第104話 喪失



 空中に浮かぶ虹紅の血珠に突っ込む。

 シルティは顔面を真っ赤に染めつつ、口腔に取り込んだ竜の血をごくりと飲み込んだ。


ッ)


 魔法『完全摂食』が瞬時に働き、胸骨の裏側が燃えるような熱を帯びる。

 初めての竜の生き血。味や香りは他の動物の血液と大差ない。

 ただ、粘度が妙に高くてとしており、舌の根に纏わり付くような舌触りがかなり不快だった。


(ッぁッ!!)


 だというのに、なぜだか、めちゃくちゃ美味しい。

 シルティの生命体としての根源が、摂取した滋養に大喜びしている。ただでさえ限界に近かった心拍数が跳ね上がり、心臓が破裂してしまいそうだ。鼻腔の奥から吹き出すように血が溢れ、垂れる。鼓膜の破れた耳の奥で、ズグンズグンと、血管が膨縮する心地のよい音が響いた。

 体内で暴れ狂う大河のような生命力の奔流。シルティの人生でもここまで瞬間的に膨大な生命力を補給したことはない。喉が震え、呼吸が深く早くなり、頭がぼうっとする。だというのに、目に映る景色はやけにのんびりとしていた。

 昂ぶりが抑えられない。

 幸いなことに、この熱狂を遠慮なくぶつけられる対象は、目の前にいる。

 抑える必要がない。


 竜の血で赤く染まった目を爛々と見開き、シルティが強く踏み込んだ。

 重竜グラリアが身を翻し、再度咬み付いてくる。凄まじい速さだ。先ほどまでと違って随分と真剣さを感じる。尾の切断は重竜グラリアとしても軽視できるものではなかったのだろうか。

 咬み付きを右に躱す。一時的に潰した左目、視界の外へと逃げる。重竜グラリアは間髪入れず脇腹をぶち当てに来た。中肢の鉤爪をこすり付けるような体当たり。矮小化しているとはいえ竜の爪だ。あれに引っ掛けられたら身体が千切れ飛ぶだろう。

 今のシルティならば躱すのは容易い。急停止と急加速。余裕を持って回避。遅れてくる横薙ぎの尾を低く短い跳躍で乗り越える。付随する衝撃波を強化した半長靴で踏み潰し、シルティはご機嫌に笑った。判断と反応が半瞬でも遅れれば死ぬ状況だ。実に楽しい。

 重竜グラリアが身体をくねらせ、反転、咬み付き。今度も右に躱す。とにかく視界の外へ逃げる。重竜グラリアの前肢が地面を掴み、尾が波打つ。その巨体からは想像もつかないほど迅速な方向転換。逃げるシルティをさらに追いかけ、執拗な咬み付き。


 長い尾を振り回す反動を利用する重竜グラリアの咬み付きのキレは尋常なものではなかった。

 だがそれでも、シルティには追い付けない。

 沈身。空気を噛み砕く重竜グラリアの顎の下をくぐり抜け、こちらも執拗に右へ。

 それを待ち受けるのは前肢での引っ掻き。

 シルティは、生命力を滾らせ、笑顔でそれを迎え入れた。

 


 対面から背中が見えるほど腰を捻り、つかを握る右手を滑らせ、柄頭つかがしらを握る左手に接触させる。今、必要なのは、とにかく威力。精密さは二の次だ。〈紫月〉という太刀を最大限に使

 身体を低く。左足を前に踏み出し、地面を掴む。

 捩りに捩った腰を解放。

 襲い来る竜の爪に、まるで大鎚を振り回すような豪快な逆水平をぶちかました。

 無敵のはずの竜の爪が、シルティの会心の剛剣により弾かれ、大きく逸れる。


「ぁあはぁっ!!」


 世界最強の一撃を真っ向から迎撃するという無茶は、当然の如く、シルティの身体にも甚大な被害を与えた。

 吐き出す息には血の香りが混じる。全身の筋肉と血管が千切れ、身体の至る所が灼熱感を訴えていた。両腕の骨には亀裂が入っただろう。

 だが、そんなことはどうでもいい。

 竜の殴打を見事に弾いたという実績に、脳が痺れて堪らない。

 溢れ出る幸福感を溶かし込んだ生命力がシルティの全身を駆け巡る。


 私は竜をぶん殴ってぶっ飛ばせるのだ。

 つまり、もっと速く強く動けて当然だ。


 直前の実績は、シルティの強さをシルティ自身に過大評価させ、世界はそれを容認した。

 生命力の作用、身体能力増強が、

 万能感に酔い痴れるシルティが、爛々と輝く目で獲物を捉えた。左前肢を強く弾いたおかげで、今の重竜グラリアは体勢が崩れている。

 調子に乗ったシルティは気の赴くままに跳躍をかまし、重竜グラリアの背に跳び乗った。生きた竜の背に乗る。これもまた、蛮族にとっての偉業である。やれる時にやっておかなければ、という謎の思考にシルティは囚われていた。冷静な判断ができていない。

