第103話 体得



「んあッ!」


 出鱈目な暴力を受けた〈紫月〉が出鱈目な勢いで弾かれる。

 殺し合いの最中さなかに愛する〈紫月〉を手放す、などということは一切考えられないシルティは、咄嗟に手の内を絞め、その暴力を全て右腕で受け止めることになった。

 骨に響くという異音、そして、激痛。

 シルティはぶっ飛ばされた勢いに逆らわず一度地面に倒れ込んだ。縦に回転する身体を丸めて流れを作りつつ、無事な左手を用いて跳ね起きる。肩が痛い。つまり、死なずに済んだ。だが残念なことに、跳んだ方向があまりよくない。重竜グラリアの真正面だ。小さな黒い瞳がシルティを見た。

 先んじて魔術『操鱗聞香そうりんもんこう』を発動。革鎧から三枚の飛鱗を精密性度外視で射出し、重竜グラリアの顔面へ向けてばら撒く。

 もちろん、これらの飛鱗が重竜グラリアの鱗を斬れるわけもないことはわかっている。ただの目晦ましだ。他に手がない。重竜グラリアの注意を引き付けつつ全身全霊で地面を蹴り、重竜グラリアの側面へ滑り込む。

 その直後、重竜グラリアの頭部付近の空間に虹色の揺らぎが生じ、視認された三枚全てが地面に墜落した。

 それどころか、影響範囲内に収まっていると思しき地面が、深々とした。


(ぅおっ!?)


 あまりにも馬鹿げた重圧。視界の端で見れば、先ほどまでシルティがいた地点、重竜グラリアの周辺の地面もまた同様に陥没している。前腕ほどの深さの陥没孔シンクホールだ。あんなものを突然地面に生み出されてしまっては、足を踏み外すのも当然というもの。

 柔らかい湿地や砂地ならばともかく、猩猩の森の土壌はそれなりに緻密である。これを広々と陥没させる重圧。シルティには到底実現できない暴力だ。

 しかも恐らく、まだまだ本気ではない。

 つまり、出会い頭にシルティが喰らった最初の『視経制圧』は、腫れものに触れるが如く手加減されていたということだ。最初からこの重さで潰されていれば、シルティは無様にも地面に這いつくばり、立ち上がることすらできなかっただろう。

 シルティは挽肉や魚のすり身なども美味しくて大好きなのだが……どうやら重竜グラリアの方は、シルティ食べ物をぐちゃぐちゃに圧し潰す趣味はないらしい。


 戦慄興奮するシルティを余所に、重竜グラリアはのんびりと身じろぎした。シルティの方を振り向こうとしている。

 シルティは残る全ての飛鱗を吐き出し、重竜グラリアの頭部周辺へ向けてさらにばら撒く。これも敢え無く押し潰される。しかし、薄紙のような猶予は生み出せた。無理矢理に作り出した時間を存分に貪り、全力で退避。重竜グラリアの後方、森の奥へと逃げ込んだ。

 見たところ『視経制圧』の効果範囲はかなり広く、注視点だけでなく重竜グラリア自身の背後にまで影響が及ぶようだが、視界に依存する魔法である以上、視線が通っていなければ直接的に受けることは無い。はず。

 立ち並ぶ木々を二重三重の障害物として、シルティはひとまず猶予を生み出したと思い込んだ。


(かっ……こいい!!)


 流石は竜。出鱈目すぎる。めちゃくちゃ強い。かっこいい。

 はっ。はっ。短く強く空気を摂取しながら、シルティは右腕を検めた。

 ところどころに筋肉が切れているような痛みがあるとはいえ、幸いなことに腕はくっついている。手首と肘も辛うじて無事だ。だが、肩がぶらぶらと頼りなくなってしまった。感覚からして骨折はしていないが、整復しなければまともには動かせない。


「うひひひ……」


 超越的な暴力を味わい、ついつい唇が緩んでしまう。

 壊れたのは肩だけ。〈紫月〉は無事だ。愛する〈紫月〉は竜の一撃を見事に凌いでくれた。誇らしくて堪らない。

 シルティはすぐさま身を隠している樹幹に左肘を付き、腰から身体を前屈させ、頭と、脱臼した右腕をだらんと下垂させた。握り締めた〈紫月〉をおもりとして右腕を伸ばし、肩甲骨の肩甲棘けんこうきょくと上腕骨が一直線になるよう調整。肩甲下筋けんこうかきん棘上筋ちょくじょうきんといった深層筋を意識して生命力を滾らせ、最後に、全力を込めて引き絞る。

