第105話 死んでも殺す



(あっ)


 しばしの浮遊感、そして強烈な遠心力を感じたあとに、ゴンと、左側頭部と左肩を強かに打った。


(うッ、あ)


 当然、それだけでは終わらない。ゴロゴロと地面を六回転もした挙句、木の根元に衝突し、ようやく止まった。

 顔の上半分が熱い。首を無理矢理捻じられたような激痛を訴えている。頸椎を捻転骨折しなかったのは奇跡といってもいい、それほどの衝撃だった。

 シルティは〈紫月〉を握った拳で地面を突き飛ばし、強引に跳ね起きる。

 何が起きたのかは全く見えなかった。だが、状況からして明らか。

 シルティは間合いを読み間違え、竜の尾を躱し損ねたのだ。


 手で触るまでもない。感覚でわかる。両目の横、左右の頬骨が粉々に砕けている。鼻根びこん鼻梁びりょうがぐちゃぐちゃに抉れて消えた。

 重竜グラリアの尾は、シルティの顔面を横一線に吹き飛ばしてしまったらしい。

 幸い、損傷は脳までは達していない。この時点では命に別状はないだろう。頭を強く打った割に意識も鮮明だ。

 だが、眼球がどこかに行ってしまった。

 目が、見えない。

 耳も聞こえない。

 鼻すら利かない。


(ああ)


 視覚聴覚嗅覚を失った。

 シルティは己の死を悟った。

 竜に殺される。蛮族的には誇るべき最期である。

 しかも、シルティの太刀は確かに竜の身体を斬り裂いた。尾の先端を輪斬りにし、胸を負傷させ、六肢の一本を斬り落とした。竜の魔法を四度も切開し、その間隙かんげきに身を滑り込ませて肉薄した。シルティが食われるだけの一方的な狩りではなかった。シルティは竜の血を啜った。そしてこれから肉を食われる。これは間違いなく、殺し合いと呼べるものだった。

 世界最強種と殺し合った末に、力及ばず殺される。本当に誇らしい最期だ。

 遺すことになってしまうレヴィンには申し訳ないが、今のレヴィンなら一人でも狩りをして生きていけるはず。


「……ふ、ふふ。は」


 上半分を損なったグロテスクな顔で、シルティは妖艶に笑った。

 シルティは己の死を悟っている。しかしながらそれは、殺意を収めて首を差し出す理由にはならない。

 死に瀕したシルティの脳裏には、先日斬りまくった鷲蜂たちの姿が思い浮かんでいた。

 あの格好いい蜂たちは、圧倒的強者であるシルティに対し、決して怯まず、決して退かず、身体を両断されながらも殺意を忘れなかった。

 自分も彼らのようにりたい。

 触覚のみを頼りに、〈紫月〉を右手で中段に構える。意識があるなら抗うのだ。食い千切られながらでも斬りつけてやる。

 死を覚悟し、だが諦観とは程遠い精神で、より一層の生命力を滾らせる。

 物の映らぬ視界を巡らせ、おそらく重竜グラリアがいるであろう方向を


「……んぁ、れ?」


 そして、怪訝な声を上げる。

 今のシルティの頭部には眼球がない。

 だというのに、シルティには竜の姿が見えた。

 赤いような黒いような視界で、重竜グラリアの姿をかたどる、虹色の光。


(あ。そっか)


 鮮明に、鮮烈に、存在を主張する生命力の塊。


(マルリル先生に会えて本当によかった……)


 霊覚器は物質的に存在する器官ではない。物質の眼球を失っても、精霊の目は機能を失わない。それどころか、今のシルティの霊覚器はかつてないほど研ぎ澄まされているようだ。死に瀕した興奮と立て続けの形相切断により、精霊の目の構築が一気に進んだのだろうか。


「んふふふ、ふふ……」


 堪えきれず、笑みがこぼれる。

 死を受け入れるには少し早かった。

 敵がちゃんと見えるなら、シルティはちゃんと戦える。

 心臓が燃え、身体と〈紫月〉に生命力が満ち、戦意で脳がゆだり始めた。


 尾で顔面を抉ってやったのに変わらず立ち上がった獲物シルティを警戒しているのか、先ほどまで見せていた獰猛さは鳴りを潜め、重竜グラリアは頭をこちらへ向けてジッと佇んでいる。

