買おうとしたのでルビアとエミリアに滾々と叱られ、決定権を奪われた上に着せ替え人形にされた。
精霊たちは文字を持たないので、基本的に口頭での学習になると聞いている。手ぶらで良いと言われていたのだが、シルティは一応筆記用具を持参した。いかに文字の無い言語だとしても、さすがに筆記用具はあった方が効率的だろうとの判断である。
なお、一部では人類言語と対応させて精霊言語を文字化する試みもあるらしいが、霊覚器を持つ人員が少ないことや、生命力を媒体とするという精霊言語の根本的構造が大きな弊害となり、今のところまともな形には成っていないらしい。
精霊言語は厳密には音ではないし、発声者の
コンコン。シルティがドアをノックする。
すると、すぐに気配がした。
「はーい? どなた?」
「おはようございます、シルティです」
「ん。今開けるわ」
カチャリ、と開錠の音が響き、ドアが開かれる。
「おはよう、シ、ルっ!?」
そこまで声を出し、マルリルは止まった。
左目を閉じたシルティの顔を見てサッと青褪め、ガシリと肩を掴む。
「うおっ」
不意打ちに驚いて声を出すシルティを余所に、マルリルは今にも泣き出しそうな表情を浮かべた。
「どうしたのその顔!? まさか、治らないの!?」
「だ、大丈夫です。治ります。今は腕に生命力を回しているだけです」
「腕っ!? ……あ、左腕が」
どうやらマルリルはシルティの左腕欠損に気づいていなかったらしい。安心したようにほっと息を吐き出し、肩の力を抜いた。
「よかったわ……。いや、よくはないけれど。でも、やっぱり女の子の顔に傷が残っちゃったら大変だもの」
膨大な生命力を備える魔物と言えど、身体に傷痕が残ることはある。
例えば『この傷は強敵と殺し合って勝利した証だから消したくない』『この傷は無様に負けた証だから戒めとして残しておきたい』『正直でかい傷跡ってかっこいいよな』などと強く考えていると、生命力の作用による再生がうまく働かず、傷痕がくっきりと残るのだ。狩猟者にはこういった傷をわざと残している者が結構いたりする。
なお、シルティたち蛮族は己の肉体を万全の状態に保つことを至極当然とする文化なので、意図的に傷を残すようなことは絶対にしない。
また、著しく再生しにくい傷を与える魔法も存在する。例えば竜の破壊魔法『咆光』などだ。もし『咆光』で四肢を根本から消し飛ばされると、突出した再生力を誇る
マルリルが心配したのはこちらの線だろう。人類種の中でも図抜けた再生力を誇る
マルリルにとってシルティは精霊術の弟子だが、それ以前に、恋人を得るために故郷を飛び出したという共通の過去を持つ仲間。その顔に傷ができているのを見て、マルリルは自分でも意外なほどに狼狽してしまった。
「んンッ。……いらっしゃい、シルティ」
頬をほんのり染めながら大袈裟に咳払いをしたあと、シルティを家に招き入れる。
「それにしても、あなたがそんな怪我をするだなんて。なにがあったの?
「はい。鷲蜂は、まぁ、楽勝だったんですけど。その次の狩りで
「……。はっ?」
マルリルはぎょっとして立ち止まり、振り返った。
「ぐ、
「はい。四肢竜の
「ど、どこで?」
「猩猩の森です。蒼猩猩を狩った帰り道で……」
「えぇ……嘘ぉ……」
四肢竜
シルティは幾度目かになる竜殺しの経緯を語った。
「……よく、無事で帰ってきたわね」
「へへ」
マルリルは
マルリルは改めてシルティを強く抱き締め、心から無事を祝った。
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