第106話 レヴィンの味
「……ぅ、ん……」
シルティは目を覚ました。
世界が暗い。それに、やけに静かだ。
ゆさゆさと、背中を押されている。
(レヴィン……? なんでこんな夜に……まだ
左頬に硬い感触がある。ざらついた感触。土の地面にうつ伏せに寝ているようだ。シルティはうつ伏せで眠ることはない。おっぱいが押し潰されて苦しいからだ。
なぜ、こんな寝相になっているのだったか。
(ああ……野宿してたんだった。……だったっけ? ……なんか……身体が痛いな)
思考が纏まらない。身動きもできない。全身が痛い。
ふと、なんらかの液体が口元に垂らされていることに気付いた。薄く開かれた唇の隙間から口内へ、僅かに滲み込んでくる生暖かい液体。血だ。独特の風味でわかる。肉食動物の血だ。
本能的に喉と舌が動き、嚥下する。美味しい。
今度は意識的に唇を開き、ごくりと飲み込む。美味しい。
身体の内部、臓腑や筋肉に
(……そうだ。そうだ!
目どころか、顔面の上半分が深く抉れ弾けてしまっている。だぱだぱと血を垂れ流しの状態。道理で真っ暗なはずだ。
「くふっ……ふふふふふ……」
直近の記憶を完全に取り戻したシルティは、なによりまず、自らの勝利を笑った。
世界最強種の殺害。最高の実績を噛み締める。笑わずにはいられない。
(私はまた強くなった……)
どう控えめに見ても九死に一生。十回やって九回死ぬ、それほどのまぐれ勝ちだった。
だが蛮族は、たとえそれがまぐれであっても、自らの勝利を全身全霊で肯定する動物である。
強敵を殺したことを誇るのは蛮族の常識であり、礼儀なのだ。
「ん……ぐ……、し、死……」
それはともかく、死にそうである。
せっかく竜を斬ったのに、死んでしまったら竜を殺した自分の性能を味わえない。
まずは生き延びなければ。
ひとまずご飯だ。無事な右手を動かそうと試みた。気絶しても握り締めたままだった〈紫月〉の
なにかが近くで地面を引っ掻いている。
シルティはすぐに気付いた。さっき背中を揺すっていたのも、
「レヴィ……あり、がと……」
途切れ途切れに感謝を伝えると、シルティの右頬が湿ったなにかで撫でられた。多分、レヴィンの舌だ。間もなくシルティの手が持ち上げられ、引っ張られ、降ろされる。手のひらには柔らかい
ありがたく食料を握り締め、のろのろと口へ運ぶ。ジャリゴリとした不快な舌触りを無視してひたすらに貪り、ごぐんと飲み込んでいくと、次第に腹部がじわじわと熱を持ち、胸骨の裏側で心臓が喜び始めた。魔法『完全摂食』はこういった時にこそ本領を発揮する。
生き延びるという競技にかけて、
ひとまず、抉れた顔上半分の治療を優先する。止血に成功し、シルティは間もなく動けるようになった。
「ん、ぐ、え。うう。べっぇ。ぷぇっ。……ふ、ふふ……
シルティは力なく笑いながら仰向けに身体を転がすと、手探りでレヴィンの頬を撫で、抱き寄せる。
すると、肌と骨を通して、物凄い
シルティは撫で回して妹を宥めたが、レヴィンはしばらく喉鳴らしを止めなかった。
「起こしてくれてありがと。せっかく竜を斬れたのに、死ぬとこだったよ」
シルティの首筋に毛むくじゃらのなにかが優しく圧し付けられ、首筋がザリザリと研磨される。おそらく頭突きと舐め回しのコンボだ。
意識がはっきりしていない場合、
「よし。いつまでも、寝てるわけにもいかないね」
相変わらず目は見えないが、傷の具合や血の乾き具合から、シルティは自分が気を失っていた時間を大まかに計算した。まだ日没までには多少の時間があるはずだ。
右手を地面に付いて上体を起こす。レヴィンが背中側に回り、脇腹で身体を支えてくれた。
妹の献身に感謝しつつ、シルティは自身の肉体を検める。
左腕は上腕の半ばから完全に喪失。顔面の上半分は横一線に深く抉れていて、ついでとばかりに聴覚も死んでいる。全身の筋肉と骨格は大なり小なり損傷しており、竜の咬み付きをまともに受け止めた左肩は特に酷い。革鎧に包まれているおかげで辛うじて形を保っているが、ぐちゃぐちゃ、と言ってもいい惨状だ。そのままハンバーグが作れそうなぐらいである。