 シルティの足が背の鱗に触れた瞬間、重竜グラリア。自身の背骨を回転軸とする強引な旋回。ワニが咬み付いた獲物を食い千切る際に見せるものに似た、力強く恐ろしい必殺の回転デスロール。巻き込まれていればただでは済まなかっただろう。

 つまり、シルティは巻き込まれなかった。瞬間の足触りから直後の旋回を察知し、短い跳躍により難を逃れたのだ。

 空中で足下で狂ったような寝返りを打つ重竜グラリア。その回転を愛おしげに見つめ、シルティは〈紫月〉を振るう。

 相手の回転力をこちらの切断力に変換する絶妙な水平は、重竜グラリアの胸部をさくりと斬り裂き、遠心力により広がる薄っぺらい血の輪を咲かせた。

 最も近い位置にあった飛鱗を操作し、自らの元へ。その飛鱗の腹をトンと踏み、空中で跳躍。宙返りして地面に舞い戻る。


 全身に浴びた竜の血液を舐めながら、シルティは笑った。

 まあ、深くはない。だが決して、浅いとは言えない傷だ。


 胸からたぱたぱと血を垂れ流しながら、シィャアアアア、という、風切り音に似た咆哮を上げる重竜グラリア。あまり声帯が発達していないのか、音量は控えめだ。しかし、開かれた右の目には憤怒と殺意が混じっている。左目瞼の切開、尾の切断、そして胸部の一撃。敵と見做されるには充分な損害だろう。

 なんと喜ばしい視線だ。シルティは有頂天で踏み込んだ。

 迎え撃つ咬み付き。それをさらに右へ躱し、竜の左側面を取る。まだ重竜グラリアの左目は開いていなかった。追い討ちをかけて眼球まで斬っておきたい。が、さすがにこのままでは近すぎる。

 右後方へ一歩距離を取りつつ、重竜グラリアの左目へ向けて引き胴を放つ。が、一歩分の猶予が重竜グラリアの迎撃を成立させた。長い頸部を存分に使った凄まじい頭突き。硬い鱗で覆われた側頭部が〈紫月〉の物打ものうちを痛烈に弾き返す。シルティは巧みに脱力して衝撃をなしつつ、その勢いをも利用して執念深く竜の右側面へと張り付く。


 その瞬間。

 シルティの視界が虹色に染まった。


(ぅげっ!)


 魔法が来る。まさか。引き伸ばされた時間の中で視線を飛ばすと、重竜グラリアの左目は既にぱっちりと開いていた。つい一瞬前まで血が滴っていたはず。見れば、視界の端に映る尻尾もまた出血が止まっていた。この一瞬で。なんという再生速度だ。

 竜の再生力を見誤った。体勢が悪い。弾かれた〈紫月〉は間に合わない。

 シルティは左手を右腿へ、革鞘に収まった鎌型ナイフ〈玄耀〉へと走らせた。

 シルティは〈紫月〉を愛している。そして〈玄耀〉も愛している。甲乙つけがたい。だから〈玄耀〉でも斬れる。シルティにとっては当たり前の話だ。

 形相切断。

 抜き放たれた矮小なナイフが致死の重力圏を切開し、シルティは九死に一生を得た。

 間髪入れずそこへ襲い掛かるのは、シルティをずるりと丸呑みにできそうな、馬鹿げた大口おおぐち


(あ)


 これは無理だ。躱せない。


 息を素早く大きく吸う。〈玄耀〉を固く固く握り締め、左手で拳を作った。

 無理に斬撃を繰り出したせいで流れた身体を、流れたなりに限界までひねり、右手に握った〈紫月〉を左袈裟に。今この場で生み出せる全ての慣性と体重を束ね上げ、拳に乗せて全力で放った。

 ぞぶり。低空から斜めに走る左拳が重竜グラリアの口腔内に飛び込み、握られたままの〈玄耀〉が口蓋へと深く突き刺さる。その刺し傷を確かな支点として、シルティは腕を全力で突っ張った。致死圏竜の咢から、大事な大事な脳と心臓を遠ざけるように、全身全霊で。

 前腕がひしゃげ、橈骨と尺骨が肘を突き破る。上腕骨が圧潰し、シルティの背中では肩甲骨がと隆起した。なんという雄大な暴力だ。頑丈な革鎧で胴体が包まれていなければ、シルティの肩甲骨は背中から完全に飛び出していただろう。