 肩関節を支える上肢帯筋じょうしたいきんが右腕を強く引っ張り上げ、上腕骨頭が関節窩かんせつかに収まった。

 素早く肩を回す。違和感なし。

 素早く目を拭う。視界は良好。


 よし。

 と、安心したのも束の間。

 身体を貫いた嫌な予感に従い、シルティはその場を全力で離脱した。

 直後、障害物としていた太い木々たちが勢いよくの字に圧し折れ、嘘のように吹き飛んだ。

 重竜グラリアが突進し、頭突きを見舞ったらしい。


 重竜グラリアの視界を遮る衝立ついたてが消えた。

 重竜グラリアがシルティを見た。

 シルティも重竜グラリアを見た。

 瞬間、シルティの視界が虹色に揺らめく。


「ひひっ!」


 引き攣ったような笑いを響かせながら、シルティは〈紫月〉を真っ直ぐに振るった。

 形相切断。

 確信に満たされた唐竹割りは、重竜グラリアの魔法を再び切開する。


「はあっ……はっ……はあぁ……はぁぅ……」


 最強種の魔法を二度も無力化した蛮族の少女は、頬を上気させ、恍惚とした笑みを浮かべ、湿度の高い吐息を漏らしていた。

 対する重竜グラリアは無言のまま、その小さな頭部をにゅっと持ち上げ、シルティを睥睨へいげいする。

 先ほどまでと違い、その視線には警戒と殺意の色が表れていた。


(竜が、竜が、私を、見てるぅ……)


 この重竜グラリアが何歳なのかは想像もつかないが、『視経制圧』を無効化された経験は相当に少ないはずだ。

 二度も魔法『視経しけい制圧せいあつ』を使ったのにも関わらず無傷。確かに尻尾で打ち据えたにも関わらず、まだ身動きしている。弱いくせに逃げもせず、なまくらな太刀鉤爪で引っ掻いてくる。

 そんな獲物シルティのことを、生意気でむかつく、と認識したのかもしれない。


「うふっ……んふふふふふ……!」


 シルティはその視線を、竜から敵と認められたあかしと解釈し、大いに喜んだ。

 涎を垂らさんばかりの表情を浮かべながら〈紫月〉を上段に構え、左足を前に、腰を少し落とす。


 重竜グラリアは、総排出腔お尻の穴を狙われるのを嫌がった。

 さすがの竜といえど、あそこは弱いらしい。

 ならば。


(殺せるッ!!)


 全身にやる気を滾らせ、シルティは真正面から全力で踏み込んだ。

 愚直に突進する獲物シルティを注視し、重竜グラリアは三度目の魔法を行使した。

 シルティの周囲が虹色を帯びる。

 精霊の目を全開にし、物質の目を爛々と輝かせながら、シルティは笑った。

 本当に楽しすぎる。

 今はもう、なにをしても失敗する気がしない。


 形相切断。

 断定を帯びたシルティの右袈裟が、『視経制圧』の領域をまたもやすぱりと斬り開く。


「あっははははッ!」


 シルティは腹の底から大笑した。さっきから笑い過ぎて酸欠気味だ。だが、骨髄の奥から溢れるような歓喜は止められない。

 高みに至った。極意を掴んだ。完全に体得した。

 今ならきっと、百回やって百回斬れる。奇跡の斬術が己の当然に変わったという確信があるのだ。

 右袈裟の慣性を左脚へと流し、爆発的な加速を得てさらに突進する。


 シルティの笑声しょうせいを威嚇と認識したのだろうか、重竜グラリアが動いた。

 生意気な獲物に向かって、こちらも、真正面からの突進。


(ぉおっ)


 引き伸ばされた時間感覚の中、シルティは心の底から感動した。

 さすがは竜だ。もはや気持ち悪いほどに速い。

 シルティからすればやや短くも見えるその四肢で、シルティからすればやや不格好にも見えるその走行姿勢で、だがしかしシルティの踏み込み速度を遥かに上回っていた。

 直線速度では完全に負けている。距離を取ればすぐさま死ぬ。

 単純筋力でも完全に負けている。下手に受ければ簡単に死ぬ。

 唯一、シルティが竜にも負けていないと信じられる己の性能。

 それは、幼少の頃から一途いちずに磨き続けた、動きのキレだけだ。


 シルティの体内を巡る蛮勇なる血が、声高に主張していた。

 世界最強の種に、私の身体の素晴らしさを見せてやれ。

 己が磨き上げてきた、最も自信のある性能キレを存分に見せびらかし、死ぬほど圧倒してやれ、と。


 私ならできる。


 熱に浮かされたシルティが自らの血と才を妄信した直後、重竜グラリアが〈紫月〉の間合いに入った。

 重竜グラリアが大口を開け、シルティの胸に咬み付こうとしている。

 速い。

 顎のふちには鋭い牙が無数に並んでおり、まるでのこぎりのようだ。シルティが革鎧をどれだけ強化しても、竜の牙の前には焼け石に水だろう。

 あでやかな赤桃色を呈す口腔内。ここも急所あなの一つではあるが、同時に魔法『咆光』の出口である。おいそれと狙うべきではない。


 私ならかわせて当然。


 シルティはさらに傲慢な笑顔を浮かべ、身体を捻りつつ左脚をするりと前へ伸ばした。爪先と拇趾球ぼしきゅうで地面を捉えて足首を僅かに捻り、かかとで柔らかく支え、膝と股関節で吸収する。