 シルティには、にゅるんにゅるんとふんを出入りする先の割れた舌から、ゆっくりと蛇行する長い尾の先端まで、全てがくっきりと認識できた。

 ただ、距離感が微妙だ。精霊の目のみで捉える像はどうにも立体感が掴みにくく、平面に投影された虹色の絵のように見える。記憶にある重竜グラリアの大きさと比較して考えるに、大体二十歩ほどだろうか。

 見えるのは重竜グラリアだけではない。周囲に立ち並ぶ木々もうっすらと見える。足の下で無数にきらめく光はおそらく地虫ジムシ蚯蚓ミミズなどの土壌動物だろう。星空のようで綺麗だ。

 残念ながら地面自体は全く見えないので、今までのように走って肉薄するのはちょっと難しい。

 だが、この場に待ち構えて重竜グラリアの接近を察知し、斬ることはできる。


(……? あっ。ああ。なるほど。……竜って、ほんと凄いな……)


 そこでシルティはようやく気が付いた。いつの間にやら重竜グラリアの尾の先端が元のように伸びている。あれのおかげでシルティは間合いを見誤り、顔の上半分を失うことになったのだ。あの一瞬で、瞼の出血を止めるだけでなく尻尾を元通りに生やすとは。

 見れば、斬り落とした左後肢の出血も既に止まり、傷口が盛り上がり始めていた。流石は竜、本当に凄まじい再生力である。


(私も、腕ぐらいすぐに生やせるようにならなきゃなぁ……)


 昔から、シルティは意識的な再生の促進がかなり苦手だった。

 深く集中して己に言い聞かせればある程度は促進できる。至近距離から爆破され、左半身が酷く焼けただれても、四日ほどで完治させられるくらいには促進できる。戦闘を生業としない人々――例えば『琥珀の台所』看板娘エミリア・ヘーゼルダイン――と比べれば、充分に優れた再生力だと言えるだろう。

 だが、熟練の戦士たちのように、殺し合いの最中に失った四肢を生やす域には遠く及ばない。

 何故、シルティは身体の再生が苦手なのか。

 実のところ、理由は明らかだ。自覚がある。


 シルティはもっともっと上背うわぜいが欲しかった。

 おっぱいも、こんなに大きくなくていいと思っている。

 つまり、自分の身体を、そもそも理想的だとはあまり思えていない。


 生命力の作用による肉体の再生は、自分の健康な身体を目指して行なわれる。ゆえに、己が抱く理想と現実との乖離かいりが大きい個体は、身体の再生が不得意になる傾向があるのだ。シルティもこの例に漏れず、肉体の再生が本質的に苦手だった。

 自分の身体を愛せるかどうか。努力や鍛錬では改善し難い部分の話である。少なくとも、今この場でどうにかできる問題ではない。

 左腕と両眼球を失い、鼓膜は破れ、鼻筋は大きく抉れたこの身体のまま、重竜グラリアを斬らなければならない。

 やることは単純明快だ。

 重竜グラリアが突っ込んできても、魔法を使ってきても、どちらにせよ真っ向からぶった斬る。

 シルティの人生は切断の連続だった。斬りたいから斬る、あるいは斬らねば死ぬ、その連続だった。だから、今からやることは、いつもの生活と同じだ。

 蕩けるような興奮と日常の清閑せいかんさを精神に同居させ、シルティは微笑む。


「よし、来い。勝負、だ……」


 右手一本で握る〈紫月〉を肩に担ぎ、左足を前に。右足は外に開いて、腰を低く。


「全部、斬っで……み、せる、から……」


 首を捩じられたせいか、どうも、発声がうまくいかない。

 それでも朗らかに、友人に対するような気安げな言葉を吐くシルティ。

 シルティの言葉を理解したわけではないだろうが、重竜グラリアが動いた。シルティを中心として円を描くような動き。シルティの正面を避け、側面を取ろうとしている。獲物の眼球を潰したことを理解している動きだ。