とりあえず、聴覚と嗅覚はすぐに取り戻せるだろう、とシルティは見積もった。耳に関しては
だが、両の眼球を新しく生やし、左腕を完治させるのにはなかなか時間がかかりそうだ。
ここから港湾都市アルベニセまでは一日ほどの距離で、四日後にはマルリルの授業が予定されている。この場で長く足止めを食らいたくはない。
事情が事情なので、たとえ遅れてもマルリルは快く許してくれるとは思うが、蛮族は一方的な
これは蛮族に限った話ではないが、戦いに身を置き暴力を拠り所とする者たちにとって、『恥ずべき行為をしない』ということは非常に重要視されている。
神様。お天道様。ご先祖様。
もっと身近なところで言えば家族や友人。
そしてなにより、自分自身。
そういった存在に顔向けできない生活をしていれば、表層意識にせよ深層意識にせよ卑下が根付き、生命力の作用を弱めてしまう。ゆえに、勤勉で優秀な戦士ほど、己の美学や道徳規範を裏切らないものなのだ。
戦士は善人が多い、というわけではない。
戦士は頑固者が多い、ということである。
なるべく急ごう。
シルティはまず鼓膜を再生させ、聴覚を取り戻した。あー、あー、と小さく発声し、具合を確認。問題なし。
地面に置いていた〈紫月〉の柄を手探りで拾い上げて左腰の鞘に納め、レヴィンに声を掛けた。
「レヴィン。
ヴォゥン。レヴィンが肯定の唸り声をあげると、シルティの右手首に毛の生えた縄が巻き付いてきた。レヴィンの尻尾だ。シルティは促されるままに立ち上がり、レヴィンの先導に従って歩みを進める。だが、ふと、手を引っ張る尻尾の感触に違和感を覚えた。血でぐっしょりと濡れている。
「レヴィン?」
怪訝に思ったシルティが尻尾を軽く引っ張ると、レヴィンはびくんと身体を硬直させた。予想外の痛みに筋肉が不随意に反応したような動きだ。多分、尻尾を怪我している。
「……もしかして、さっき飲ませてくれたのってレヴィンの血? 自分で斬ったの?」
レヴィンは答えなかったが、シルティの予想は正しかった。
レヴィンは自らの尻尾を噛み砕き、気を失ったシルティを揺り動かしながら、その口元に生き血をぽたぽたと垂らしていたのだ。強大な魔物である琥珀豹の生き血には、
「んふふ。いつもと逆だね。ありがと。強そうな味がして、美味しかったよ」
レヴィンはシルティの生き血をたっぷり混ぜた流動食で育った。今でも、生命力を急速に補給したい時にはシルティの血を舐めている。レヴィンにとって、姉がここまで大きな怪我をして気を失うのは初めてのことだったが、それらの経験から血を与えることを思い付いたらしい。
こるるる、と小さく喉を鳴らしながら、レヴィンはシルティを強く引っ張った。
味の感想なんていらないからさっさと来い、と言いたいようだ。
シルティはくすくすと笑いながら足を進め、すぐに
(さてと)
手探りで
経験から言って、眼球を生やすのには三日か四日、左腕は十日以上。だが、ここには竜の死骸がある。戦闘中、彼の血を
とりあえず片目だけでも集中的に再生しなければ。目が見えないと移動もままならない。
ただ、できれば肉体の方はアルベニセまで持ち帰りたいので、肉は食べずにおく。
(
食事処の掲示板で
(あ、でも……尻尾と脳は食べてもいいかな)
斬り飛ばした尻尾の先端がどこかにあるはずだ。
それから、零れ落ちてしまった脳にも商品価値はほとんどない。食べても問題はないはずだ。尾と脳をレヴィンとはんぶんこにしよう、とシルティは決めた。
(竜の死骸かぁ……エアルリンさんのとこに持ち込んだら買ってくれないかな。あの人なんか物凄いお金持ちっぽいし……)
とりあえず、血を飲んだら運び易いようにちっちゃく切り分けて、と右手を右腿に伸ばしたところで。
「あっ……」
革鞘に納めていた宝物を失ってしまったことに、改めて気が付いた。
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