 たったそれだけのことで、瞬間移動にも等しいシルティの突進は嘘のようにビタリと止まった。

 前進により生まれた莫大な慣性を、柔軟かつ屈強な体幹筋に。刹那の停滞を作り出し、重竜グラリアの動きを観察、次の手を決める。保管した慣性を解放、骨格に沿わせて向きを整え、左脚へとした。

 予備動作を完全に省略した、しかし全力の踏み込みが実現され、シルティの身体は直角に加速する。

 最高速度から静止状態へ、停止状態から最高速度へ、瞬時の移行。

 完璧な足運び。会心の重心操作。ここ数か月で最高のキレ。今のシルティは絶好調というほかない。


 胸元を齧りにくる重竜グラリアあぎとを余裕を持って躱し、同時に〈紫月〉を振るう。身体ごと旋回させ、思いっきり体重を乗せた逆水平。重竜グラリアの左目を狙った一撃。

 耳障りな金属音が響く。

 重竜グラリアは瞼を閉じて防ごうとした。しかし〈紫月〉はそれを食い破った。堅固けんごな竜の鱗でよろわれた瞼を浅く引き裂く。眼球には届いていない。掠り傷だ。それでもほんの数呼吸のあいだは、重竜グラリアの視野をぐっと狭められるだろう。

 目に傷を負っても重竜グラリアの動きは止まらない。地面を踏み砕きながらシルティの横をすり抜けていく。

 その動きに僅かに遅れ、鞭のようにしなる凶悪な尾の一撃。

 空気を破裂させながら襲い来る先端。音より速いその凶器が、今のシルティには克明に目視できる。

 主観時間に比べればムカつくほどにのろい身体を叱咤しつつ、シルティは笑った。


 私なら斬れる。


 爛々と輝く目を見開き、重竜グラリアの尾の軌跡を予知に近い精度で把握。

 両手で握る〈紫月〉を立て、最も強い鍔元で、柔らかく、優しく、丁寧に


「んぬあッ!!」


 筋骨を粉砕し貫通する容赦ない衝撃。眼窩の奥から火花が散った。

 関節の屈曲ではとても吸収し切れない。息を止めて覚悟して万全の体勢で迎え入れたというのに、肺腑が無残にも押し潰され、流出した空気が声帯を揺らし、シルティの意思に反して奇妙な音を鳴らす。

 巨大な竜巻を小さく凝縮したかのようなむごたらしい手応え。半歩でも間違えれば死ぬだろう。

 本当に、常識外としか言いようのない、ふざけた暴力だった。

 だがそれは、シルティの想定外では、決してなかった。


 引き伸ばされた主観時間の中、シルティは予定通りに両脚を脱力し、沈身と共に刀身を寝かせた。同時に両掌を固く握り絞め、〈紫月〉を持って行かれないように全力で保持する。

 筋骨を壊しながらも実現した優しい接触、そしてそれに続く超常的に滑らかな角度調整と力加減。重竜グラリアの尾が内包した暴力は刀身の弧に沿って滑り、おぞましい擦過音を立てながら鍔元から切先へと流れていく。

 相手の筋力と〈紫月〉の刀身を余すことなく注ぎ込んだ、撫で斬りの極致。

 研ぎ澄まされた鋸折紫檀の刃が竜の鱗をつぴりと斬り裂き、内部に収められていたギチギチの筋肉へと潜り込んだ。それをで察知した直後、シルティは身を低くしたままさらに半歩踏み込み、手の内を緩め、絞め、僅かに斬り込む。


 ざぱ。


 鱗を斬り裂き筋肉を露出させる極限の鋭さ、そして奇跡のようなタイミングで付け加えられたにより、〈紫月〉の一撃は竜の尾を見事に輪切りにした。会心の斬撃だ。ここまでしなければ斬れなかった。本当に素晴らしい尻尾である。

 間髪入れずに身体を翻し、シルティは竜を追う。重竜グラリアは突進の勢いを殺し切れず、尾を振り回しながら振り向こうとしている最中だった。純粋な直線速度では重竜グラリアには敵わないが、やはり、動きのキレではシルティの方が上だ。

 尾の先端を拳一つ分だけ斬り飛ばされ、断面から勢いよく噴出する重竜グラリアの血。人類種のものよりも少し明るい色合いをしている。霊覚器のおかげか、うっすら虹色に揺らめいているようにも見えた。


 ちょうど、顔面の高さに一塊ある。


 シルティは嚼人グラトンの本能に逆らうことなく口を開け、空中に浮かぶ虹紅の血珠に突っ込んだ。


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