 シルティは相手の移動に合わせて身体の向きを細かく調整した。それで、重竜グラリアはシルティの視界が生きていることに気付いたらしい。

 迂回を止め、首を高くもたげる。

 その瞬間、重竜グラリアの身体を巡る生命力に、凄まじい偏りが生まれた。


「ふへ……」


 シルティの口元がだらしなく緩んだ。

 本能でわかる。竜の象徴たる『咆光ほうこう』が来る。シルティなど簡単に消し去ってしまえる魔法が来る。

 重竜グラリアは生意気なシルティに接近せず、自らの誇る最大火力で遠距離から消し飛ばしてしまうことにしたようだ。竜の狩りにおいて『咆光』は滅多に使われない。『咆光』の光を浴びた物質は文字通り消滅してしまうので、これで獲物を仕留めても可食部が残らず、歩留ぶどまりがとても悪いためである。

 だというのに、重竜グラリアはそれを使おうとしている。

 つまり、シルティの事を食べ物ではなく、明確な敵だと認識してくれたということだ。

 堪らなく嬉しい。


 にまにまと笑うシルティには、重竜グラリアの頭部が煌々と輝いて見えていた。まるで燦然さんぜんと輝く虹色の太陽のようだ。目がくらむ。ただでさえ精霊の目に映る視界は立体感が掴みにくいというのに、これではもう、影絵のようにしか見えない。

 間合いが掴めない。

 どうにもならない。

 勘で斬るしかない。

 じゃあ、大丈夫だ。

 シルティは昔から、切断に関する勘の良さについては絶対の自信がある。


 息を静かに吸い。

 止めて。

 待つ。

 次の瞬間、シルティの背筋はゾワリと怖気立おぞけだった。

 ああ、死ぬ。


「ぁはッ」


 性的興奮にも似た昂ぶりを覚え、シルティは恍惚と笑った。

 手で触れそうなほど現実感のある死の気配。六肢動物と確かに渡り合っているという人生最大の興奮。そして幼少の頃より培ってきた、実績を伴う不遜な自信。全てを糧として生命力を煮詰め、湧き立ったそれを四肢へ送り出す。

 死んでもいい。

 だが、殺してみせる。

 死んでも、殺す。

 瞑眩めんけんした目を凝らし、平たい重竜グラリアを視界の中央に。

 が、シルティの認識のたがを無意識に緩め、力強くこじる。


 捕食者の咢ががぱりと開かれ、凝縮された破壊が放たれた。


 臆さず、勇ましく、強く踏み込む。

 ぐつぐつと沸騰する生命力をギチギチと押し込んだ〈紫月〉を、全身全霊、会心の滑らかさで振るった。


 超常の斬撃と化した〈紫月〉はその存在の全てを燃やし尽し、刀身を消滅させながらも、いっそ呆気ないと思えるほど簡単に、竜の魔法『咆光』を切開した。

 どういうわけか、その切断のことわりは、遥か間合いの外にいたはずの重竜グラリアの頭部にまで達していた。

 シルティの全身全霊の暴力は、竜の魔法と頭部を見事に切断し、なおも止まらず、頸部の半ばまで縦に引き裂いた。

 シルティの身体を避けるように二又に分かれた光の奔流は、そのまま背後へと流れていき、進路上に存在した大気と木々の樹幹を消滅させながら、森の奥へと消えて行った。


 決着に数瞬遅れ、重竜グラリアがビグンと身体を跳ねさせる。あしの痙攣に伴ってシルティの身長を超えるほどの跳躍を見せたが、着地と同時にぐしゃりとくずおれた。外力により二分にぶんされた重竜グラリアの頭部はめくれるように広がり、裂け目から脳を零れさせる。頭部のサイズの割に脳はかなり大きい。断面は白いが、表面は血に濡れて桃色を呈している。

 さしもの竜といえど脳の損壊は致命傷だ。

 世界最強にその名を連ねる重竜グラリアは、今、シルティの斬撃の前に命を散らした。


 そしてシルティもまた、切開した『咆光』の余波により身体を吹き飛ばされ、地面に投げ出されていた。


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