 ふと、シルティの脳裏にハエの姿が浮かんだ。いつも、目障りな羽虫を手のひらでぺしぺしブッ叩いて追い払っていたが、彼らもこんな気分だったのだろうか。

 シルティは無邪気に感動した。これでこそ竜。こうでなくては。

 直後。

 重竜グラリアの咢が容赦なく閉じられた。

 シルティの左腕、上腕の半ばから先が、重竜グラリアの口の中へと消える。


(ぁあッ)


 シルティの顔が悲壮に歪んだ。

 左腕。上腕半ばからの欠損。

 そんなことはどうでもいい。

 いや、もちろんこの場この時の戦闘能力はガクンと落ちるが、生きていれば十数日で治るだろう。

 だが、飲み込まれた〈玄耀〉は。

 どれだけ生命力を滾らせても、どれだけシルティがこいねがっても、二度と、絶対に、戻ってこない。


 愛する〈玄耀〉を呆気なく失った不甲斐ない自分へ、燃え滾るような憎悪を募らせる。

 負の灼熱すらも糧として、シルティの動きはさらに加速した。

 尊い犠牲を無駄にしてはならない。腕一本とナイフ一本。致死の境地から脱するための代償としては破格も破格だ。血を噴出させながら身体を旋回させ、咬み付きを成功させて動きを止めた重竜グラリアの側面を転がるように擦れ違う。二回転して見えてきたのは左後肢の付け根。


 絶対に斬る。

 斬らねば、〈玄耀〉に申し訳が立たない。


「んうッ!!」


 鋭い呼気と共に、全力の踏み込み。

 右逆袈裟、左袈裟、右逆袈裟、左袈裟。

 返り血を完全に置き去りにする神速の剣閃。まばたきひとつの間に二往復した〈紫月〉が完全に同一の軌跡を斬り進む。極限に精密なゴリ押しの連撃だ。初太刀で硬い鱗を切開。切り返した二の太刀で強靭な筋肉を裂く。さらに戻る三の太刀が極太の大腿骨を断ち、満を持して全力で振り下ろされるとどめの四の太刀が、重竜グラリアの左後肢をついに根本から斬り落とした。


 明確な痛手を負った竜が、紛れもない怨嗟の咆哮を放つ。

 その間近、シルティは血塗れの顔で恍惚とした。

 右腕一本で放ったというのに、四度の斬撃すべてが脇腹を引っ掻いたときとは比べ物にならない鋭さ。竜の尾を輪切りにしたという実績は、〈紫月〉ならば竜すら斬れるという確信となり、シルティの武具強化のほどを格段に引き上げている。

 強いやつを斬れば斬るほど、シルティの斬術は根源的に冴え渡るのだ。

 思えば最近、形相切断に至ったことでどこか満足してしまっていたかもしれない。

 確かに形相切断という現象は武具強化の到達点の一つではある。だが本来、物を斬るすべに『果て』などない。

 シルティの握る刃物はまだまだ高みに登れる。それが、堪らなく嬉しい。

 朗らかな殺意と艶やかな興奮を身体に漲らせ、シルティはさらに生命力を振り絞った。


 残る三本の肢を使い、重竜グラリアが暴れる。さすがに肢の一本を根本から斬られれば、竜も本気になるようだ。シルティは危険極まりない駄々だだを至近距離でなし、躱し、時折斬り付ける。ひとつひとつは軽傷だ。ひとつふたつの呼吸で癒えてしまう程度のもの。だが、重竜グラリアの身体は確かに出血している。少しずつ、血にまみれていく。

 使っても無効化されると思っているのか、それとも意外と消耗が激しいのか、あるいは重竜グラリア流の戦闘の駆け引きなのか、両目が健在だというのに魔法『視経制圧』を使って来ない。シルティは重竜グラリアの視線と視界に細心の注意を払いつつ、重竜グラリアに纏わり付いて斬り結んだ。


 重竜グラリアの頸部が僅かにたわんだ。

 幾度目かの咬み付きが来る。シルティは後方へ跳び、舌の長さを考慮した間合いで躱す。

 直後、重竜グラリアは身体を大きく転回させ、シルティに左の脇腹を見せた。

 遠心力を存分に乗せた尾の一撃が来る。右から左。斬り飛ばした尾の長さは覚えている。拳一つ分だ。

 相手の腰の位置は把握済み。これを躱したら、潜り込んで、急所――総排出腔お尻の穴をぶった斬る。

 数手先まで身の振り方を決めたシルティは、さらにもう一歩後退し、紙一重で尾を回避しようとして。


 バチュッ。

 脳に轟く湿った音。

 凄まじい衝撃を受け、シルティの身体が無様に流れた。


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